「いい人でいたい」と自己犠牲を払いがちに
「自分さえ我慢すれば」「自分が犠牲になればいい」・・「いい人でいたい」「人から悪く思われたくない」が強い人ほど反射的に自己犠牲を払いがちです。
「私はこんなに我慢してるのに!」といつか爆発することも自己主張が苦手だったり、「自分は我慢して相手に譲ることが常に美徳」と思い込んでいると、「自分さえ我慢すれば」が癖になってしまうことがあります。見返りを求めずに相手のため[…]
その時は波風が立たず事が収まり、自分も良いことをしている気になります。社会生活では「困った時はお互い様」の助け合いなど、時には自分から譲ることや、満員電車や残業など、皆がお互いに我慢しあう、そうしなければ成り立たないことも多いです。しかしそれは、「私ばっかり」の自己犠牲とは異なります。
しかし「困った時はお互い様」ではなく、自己犠牲が常態化すると、自分は疲弊し、知らず知らずのうちに心の奥底に恨みが溜まります。そして相手は「やってくれて当然」のエゴが増大します。それが聖人君子ではない、ごく普通の人間の心の成り行きでしょう。
ところで、相手と自分の双方に良く、ためになる姿勢をWin-Win(勝ち-勝ち)と言います。自己犠牲はWin-Lose(勝ち-負け)です。
Win-Loseは長い目で見ればLose-Lose(負け-負け)になります。上述したように、いつの間にか溜まった恨みが、相手への不信や嫌悪になり、その状態で「相手だけが良い思いをする」ことはないからです。
例えば恋愛で、どちらか片方だけが献身的に犠牲を払い続け、相手はその犠牲の上に胡坐をかく、それをして幸せなカップルであり続けることはやはりなく、いつか破綻してしまいます。つまりLose-Loseです。ですから、Win-Loseになる自己犠牲は「やってはいけない」のです。
どのような心構えでいれば、自己犠牲を払わず、互いがWin-Winになる選択を瞬時に取れるでしょうか?本来は不要の罪悪感を抱かずに、Win-Loseを拒絶できるでしょうか?
自分のパイを与えてしまう方が「手っ取り早い」
子供の頃、自分が我慢して他人に譲ると、親や教師などの大人に褒められたり、「鶴の恩返し」の童話を美しい物語のように教わると、「自己犠牲はするべきもの」と思い込んでしまいかねません。
大人にとって、「全体を丸く収めるために、自分から我慢してくれる子」は「都合の良い子」です。「何で私ばかり我慢しなきゃならないの!」と爆発できれば、まだ良いのです。「親を悲しませたり、困らせたくない」良い子は、そんな本音さえ否定し、飲み込んでしまいます。そして「本当は嫌なこと、したくないこと」を「当然するべきこと」と思い込み、自分の本音がどんどんわからなくなってしまいます。
子供の間は、自分が払った犠牲が本当に全体のためになったか、相手を増長させるだけだったのかの判断はできません。広く長期的な視野を持ちようがなく、また子供は大人からの承認を求めるので、そうした「都合の良い子」への道を自ら突き進んでしまいます。
自己犠牲は例えるなら、自分のパイを削って相手に与えるようなことです。その時は相手は喜ぶでしょうし、自分も「良いことをやったような気分」になります。しかしそれは、「私は他の人と同じくらいのパイを貰うに値しない」という自己暗示になり、自分には充分価値があるという、自己価値感を否が応でも下げてしまいます。自己価値感は自尊感情の重要な一部です。
自分のパイを与える自己犠牲は、手っ取り早く事が丸く収まり、その場の承認を得られることと引き換えに、自尊感情は知らず知らずのうちに下がってしまいます。
パイを削って与え続けると、全体のパイが小さくなる
食べ物のパイなら、自分のパイを削って誰かにあげても、全体のパイは小さくなりません。
しかし人間は感情の動物であり、パイと違って生きています。自己犠牲を払って自分のパイを削り続けると、上述したように自尊感情はじわじわと下がります。自尊感情が下がって人間関係がうまくいくはずはなく、全体のパフォーマンスは段々下がります。即ち、パイが縮んで小さくなります。小さくなったパイをあげたところで、誰も幸福になりません。
無闇に自己犠牲を払わない人は、これが腑落ちしています。自分のわがままでパイを削らないのではありません。
その代わり「全体のパイを大きくすること」を考え、そして自分も相手も、それぞれの取り分を大きくするように意識を向けています。心身ともに自分の状態が悪くなって、パイを大きくすることはできません。
また「全体のパイを大きくすること」の方が、創意工夫と粘り強さ、本当の誠実さと、何より自己決定が必要になります。「誰かに決めてもらって後ろからついていきたい」指示待ちの言いなりの人にはできない生き方です。
例えば、親の介護を敢えて自分がやらないのは、「全体のパイを大きくする」発想から来ているでしょう。プロと相談して方針を決めることはやっても、介護そのものはプロに任せる。そしてまず自分が疲弊しないことが「パイを削らないこと」と腑落ちしています。
また「嫌いな人とは関わらない」もそうです。それが肉親であってもです。関わらざるを得ない場合も、「自分のパイが削りっぱなしにならない」付き合い方は何かを考え、自分で決めています。これも、他人に相談はできても、結局のところ自分にしか決められません。
Noを言うことに躊躇しない人は、この発想になっているでしょう。ですから、罪悪感に動かされることがありません。
「No」を適切に言えるために「No」と言うこと。これを難しく感じる人は少なくありません。「Yes」より「No」を言う方が、エネルギーと相手の体面を傷つけない知恵が要ります。だからこそ、人は簡単に「『Yes』と言っておく」に[…]
「この選択は全体のパイを大きくしているだろうか?」
自分のパイを削って相手にあげるのは、少々手厳しい言い方をすれば「全体のパイを大きくする」のをサボっています。全体のパイを大きくする方が面倒くさく、自分のパイをあげてしまった方が手っ取り早い、このことに自分では中々気づきません。これに自分で気づけると、自己犠牲を払わないための大きな一歩を踏み出せます。
私たちは皆、関わり合いの中で生きています。社会は一蓮托生です。誰かを犠牲にして自分だけが助かることは、長く広い視野で見ればどこにもありません。この観点を持てば、子供や若者を犠牲にしている、コロナ騒動の「感染対策」は大間違いだと、説明されなくてもわかる筈です。
家族の中で誰かが泣く思いをして、それ以外の家族が幸せなど本当はあり得ないのと同じです。もしそうだとしたら、それはただのエゴがまかり通っています。
つい自分ばかり我慢してしまう、頑張ってしまう、それに周囲の人が知らず知らずのうちに甘えてしまう、そうしたことは互いに遠慮がなくなる家庭や職場の中でこそ起こりがちでしょう。自分では善意のつもりでも、俯瞰して見れば「誰かが犠牲になり、結果全体のパイが小さくなる」に実は自分も加担しています。
ブチ切れて八つ当たりする前に(そうしたことが決してあってはならないとは言いません。それもまた人間の様相の一つです)、「助けて、手伝って」と素直に言える、或いは「これは困るんだけど・・」と感情的にならずに伝えられる、これらも自尊感情の高さの現れであり、勇気です。勇気は自尊感情の中身の一つです。
素直に助けを求めるために必要なのは、「この選択は全体のパイを大きくしているだろうか?」の自分への問いです。その問いは、他人が成り代わって訊いてくれることはなく、自分にしかできません。
罪悪感を抱かず、自己犠牲にNoを言えるために
本当に相手のため、或いは全体のためを考えられるためには、単なる善意の人では足りません。視野の広さが必要です。ごくごく表面的な、目先の自分が非難されなければいい、面倒を避けられたらいい。それが視野の狭さです。どんなに気持ちが優しい人であっても、この視野の狭さが結果的に自己保身になり、相手を傷つけます。また、視野が広い/狭いは相対的なものであり、放っておくと狭くなります。運動を続けないと、体がなまるのと同じです。ですから常に広げ続ける努力と、「私は視野の狭い人間ではありません!」もない、その自覚も肝要です。
上述してきたように、「自分だけではない。相手だけでもない。双方を含めた全体のことを考え、目先の快不快や損得ではない、長期的な利益や幸福のため」を考えるのが「パイを大きくする」発想です。その発想になっている時に「相手に嫌われたらどうしよう」「自分がどう思われるかが怖い」とは考えません。
日本人は「人からどう思われるか」と過度に人目を気にする割に、実際には他人に無関心です。「人からどう思われるか」に意識が向いている時、意識のベクトルが内側を向いています。相手を見ていません。その上、他人主体になっていますから、「自分はどうしたいのか、どうするのか」とさえ考えず、実は自分も他人も置いてけぼりになっています。
つまり人の目を気にしすぎると、結果的にLose-Loseに自分からなってしまうのです。人の目を気にし続けて、何か疲れるのは、このLose-Loseを心の奥底で感じ取っているからでしょう。
繰り返しになりますが、この地上に起こることは全て繋がっていて、何一つ他人事はありません。運命の歯車がほんの少し違っていたら、それは自分だったかもしれない。そう思える感性があって初めて、視野を広げることができます。単に社会問題や国際情勢を知っていることが、視野の広さではありません。知識・情報レベルではなく、自分事と捉えられるかということです。
自分を犠牲にするのは、誰かを犠牲にするのと同じこと。そして結果的にパイは小さくなります。全体のパイを広げ、共に分かち合う、言葉で言うのは簡単ですが、実際にはかなり地道で継続的な努力が必要です。この地道な、試行錯誤を伴う努力をしている時、自己犠牲に自然とNoと言える、そしてそれに罪悪感を抱かなくなっているでしょう。