自分軸で生きるとは何をすることか
「『他人軸』ではなく『自分軸』で生きましょう」という言葉を、見聞きしたことがあるかもしれません。簡単に言えば、自分軸とは主語を「私」にして考え、伝えることです。それは「私が、私が」の、我を張ることではありません。
自分が何を感じ、どう思い、考え、そして何を選択するのかに責任を持つ姿勢です。それをするために、常日頃からI(私)メッセージで伝える習慣がとても重要になります。
Iメッセージの詳細については、以下の記事をご参照ください。
相手に圧迫感を与えず、かつ毅然とした態度を保つ自己主張とは「思ったことが言えない」「つい相手に迎合してしまう」「イヤだと言えずにつけこまれてしまう」こうしたコミュニケーションの悩みを抱えている人は少なくないでしょう。その悩[…]
ついやりたくなるYou/他人メッセージ
Iメッセージの代わりに、私たちがよくやりがちなのはYouメッセージ(「あんたはいつも!」)、もしくは主語が他人のメッセージ(「だって世間では」「あの人が」「みんなが」)です。自分に不満があると、その不満のもととなった相手を主語にして、私たちは感じ考え、伝えようとしがちです。
しかし本来は、不満を抱えているのは「私」です。良い悪いは別として、同じことをされても何とも思わない人もいます。
そして「あんたはいつも!」「だってあの人が」の言い回しに、誰しも良い氣持ちは起こらないものです。セラピーセッションにおいても、クライアント様の他では言えない不満や葛藤は存分に吐き出して頂いて良いのですが、その後「自分が何をするか」に軸が移らなければ、当然ですが同じことは繰り返されます。
YouメッセージからIメッセージに変わると、何が起きるかの例を以下に引用します。
ある家庭にカメラが入っている。
家業で食べ物屋さんをしている。両親は店で大忙し、息子10歳は、奥でゲームに夢中。「何であんたは言うことを聞かないの」
「さっきやるって言ったのに、やってない!」
「あんたはいつも・・・」(※足立注:これらはすべてYouメッセージです)と、取材されたお母さんは、一日中、叫んでいるらしかった。
ゴチャゴチャッとしたにぎやかな家庭は、一見あったかそうなのだが、父、母、子供のコミュニケーションが、みんな一方通行のまま、ゴチャゴチャの中で消えてしまっているように見えた。そこにコミュニケーションの先生からサジェスチョンが入る。
「お母さん、自分の氣持ちをそのまま伝えてください」そして・・・。
子供が「クソババア!」と言った時、お母さんはキチンと座ってこう伝えた。
「お母さんは傷ついた(悲しい)」それを聞いた時の、子供の顔がかわいかった。
ボーゼンと母親をみつめ、返す言葉もなかった。そのあと、黙々と母親との約束(自分でズックを洗うこと)をやりとげ、母親のところへ来て「さっきはごめんな」とハッキリ謝った。母親はビックリし、「いいって、もう氣にしてないから」と伝えた。
ゴチャゴチャしている家の中に、スッと一本の関係がハッキリ見えた。コミュニケーションの糸が通った感じがした。(略)その後、この男の子は、ゲームより家業を手伝うようになったそうだ。皿を洗う横顔は、大人びてりりしかった。
槇村さとる「ふたり歩きの設計図」
自分の氣持ちに正直に向き合い、責任を持つ姿勢
如何でしょうか?「お母さんは傷ついた」の一言が、まるで魔法を起こしたかのようです。
これはお母さんが、息子さんの態度には不満を持っていたとしても、一人の人として対等に向き合っていたからだろうと思います。親の方が、常に子供より上で、子供が何を感じようが何を言おうが、「お前が何を言うか」としか受け止めない人であれば、このように率直に氣持ちを伝えることはできなかったでしょう。
また傷ついた自分の氣持ちを恥じたり、「あんたのせいで・・」と責任転嫁しようとすれば、このようなコミュニケーションは取れません。
自分の正直な氣持ちに忠実であり、恥じたりごまかしたりしないこともまた、勇氣が要ります。息子さんはその意味が、心でわかったのでしょう。お母さんが裸の心で向き合ってくれればこそ、自分も率直に「さっきはごめんな」と言えたのだと思います。段々難しくなる年頃の息子さんが、お母さんにこう謝れるのも、真の信頼関係がなければ言えません。
愛とは尊重すること、大事に扱うこと、自分も相手も
エーリッヒ・フロムは「愛するということ」の中で「愛の能動的要素とは、配慮、責任、尊敬、知である」としています。ここで言う尊敬は、尊重と言い換えても良いでしょう。尊敬も尊重も、英語ではrespectになります。尊敬というと「自分よりも優れた人に向けるもの」といった評価を伴うニュアンスがあります。しかし、尊重は評価とは無関係です。
尊重とは平たく言えば「大事にすること」です。その対象を大事にすればこそ、配慮し、責任を持ち、知ろうとします。これら4つは関連しあい、どれか一つが欠けていても愛は実現しません。愛は、感情の好悪や、まして惚れた腫れたの情熱ではなく、かなり意志的な能動性なのです。
尊重の反対は軽んじられること、馬鹿にされること、蔑ろにされることです。その人のあり方や態度が全く良いと思えない、愚かで軽蔑に値すると思うことと、そもそもその人を軽んじることとは区別を付ける必要があります。「人のことを悪く思うべきではない」という思い込みがある人は、混同していないか、今一度振り返ってみましょう。軽んじるとは、舐めてかかること、自分より下に見たり、おべんちゃらを言って取り入っているようでも、本音は「利用してやれ」としか思ってない、などです。
「あるがままの自分」とは、向上心を放棄することではありません。寧ろその逆です。例えば、今私はたんぱく質の摂取量を増やそうと取り組んでいます。しかし、思いのほか消化吸収力が落ちていて、一時に増やすとお腹を下してしまいます。なので様子を見ながら、毎日少しずつ増やし、また一度に摂ると体に負担を掛けるので、一日の中で小分けにするようにしています。
フロムの愛の定義に沿えば、「自分の体を大事にしようとする尊重」「自分のことは自分で面倒を見る責任」「一進一退になっても丁寧に体と向き合う配慮」「自分の今の体の状態をよく知ろうとする知」になります。
自分の体のことや、何かの技術の習得なら、多くの人は私と同じように自分に接するでしょう。しかし精神的なことだと途端に「タンパク質を充分摂れない私がダメ」をやりがちです。確かに消化吸収力が落ちているのは、望ましいことではありません。しかしそれが今の私であり、そこから常に出発し続けることが、自分を大事にすることです。
息子さんに自分をごまかさない姿を真っ直ぐに見せればこそ、息子さんも「本当は自分がどうしたかったか」の本音が、お母さんが鏡となって映し出されたのでしょう。ゲームで氣散じの憂さ晴らしをすることが、本当にやりたいことではなかったと、自分で氣づいたのだと思います。皿洗いをする顔つきが凛々しかったのは、自分に誇りを持っているからです。
「最も勇敢な行為は、自分で考え続けること。そして声に出すこと」ココ・シャネル
フロムは同書の中で「尊敬(尊重)には人を利用するという意味はまったくない」と述べています。利用とは支配であり、その裏返しの依存でもあります。また「面倒なことは誰かに押し付けたり、見て見ぬふりをして逃げる」のも尊重とは程遠い態度です。
「お母さんは傷ついた」に、相手を操作して都合よく利用してやろうとする意図はありません。ただ、そう感じた、ありのままのお母さんの心だけです。
息子さんの「さっきはごめんな」は、罪悪感で操作されたのではなく、自分の良心の呵責に忠実であろうとする態度です。
見出しのシャネルの言葉は、例えば街宣で何かを訴えたり、SNSやブログやヤフコメで何かを書いたりだけとは限りません。「お母さんは傷ついた」「さっきはごめんな」も、自分で考え、飾らない自分の言葉で、そして声に出したIメッセージであり、シャネルの言う勇敢な行為です。
シャネルの言葉を裏返せば「最も臆病な行為は、自分で考えず、メディアなどの他人に頭を乗っ取らせること。そして黙って知らんぷりをするか、『だって誰それが』と言ったり、『人それぞれ自由でいいじゃん』の中立を装った事なかれ主義に逃げること」になります。この態度では、Iメッセージのやり方を、仮に高い受講料を払ってセミナーでお勉強したところで使えません。
このシャネルの言う勇敢さを育てることが、自分軸を育てることです。
もし、自分がどう感じているのか、どう思っているのかもわからなくなっていたら、主語を「私」にして自分に質問してみましょう。「私はどう感じているの?どう思ってるの?」と。そして答えは、「あの人がどうのこうの」と最初は出てくるかもしれませんが、最終的には「私は○○と感じている、考えている。私は☆☆を選ぶ」と自分に言います。そこから、誰でもない自分の人生を生きることが始まるのです。