「許せれば楽になるけれど許せない」の葛藤
どんな人でも、好き好んで許したくないわけではありません。お互いにある程度は許容し合わなければ、誰も生きて行けないような、ミスや行き違い、誤解によることは、相手が真摯に謝り、原状回復すれば、大抵の場合許します。それは、自分が特別寛容だからというよりも、「許さないでいることそのもの」がストレスだからです。
しかし自分の尊厳が傷つけられたこと、殊に自分の人生が決定的に狂わされたことは、許せないのが当たり前です。
良心的でありたい人ほど、「自分は不寛容な人間なのではないか?」とまた葛藤が生じるかもしれません。
ゆるしには、大きく二種類があります。「許し」と「赦し」です。この違いを分けて考えられると、「許さざるべき行為や、態度は許さなくて良い。しかし『赦免する』意味の赦しはできる」と、それこそ「許しがたい氣持ちを抱えている自分」を許せるようになるかもしれません。
許容する許しと赦免する赦し
「許し」の方は、私たちは日常的に使っているでしょう。何かの過ちを犯しても、軽微なものだったり、初めてのことで相手が反省していれば「これからは氣をつけて下さいね」ですますようなことです。
製造業だと、製品が100%良品になることはないので、歩留まりの割合を決めているでしょう。また、レジ閉めの際「〇円以内の誤差なら許容範囲」と決めていたりします。こうしたある程度のグレーの部分は、許容しないと誰も何もできません。この許容範囲を超えると、それは「問題」になる、この「許し」はわかりやすいでしょう。
「赦し」の方が、余り馴染みがないかもしれません。「恩赦」という言葉があります。これは何らかの機会に、刑罰を減免することです。その人が犯した罪そのものを、良しとして許可するのではありません。借金を棒引きにしたり、ある程度減免するのも同じです。これも「借りたお金を返さない」ことを良しとするのではありません。
借りを返すこと、償うことを免除するのであって、「やってはならないことを許容する」のではない、という意味です。
「毒になる親」を変えようとしないのは自分の人生のため
物理的、経済的なことであれば、お互いの事情その他で「本来なら、賠償してもらうことですけれど、ご事情了解しましたので、今は結構です。返せる時に返してくださいね」で済ませられることもあるでしょう。
しかし精神的なこと、それも思い入れのある相手だと中々そうはいきません。以前の記事で「毒になる親を変えようともがくことはやめないといけない」と書きました。それは親のためではありません。自分自身のためです。
他人への怒りとは異なる親への怒りの根深さ親に対する怒りは、他人へのそれとは根本的に異なります。近所の人、友人、恋人、配偶者、職場の上司や部下、取引先には、その時はほとほと困っても、余程のことでない限り、縁が切れれば時間の経過ととも[…]
これも「親が私にやったこと、事あるごとに自尊心を踏みにじりつつけた態度・あり方を良しとするのではない」に支えられています。これを許容しようとすると「事実の否定」をやってしまいます。しかしこれは、傷ついた子供の自分を、自分自身が「なかったことにする」自己虐待に他なりません。
「誰が誰に対してであろうと、やってはいけないことは拒み、退ける。抗うための勇氣と行動力を持つ」のは自分自身の問題です。即ち、自分の境界線の内側にあります。
傷ついた方は、相手が向き合うための環境づくりや、動機付けはできるでしょう。有耶無耶にせずに「私は傷ついた」と言えるのは、相手との関係性が大事だからこそで、それもまた、自分と相手を尊重することです。仮にその時、大喧嘩になったとしてもです。
自分軸で生きるとは何をすることか「『他人軸』ではなく『自分軸』で生きましょう」という言葉を、見聞きしたことがあるかもしれません。簡単に言えば、自分軸とは主語を「私」にして考え、伝えることです。それは「私が、私が」の、我を張ることで[…]
ある人がしみじみと「私の生まれ育った家庭は、親子喧嘩ができなかった。そのこと自体がダメなんだと、中年になって漸く氣づいた」と述懐していました。表面上波風を立てないのは、事なかれ主義の欺瞞であることも往々にしてあります。
しかし環境づくりまではできても、働きかけはできても、その人が真剣に自分の心と向き合うかどうかは、神のみぞ知る、神とその人だけの領域です。その人の境界線の内側の問題です。
謝罪も償いも本心からでなければ虚しいもの
自分を傷つけた親や配偶者が、一言「あなたを傷つけてしまって、すまなかった」と言って欲しい。そうすれば、この苦しみが報われ、心の重荷が軽くなると、望まない人はいないかもしれません。
しかしまた、多くの人が「その時は泣いて謝ったけれど、その時だけで、すぐに元の木阿弥になった。結局裏切られて、却って心の傷が深くなった」経験があるでしょう。本心から後悔してではなく、「自分が悪く思われたくないから。支配できる相手を失いたくないから」泣いて謝って見せることも、全く珍しくありません。
狡い人は「相手が『心からの謝罪を待ち望む』」その渇望にすら付け込んできます。
コロナワクチンの薬害に遭い、日々症状に苦しめられながらも解毒の努力を続けている或る方は、「政治家、役人、医師会、医師などが、謝罪する姿をこの目で見るまでは絶対に死なない」と仰っていました。このことも、苦しい毎日を乗り越えるためのモチベーションになっているのでしょう。社会的な謝罪と補償を求めるのは当然です。
しかし彼らのうち何人が、心の底から自分の人生を悔いるか。人としてやってはならないことをやってしまったと悟るか。そうしたことは、その薬害に遭われた方も、期待してはいないだろうと思います。
求めた共感や愛は遂に得られなかった、その時自分をどう癒すか
「相手がやったことや態度は許さなくて良い。その上で、いつになるか誰にもわからない、心からの謝罪と償いを求めることを、こちらから手放す」のは、矛盾した感情を一度に持つことなので、決して簡単ではありません。いくつもの葛藤を乗り越えた末に辿り着く境地です。
それは思い入れのある相手ほど、共感や愛や、「世間体よりも子供である自分を優先してもらうこと」などを、どうしても求めてしまい、そしてそれを「相手からは遂に得られなかった」のを認めるのが辛いからです。「この失望に私が耐えなくて済むように、あなたが変わって」が、執着になりやすいのです。そして失望に耐える力は、それこそ失望する経験を重ねないと養えません。
ある女性は、コロナ騒動の最中、子供たちのマスク姿を見るのがどうしても辛く、いつも思わず目をそらしてしまったとのことでした。「私のお友達は、そういう子供だからこそ、目を見て微笑みかけてあげるんだそうです。そうした方が良いのはわかっていましたが、私にはできませんでした」
彼女曰く「親に世間体を優先されたトラウマが、マスク姿の子供たちを見る度に、疼いていたんだと思います」彼女のこのトラウマが、全く消えてなくなることはないでしょう。既に親と関わりを持たず、謝罪と改心を求めなくなっていてもです。
この痛みを抱えて生きる力を養うとともに、「世間体大事がどれほど罪深いか」を心に深く刻み、その反対の生き方に昇華する。また、その時々で共感しあえる友人を作りつつ、そうは言っても相手も生身の人間なので「わかってくれるのはあなただけよ!」にならない自立心を持つ。この辺りが彼女の今後の課題になっていくでしょう。
また「親に巧妙に自尊心を傷つけられたために、それが体の慢性疾患に出たり、本来ならもっとポテンシャルを発揮でき、経済的に余裕があったかもしれないが、今はそうなっていないことに出ている。しかし、振り返ると、子供の頃から無意識の内に、魂は穢されないように自分自身を守ってきた」と話してくださいました。
人間の三大悩みはお金、健康、人間関係。仮にそれらを失っても魂を磨けたか
人は何のためにこの世に生まれてくるのか。諸説ありますが、私は「魂を磨くため」と思っています。お金や社会的地位がどんなにあっても、体が健康でも、魂が穢れてしまえば何の意味もありません。
「魂を磨けたかどうかはわかりませんが、あの家庭環境の中でも穢さなかった自負はあります。その意味においては、私は親よりも良い人生を生きていると思います。親にもそうあって欲しかったけれど、諦めました。これまでは魂を守ろうとして、体の健康や経済面にしわ寄せが行ったのかもしれません。今後は魂を磨くことと、体の健康と経済面の向上を両立できるような生き方をしたいです」
この生き方をすることそのものが、彼女の人生を癒していくでしょう。それをやり切った実感が持てた時、「謝罪と償いを求めない。求めなくて良い」赦しが、真に彼女を解放するだろうと思います。