被害者意識どっぷりも、怒りを押し殺すのも人生が好転しない理由

「意識が現実を創造している」とは

引き寄せの法則について、見聞きされたり、実践されたことのある方は多いでしょう。自分の望む未来に意識を向け、恰もそうなったかのような氣分になる、自分の望みの周波数に合わせると、その望む現実が引き寄せられるというものです。

これは「意識が現実を創造している」とも言い換えられます。例えば、異性にもてる人は「自分はもてない」とは思っていません。「私って異性から全然相手にされない、魅力のない人間だ」と思っている人が、異性からモテモテになることはありません。「私は異性にもてるだけの魅力がある」と内心であっても思うからこそ、身だしなみやファッションにより氣を配り、異性の前で魅力的な振る舞いをするようになります。その結果として更に「あの人、素敵ね」になる、そうした順序です。容姿さえ良ければ、必ずしももてるわけでもないのはこのためです。

しかし例えば、経済的に困窮していて、お金が欲しいと願っている人が、いきなり「私は金持ちだ」と自分に言い聞かせるのは無理があります。本音では「そんなの嘘っぽいよね」と思っていたら、やはり「私は困窮している」が実現してしまいます。この場合は、お金以外の面で自分が恵まれていることに意識を向け、「私は(色々ありはしても)恵まれている」と思うところから始めます。例えばコーヒーが好きな人なら、毎日コーヒーショップには行けなかったとしても、家でドリップコーヒーを好きなだけ淹れられる、そうしたことに意識を向けます。ほんの数十年前と比べれば、このことだけでも夢のような生活です。

私たちは誰も皆思い上がっているもので、本来なら感謝するべきことをすぐに忘れて「あれが足りない、これが足りない」と文句ばかり言いがちです。

もっと簡単な例で言えば、自転車に乗る練習をしている人が「転ぶかも、転ぶかも、転ぶかも」と思い続ければ、やっぱり転んでしまうようなものです。当たり前に自転車に乗れるようになれば「転ぶかも」はもう思わないので、滅多なことでは転ばなくなります。

「起きてもいないことを過剰に心配し過ぎない方が良い」とはこうしたことです。そのことと、常日頃から準備・予防に取り組み、「備えあれば憂いなし」になっておくのはまた別の話です。

それでは、ちょっとでも嫌なことはすぐにシャットアウトする、人の痛みに無関心なお花畑になればいいのか、と言えば、それもまた違います。それは大人として無責任な態度であり、未熟さの現れです。無責任で未熟な大人のままで、人生が真の意味で上手くいくのは矛盾があります。

また過去の未消化の悲しみや辛さを見て見ぬふりをするのも、結局はセルフネグレクトをすることになり、もっと人生が上手くいかなくなります。

「自分を被害者だと思っている間は薬害は治らない」

ところで、コロナワクチンの薬害については、ネットから情報を得ている人はよく知っている、TV報道だけを信じて無関心な人は全く氣づかない二極化が進んでいます。

あるお医者さんが「何故このようなことになってしまったのかの深い反省と、その自分を変えようとする努力をすれば薬害は治るが、自分を被害者だと思っている間は治らない」と仰ったそうです。これも、上記の「意識が現実を創造している」に照らし合わせれば、その通りの話です。

自分を被害者だと思い続けながら、様々な解毒に取り組んでいても、ある程度の症状の改善はできたとしても、結局は「私は薬害の被害者⇒治らない」が実現してしまう、ということです。

それでは、見て見ぬふりの無関心になるのが良いのか、体に不調が出ても、最初からワクチン薬害を除外し、「歳のせい、ストレスのせい、更年期のせい」と思っておくのが良いのかと言えば、それも全く違います。これをしてしまうと、また同じ過ちをどこかで繰り返してしまいます。

道義的責任と「何故このようなことが起きたのか」の因果関係の区別

コロナワクチン薬害も、自分の親が結構な毒親で、子供の頃に理不尽な酷い目に遭ってきたことも、心の面でやるべきことは同じです。

見出しの通り道義的責任と、「何故このようなことが起きたのか」の因果関係の区別を付けることが大変重要です。騙してワクチンをゴリ押しした方に道義的責任はありますが、職を失う覚悟をしてもワクチン接種を拒絶した人も、少数派とは言え存在します。その人達は何を感じ考え、どう選択して今の結果に至っているのか、ということを考えるのが、因果関係を考えることです。

他にも、例えば万引きは法的にも道義的にも、万引き犯に100%責任があります。ではだからと言って、お店の人が「万引きをされにくい店づくり」をしなくて良い理由にはなりません。万引きはその場の出来心もありますが、それよりも前もって下見をして「万引きしやすい店とタイミング」を見計らっています。販売員が売り場の隅に集まって、私語雑談に夢中になり、商品の陳列が乱れていても知らん顔では「さあ、万引きしてください」と言っているのと同じです。

逆に販売員が売り場の中で別々に立ち、陳列替えや掃除などの動的待機をきびきびとして、お客様が一歩入ると、目を見て「いらっしゃいませ」のご挨拶がある売り場では、そう簡単に万引きはできません。勿論販売の仕事は流動的なので、どんなに氣をつけていても一瞬の隙を突かれることはやはり起きます。それでも「やるだけのことはやった。今の状況ではこれ以上防ぎようがない」だったのか、「さあ、万引きしてください」になっていたのかは違う、ということです。

同様に、自分が子供だった頃に、親の支配欲というエゴのために、自尊心を踏みにじられ、しかし判断力が未発達の子供の自分には氣づくことすらできなかった、その意味における道義的責任は自分にはありません。しかし客観視ができる大人になってから「一体何が起きていたのか」を検証し、振り返り、そして判断力と選択の自由がある大人になった今は、同じ轍を踏まないための努力が必要です。「万引きをされにくい店づくりとはどのようなものか」を考える責任はあるのと同じです。それをしないと「私は毒親に人生を滅茶苦茶にされた被害者」のまま、残りの人生を生きることになり、人生が好転しません。

「コロナワクチンにせよ、万引きにせよ、親との関りにせよ、被害に遭ったのは事実だし、悔しさも怒りもある。しかし今の私は『あいつらのせいで』だけにはなっていない。自分の過去の選択を振り返り、二度と同じ轍を踏まないための努力はしている」と言いきれる人と、「私の何が悪いって言うの?」から一歩も動かない人と、どちらの人と関わりたいでしょうか?どちらの人に信頼や尊敬の念を寄せられるでしょうか?被害者意識から自分が抜け出せないと、ますます「私は被害者」の人生が実現してしまうのです。

そしてまた、前者の人を「被害者意識どっぷりだ」とはもう思わないでしょう。「被害に遭ったことは事実」と「被害者意識どっぷり」のあり方を分けて考える、ということです。

心の奥底の怒りを二人称で外に出す

但しそうは言っても、感情、特に怒りや恨み、憎しみ、悔しさはそう簡単に消し去れるものではありません。押し殺し抑えつけたり、見て見ぬふりをして表面的に「なかったこと」にしてしまうと、却って「何故だかわからないけれど、人生が上手くいかない」になってしまいます。以前の記事で、「義父や母親のBFたちに、性的虐待を受け続けたことを『許したつもり』になっていたけれど、心の奥底の怒りは解消されず、鬱を発症していた女性」の例を挙げました。

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彼女はグループ・セラピーに通う中で、ある日怒りがほとばしり出て、漸く自分が長い間見て見ぬふりをし続けていた怒りに氣づけました。氣づくとは意識化するということです。無意識に潜む怒り⇒意識化する⇒感じ切って自分の外に出してしまう、という順序を踏んで解消していきます。

信頼できる他人に話を聴いてもらうのも、勿論悪くありません。共感してもらうことにより、孤立感が和らぐのも癒しのための大切なプロセスです。但し、根深い怒りや恨み、理不尽さであればあるほど、他人に聴いてもらうだけでは、やはり解消しづらいようです。例えば職場の愚痴なら、居酒屋で同僚と鬱憤晴らし大会をして解消できても、親への怒りは居酒屋の鬱憤晴らし大会でどうにかできると考える方が無理があります。

この場合、一人でいる時に二人称で怒りを外に出すことをお勧めします。「うちの親がね・・」という三人称で聴いてもらうのと、「あんたのことは嫌いだったんだよ!」などと二人称で吐き出すのとでは違いがあります。これはやってみてこそ、その違いが実感できます。詳しくは以下の記事を参考にして下さい。

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そして二人称で吐き出すと、改めて「本能ではずっと前から、子供の頃から実は氣づいていた、わかっていた」ことにも氣づけます。それは幼稚園の頃だったのか、小学生の頃か、もっと後なのかは人によって違います。家庭の外に放り出されては生きて行けない子供の頃は、その本音は蓋をせざるを得なかった、しかしそれでもなお、本能が教えてくれていた本音通りに生きた方が、当然のことながら自分の生命を生かすことができます。本能を押し殺すとは、緩慢な自殺以外の何物でもありません。頑張っている割には人生が楽しくない、憂さ晴らしをしてもその時限りになっているのは、この緩慢な自殺をやっているからかもしれないのです。

怒りを外に出し切ってしまうと、上記の道義的責任と「何故このようなことが起きたのか」の因果関係の区別がよりやりやすくなります。どんなことでも、感情に囚われていると客観的な判断が下しにくくなるものです。怒りを押し殺し続けると、「私がこの失望に耐えずに済むように、不安や孤独に耐えずに済むように、あなたが変わって」を、誰しもどうしてもやりたくなってしまいます。これが被害者意識に囚われ続け、そして相手は変わらないので自分の首を締めてしまう最大の原因です。

お客さん意識は楽だけれど自由がない⇒「私は被害者」の温床に

怒りも悔しさも大事な感情です。しかし処理を誤ると心の重荷になってしまいます。嫌なことは「何だか氣が重い」と表現しますし、嬉しいことや安心することには「氣が軽くなった」などと表現することにも現れています。

心の重荷を解き、「一体が何が起きていたのか」の因果関係を知る。ここまでは「苦しい感情から解放されたい」「何故私はこんな理不尽な目に遭ってきたのかを知りたい」動機があれば、人はやろうとします。いわゆる「毒親本」の類書が次々出版されているのは、その需要があるからでしょう。しかしそれだけでも、人は真の意味で幸福にはなりません。もしそうなら、「毒親本」を読んで「そうだったのか」と納得しさえすれば、皆幸せな大人ばかりになります。大人が皆幸せであれば、子供の自殺や、子ども食堂でお腹を満たさなければならない子供が増える一方にはならない筈です。

世界一と言って良いほど便利で快適な社会を実現している割には、日本人は何故幸福でないのか。勿論政治の酷さや、所得が右肩下がりになり、ガソリンや食料品などの生活必需品の値上がりや、税金や社会保険料が上がって手取りが増えず、生活が苦しくなっていることも大きな要因です。しかしこれらは「結果引き起こされていること」と私は考えます。

「言われたことだけして、不平不満は言っても自分からは何もしない」「与えられるのを口を開けて待っている」悪い意味での受け身、お客さん意識のままでは、人は幸福にならないのです。お客さんでいるのは楽です。何の責任もありません。しかしそこには自由がないのです。自由がないとは奴隷であるということです。お客さん意識とは「被る」態度です。その時は楽なようでも、簡単に「私は被害者」になる温床なのです。

日本人の国民性とも言えるこのお客さん意識が改まらない限り、政府に文句は言う癖に「どうせ」で選挙にも行かない、「これはおかしい」と口頭でも態度でも抗議することもなく「だって」で流され続け、コロナワクチン薬害の二の舞三の舞はまた繰り返されるだろうと思います。

I use「我使役する」王道の生き方

では、この悪い方の国民性を改めるにはどうすれば良いのでしょうか?

貼付の動画は西洋占星術家マドモアゼル愛さんの「やぎ座が教える王道の生き方『アイユースしているか』」です。やぎ座のキーワードはI use、「我使役する」、「私が使う」ではなく、「私を使う」意味だそうです。以下にこの件についての愛さんのお話を要約・引用します。

私たちの失意の本質は、I useができていないので、この世からはじかれるのです。王様だってI useをしなければならないのです。王様が天に跪いて、民の安寧と平和を祈る姿を見た国民は、自分も同様にI useを始めるのです。

私たちは皆弱いので、未来はどうなるのか、お金や健康状態が不安になります。しかしこの不安を確実に乗り越えさせてくれるのはI use、I useを忘れた時に私たちの人生に危機が訪れる。自分という身がある以上、私たちはI use「我使役する」ことで社会と繋がらなければならない。お金がもらえなくたってI useできる。

useする質をどんどんあげることで喜びが高まっていく。「私は歌を歌って、人を慰めたい」も、とても素晴らしいこと。しかし下手な歌はやはり聞きたくない。I useのために、努力と創意工夫をする。その姿がある時、私たちはこの世で生かされる保証をもらえる。

どんなに能力がなかったとしても「石を一個片付けるだけで、躓く人がいなくなる」そういう生き方が王道の生き方。未来に対する不安や恐れがI useすることで消えて行く。不安の解決は「あなたは自分をどう使いますか?」使っている内は生かされる。

大木はたわわな実を実らせ、我は何一つ食べることなく、鳥に与え、人に与え、たわわな実を実らせることでI useし、永遠性を生きる。

(下線、太字は足立による)

このことは、同じ境地に達した人たちが、表現の仕方は違えど同じことを言っています。

ノートルダム修道会の修道女、渡辺和子さんが、修道女になる前の修練女として、アメリカで修業をしていた時の話です。渡辺さんは、テーブルにお皿を並べる仕事を命じられました。修道院に入る前は、大学で英文秘書としてバリバリ仕事をしていた渡辺さんにとって、お皿を並べる仕事は口にこそ出さなかったものの「つまらない雑用」でした。その様子を見ていた先輩の修道女が、渡辺さんにこう尋ねます。
「あなたは何を考えて仕事をしていますか?」
「別に、何も」
「あなたは時間を無駄にしている」
驚いた渡辺さんに、その修道女はこう言いました。
「その席につく一人一人のために祈りながら、お皿を置きなさい」

私はこの話はずっと前から知っていますが、歳を重ねるごとに、たやすくはないのだと実感しています。

【音声版・境界線とは「No」を言うこと・流されない生き方のために】


【このような悩みを抱えている方へ】

・適切な「No」を言えるようになりたい。迎合したり、操作されたくない。自分の意志で人生を生きたい。
・流されてしまったことに後悔している人。「もうあんなことは繰り返したくない。自分の子や孫に、同じ過ちを犯してほしくない」「どうやったら流されずに、勇氣を持って断れるようになるのかを知りたい」

【音声教材を聴くことによって得られる効果】

・何故「No」を言うことが大事なのかが再確認でき、やりやすいところからチャレンジできる。
・「No」を言うために必要なこと、限界設定、責任、結果予測、選択肢を増やす等、「遅い思考」を鍛える意義がわかる。
・親に反抗できなかった人は、親(大人)の言いなり良い子になることをやめる決意ができる。自分と親の関係性を見直すきっかけにできる。
・日常の中で小さな「No」に躊躇しなくなり、「他人にどう思われるか」ではなく「自分がどうしたいか」「何が責任を果たすことなのか」で物事を取捨選択し、たとえ結果が思わしくなくても、「自分が選んだ」ことそのものに対しては自負を持てる。

【全6回のテーマ】

第1回  結果を負うのは自分しかいない。「No」を言わなければ「Yes」と言ったと見なされる (約17分・無料で公開します)

🔗第1回 要約・氣づきメモ

第2回 「No」を言いづらい時、何を恐れているのか (約17分)
第3回 「人は安心の名の下に自由を手放す」責任と結果予測 (約14分)
第4回  速い思考と遅い思考・現実を見ることと選択肢を広げること (約18分)
第5回  思春期の頃、親に対して「うるせえ!クソジジイ!クソババア!」と言えましたか? (約15分)
第6回  境界線の内側には良いもの、外側に悪いもの・境界線は真の自由と自立のために (約16分)

5500円(税込み)振込み手数料はお客様負担になります。

まず第1回を試しに聴いて頂き、ワークに取り組まれた後、「もっと勉強して実践したい」方は、以下のフォームにてお申込みくださいませ。
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もし、お申し込み後2、3日経っても、弊社からのメールが届いていない場合は、受信メールのゴミ箱に入っていないかご確認くださいませ。
やはり届いていない場合は、大変お手数ですが、弊社へメールかお電話にてご連絡くださいませ。


    ※「音声版・自尊感情を高める習慣」のご案内は、こちらのリンクをご覧ください。
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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。常に等身大の、それ以上でもそれ以下でもない今の自分から出発します。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。