読書やセミナー受講をどれだけ重ねても
弊社のクライアント様が、しばしば口に出される言葉があります。
「本も読みましたし、セミナーも受けたのですが、やっぱり現状は変わりませんでした」
「足立さんのサイトの記事を何回も読みましたが、読んだだけでは何も変わりませんでした」
人は何かを問題だと感じ、何とかしたいと思った時、今の時代だとまずネットで検索したり、もしくは書店で問題解決に役立ちそうな本を買ってきたり、セミナーを受講したりします。
いきなり弊社のセラピーを受けようとする人は、あまりいないようです。
本やネットの記事や、セミナーでの知識や情報は、起きていることの整理には役に立つでしょう。「ああ、こういうことが起こっていたんだなあ」
その整理だけですむ場合、実は既に問題は解決されています。漠然としたもやもや感を、言葉にして整理してもらったに過ぎません。
人の話を聞いたり読んだりして、「確かにその通りだなあ」とは思っても、すぐにその通りにはできない自分がいる。これはある意味当たり前のことです。全員すぐにその通りにできれば、この世から悩みは消えてなくなります。心理セラピーもカウンセリングも、この世に必要ありません。
知識だけでは限界があります。
次から次へと類書が出版され、今の時代なら似たようなサイトの記事がUPされ、似たようなセミナーや講演会が催されているのは、裏から言えば「本やセミナー、講演会などからの外側からの知識だけでは、現状は何も変わらない」からです。そしてまた、そのことに氣づいている人が案外少ないからなのでしょう。
知識が生きるのは、自分の課題の解決に即していればこそ
では、知識の習得がまるで無駄かと言えば、そうではありません。特に若いころに「その時にはすぐに役立たなくても」良書をたくさん読み、また美術館や歴史的建造物に足を運ぶなどして感性や教養を養っておくことが大切です。いわゆる目利きになるためには「本物を浴びるように見る」、そうすると偽物が来た時に一目でわかります。チェックリストで本物か偽物かを判別するのではありません。
そしてまた、若いころの読書が本当に生きてくるのは、成人後の実人生で困難に直面した時にこそです。その時の課題に応じて、自分の読書の蓄積から知見を引き出し、解決し、生きた知恵に変える。この時初めて、知識は知恵に、そして見識になります。
大人になってからの勉強は、まず問題の中から自分の課題を抽出し、課題の解決のための知識や技術を取り入れ、実践することです。このプロセスを飛ばして知識や技術だけ勉強しても、役に立てられません。タンスの肥やしになってしまいます。
また、問題と課題は異なります。問題は「今起きている困ったこと」、課題は「その問題を解決するために、自分自身が取り組むべきこと」です。例えて言うなら「売り上げが上がらない」「車が動かない」「腰が痛い」が問題、「何に取り組むべきか」が課題です。同じ問題であっても、状況に応じて取り組むべき課題は皆違います。「腰が痛い」一つとっても、やるべきことは千差万別です。
人は問題はわかっているけれど、課題はわからないことが往々にしてあります。だからこそ、問題が続いてしまいます。セラピスト、コーチ、カウンセラー、コンサルタントがお金を頂けるのは、この「問題の中から課題を発見する」力量によるのです。
問題とするべきことを問題視していることが大前提
そして更に大事なことは「本当に問題とするべきことを問題視しているか」です。これで人生が決まると言っても過言ではありません。人は自分自身がそれを心の底から「問題だ」「大事なことだ」と思わなければ、真剣に取り組みません。言われた時だけする、言われなければしないの指示待ち人間になります。
よくありがちな、目先の世間体、自分が他人にどう思われるかに汲々としていては、本当に問題とするべきことを見失います。「他人が自分をどう思うか」はコントロールしようがありません。何を選んだところで、誰かからは悪く思われるものです。もっと視野を広げ、より大事なことに意識を向け、日々自分が具体的に取り組む、結果他人からどう思われるかなどに最初から意識が向かない、その生き方を身に着けるしかないのです。
「問題とするべきことを問題視しているか」は裏を返せば「大事なことを大事にしているか」であり、その人の感性、教養、視野の広さが問われます。何が大事かは主観によるところが大きいからです。若いころに良書をたくさん読んでおくのも、この教養を身に着けるためです。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ私たちの心が深く傷つくのは、大事なものやことを傷つけられた時です。「どうでもいい」とはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。価値観のない人はいません。しかし多[…]
「言われた通りにしておけば私は非難されない」では氣づけない
人生を切り開くのは、知識ではありません。知識は道具の一種に過ぎず、知っているだけでは自分のものになったとは言えません。肝心なことは、自分が何を氣づいたか、そして何を考え、どのような判断基準を育てているかです。
今の日本人に大変多い態度は「言われた通りにしておけば私は非難されない、怒られない」ではないでしょうか?それでは「だって〇〇がそうしろと言ったから。みんながしてるから」の責任転嫁になります。この態度ではいつまでたっても氣づきは得られません。心理セラピーにおいても結果は出ません。
この記事を書いているのは、2023年の5月下旬ですが、5月8日に新型コロナが5類下げになったにもかかわらず、9割以上の人がまだまだマスクを外さない中、久しぶりに電車に乗る機会がありました。
私は例によってマスクをせずに、二人掛けのシートに座っていたところ、私の隣に不織布マスクをした女子高生が座ってきました。私がチラッと横目で見ると、猫背でスマホゲームを猛スピードで指で操作していました。彼女は自分から素顔の私の横に座ってきて、そのことに何も感じず、何も考えてはいなかったのです。
「え⁉何このおばさん、マスクしてないなんて」と顔をしかめるでもなく、或いは逆に「このおばさんがマスクしてないなら、二人掛けシートだし、マスクをずらしてもいいか」などとは考えていなかったでしょう。ただ「マスクをしろと言われたからする」、何のためかの目的を考えない思考放棄と、後は現実逃避の暇つぶしに埋め尽くされています。
これでは「感じ、考え、自分で氣づく」など一生やりません。国会で国会議員が、G7で来日した海外要人がマスクをしていない意味など頭によぎりさえしない。ただ言われたことだけをやる、それでは自分なりの思索、教養、信念、まして哲学など育むことはできません。自分の判断基準を育てられず、ああ言われたらあっちへ、こう言われたらこっちへの根無し草人生になりかねません。
打算的に生きることの落とし穴
その女子高生は、学校で日々授業を受けていても、自分の人生を切り開くための勉強にはできないのではないかと私は危惧します。ただ場当たり的な「これを覚えろと言われたから覚える」では、自分の血肉にはなりません。
打算的とはその場その場の損か得か、楽ができるか、面倒くさくないか、非難されないかで物事を選択することです。それは真の選択とは言い難いのですが、一旦その思考回路が身についてしまうと、自覚がない上に何しろ楽なので延々と繰り返してしまいます。
ですから、打算的な処世術は身に着けられたとしても、肝心の首尾一貫性を失います。つまり自分が何者かがわからなくなり、自分の心の奥底で囁いている直観の声に耳を傾けることができなくなります。
「無難にやり過ごせばよい」は自己保身と怠惰「みんながそうしている」「面倒がない方に乗っかる」「毅然として拒絶するなんて面倒」という、要は「無難にやり過ごせばよい」は、もしかすると今の日本人に最も多い態度かもしれません。無難とは文字[…]
まだ言葉も話せないような、小さな子供の方が直観で本質を見抜けます。「このおばちゃんは顔は笑っていても、本当はボクを、私を愛してはいない」など。大人の方がだらしのないことに、甘言や愛想のよさ、その場限りの親切にころりと騙されます。
大人になるとどうしても、馬鹿正直には生きられず、自分の本音を押し殺さざるを得ない場面も多々あります。殊に組織で働いていると「これはおかしい」と本音ではわかってはいても、中々上からの命令には背けない、その板挟みになることも多いでしょう。
大人はどんなに自分の価値観に合った環境を選んでいても、やはり「やむを得ずその場は本音を言わない。他に譲る」ことが否が応でも起きてしまいます。だからこそ、それ以外の場面で出来る限り自分に嘘偽りなく生きなければならないのです。
嘘偽りなく、正直に生きるとは、頭(考え)と心(思い)と腹(行動)を一致させることです。
誰だって本当に自分が風邪を引いて「人に移すかも」と思っている時に、或いは「感染したくない、感染するのが怖い」と心から思っている時に、マスクをしたとしてもそうそう出歩いたりしないのです。まして遊び歩くなどしません。それが証拠に、2020年の3月頃は、ショッピングモールはどこもかしこも閑古鳥が鳴いていました。
そして皆家ではマスクをしないということは、詳しいことを調べてなくても「マスクは有害無益」と本音では知っている証拠です。自分を欺き、他人にはいい人ぶり、それでは自分の本当の心の声、即ち直観が働かなくなって当たり前です。私がこのサイトの中で、繰り返し繰り返し「コロナは茶番、マスクは有害無益とわかっているのに、マスクをして出歩くな」と書くのは、それをすれば頭と心と腹がてんでんばらばらの方を向くからであり、譬え万金を積んで心理セラピーを受けたところで、日々自分を裏切り続ければ何の意味もないからです。
伸るか反るかの一大事の時に瞬時に本質が見抜けるための勉強
常日頃から頭と心と腹を一致させ、物事の本質を一目で見抜けるようになっておくのは、一生に一度か二度巡ってくる、伸るか反るかの一大事、人生の大試験の時に正しく判断できるためです。
以下の動画は2020年の夏ごろ、ツイッター上で出回り、そして片っ端から削除されていた、ある種伝説の動画です。
この動画が片っ端から削除されていたということは、「この内容が知られては都合が悪い」と考える人達がいて、それはかなり強大な勢力なのだと、誰かから説明されなくてもすぐにわかるようでなくてはなりません。
そしてこの2分足らずの動画を見ただけで「自分が何をするべきか。何は決して譲ってはいけないか」の本質を、他人からくどくど説明されなくても見抜き、そして心と腹を瞬時に決められるための日々の勉強です。
それが心底わかった人間は、「私は反ワクじゃないけど~」などと言い訳することはもうしなくなるのです。譬え職を失ってでもワクチンを打たない決意を固められる、それが腹を決めるということです。
嘘偽りなく生きる、そして孤独を恐れない
受け入れがたい、怖い事実を、心の目と耳を塞がずに受けとめるには、頭ではなく腹が決まっている必要があります。即ち胆力です。勉強とは頭だけでなく、胆力を鍛えることも含みます。「だって同調圧力が」の言い訳をしない、そうした言い訳をする自分に耐えられない、そうなってこそ胆力がある人です。マスクでは「だって同調圧力が」と言い訳をしておいて、いざという時ワクチン接種の圧力を跳ね返すことなど尚更できません。
胆力を鍛えるためには、上述した通り頭と心と腹を一致させる、言行一致し、首尾一貫性を生きること、裏から言えば「その場その場でいい顔をしない。いい人ぶろうとしない。良心に基づく信念を貫いた時に去っていく人を追わない」ことです。
更に踏み込んで言えば孤独を恐れないことです。勿論人は一人では生きてはいけません。共感しあえる友達が欲しいと思うのは自然な人情ですし、励まし合い、協力し合わなければ誰も生きてはいけません。そのことと、手っ取り早く孤独を紛らわそうとして「群れる」のは全く異なります。
「孤独な人は必ずしも天才ではないが、天才は必ず孤独だ」と言われます。人は良くも悪くも影響し合います。群れている時、人は自分で物を考えません。抽象的な本質に迫ろうとする思考ほど、集中した一人の時間が必要です。今はどうかわかりませんが、昔は作家がしばしば都会から離れて山荘に籠っていたのは、敢えて孤独な環境に身を置くためです。少々意地悪く言えば「思考という面倒くさいことから逃れるために人は群れる」のです。
他人がどう言う、他人からどう思われるではなく、自分が何をどう感じ、どう思うのか、そして日々何を選択するのか、その積み重ねこそが勉強です。いわゆる知識はその材料、呼び水に過ぎないのです。