自由と心の平和を得た後に、どっと疲れが出ることも
親の有害なコントロールから自由になり、心の平和を得られた後、いきなり「何もかもすっきりして毎日が楽しい」心境になれるわけではありません。
長い間心の奥底に閉じ込めてきた怒りを感じきって外に出すこと。「親に操作されない」心の強さとスキルを身に着けること。「やはり許せない自分も自分の一部」と受け入れて行くこと。いずれも外側からは決してわからないエネルギーが要ります。
しばらくは「平日は仕事、休みの日は溜まった家事を片付けるので精一杯。時間があれば横になっていたり、ぼんやりしたりしている」ことも起きます。疲れが出て当然なので、「それが当たり前。それだけのことをやり切った」と思って、充分に休養して頂ければと思います。
また親が存命だと、何かの際に怒りが再燃することもあります。その度に「以前のようないい子ではなく」怒りを感じきって外に出し、境界線を引き直す作業が要ります。それはそれでまた疲れるでしょう。病氣や怪我の回復と同じように、一進一退はあるものの、退く方の幅がだんだん小さくなっていきます。
しかし以前にように「そうやって怒ったり、疲れる自分」にダメ出しはせず、大切に接するようになっている、それが最も重要なことです。
人間的に成長し、心をリセットする9つの道
本書の最終章、第8章では「コントロールばかりする親の影響で身についたさまざまな心の歪みを取り除き、自分を癒して人間的に成長するために有効」な9つの方法を挙げてます。
- 情熱を注げることを見つける
- 世の中に自分の居場所を作る
- 自分の感情を大切にする
- 自分を失わずに他人とのつながりを深める
- 自分に限界をもたらしている考えは何かを知る
- 自分をもっと好きになる
- 今現在を生きる
- 心身をいたわる
- 他人や周囲の状況をコントロールしたがる欲求を減らす
これらの主旨は「自分の価値観や信念に沿った好きなことを見つけ、打ち込み、過去や未来に過度にとらわれずに今現在を生きる。その集中力を養う。そして真の信頼関係を築ける自負を持つ」になるでしょう。
弊社Pradoの信念でもあり、表現の仕方は違えど、当サイトの中でも度々言及しています。
誰にでもある「コントロールしたがる欲求」
さて、9番目の「他人や周囲の状況をコントロールしたがる欲求を減らす」について、ここでは深掘りしていきます。親の有害なコントロールに苦しめられてきた人は、自分にも「コントロールしたがる欲求」があることに幻滅や不安を感じるかもしれません。
親の有害なコントロールを受けて育った人は、不安を感じやすいため、「他人や周囲の状況をコントロールしたがる欲求」が他の人より強くなる傾向があります。誰しも不安が強くなると、相手や周囲をコントロールしたくなるものです。安心しきっている時に「コントロールしたがる欲求」は湧き上がりません。
私が百貨店勤務時代、チームリーダーをしていた時は、午後4時が一日の折り返しでした。その日の売り上げ見通しを毎日部の事務所に報告しなければなりませんでした。その日の売り上げが思うように伸びないと、4時前になるとそわそわして落ち着かなくなったものでした。その日の売り上げが達成するとホッとし、達成できないと「ああこれでまた、いくらいくらのマイナスが」と、どちらにしても大きなため息をついて毎日が終わりました。
「今日の売り上げに一喜一憂」は、チームリーダーとしての責任感や義務感もありましたが、言葉を換えれば「コントロールしたがる欲求」でもあったのです。
この「コントロールしたがる欲求」を「何かできること(声出しや売り場の整理整頓、掃除などの基本に立ち返ることに結局はなるのですが)をやる」原動力にするのなら、不安をバネにしています。不安が即悪いのではありません。見て見ぬふりの誤った楽観視や、言い訳してごまかしたり、ただただ「どうしよう、どうしよう」と愚痴って何もしないのが良くないのです。
「コントロールしたがる欲求」は誰にでもある、自分も例外ではないとまず認めることが第一歩です。子育てのイライラは、親子それぞれの「コントロールしたがる欲求」のせめぎ合いとも言えます。
それを認めた上で、「自分は何をコントロールしたがっているのか。コントロールできないと何が起きると恐れているのか」と自分に質問し、中身を明確にするのが次のステップです。モヤモヤした不安とコントロールしたい欲求を、ジャッジしたり押し殺そうとする前に、一度テーブルの上に全部載せてみます。それが客観視の練習であり、そのままの自分を認めつつ、自制心を養うプロセスになります。
例えば「売り上げが上がらないことが不安」であれば、「売り上げが上がらなかったらどうなるか」を考えてみます。会社の業績が下がれば、ボーナスや給料が減るだけにとどまらず、リストラや、最悪の場合は倒産もあり得ます。それを避けるがために、皆頑張っているわけです。
しかし人は、「どんなことをしても生き抜く」覚悟があれば、生き抜けるのもまた事実です。戦後間もなくの頃、陸軍中将夫人だった人が、ガード下の靴磨きから始めて、紆余曲折の後、赤坂の料亭の女将になった逸話があります。また、古今東西、無人島に漂流した人が、何年も生き延びた話も少なくありません。これらの人たちが特別なのではありません。「何としても生き抜く」覚悟があれば道を切り開いていける、それが人間です。
不安に囚われてしまっている時、人は「これを避けられなければもう終わり、人生詰んだ」と心のどこかで思い込んでいます。それが執着を生み、執着は視野を狭めます。
上の立場からすれば、売り上げがどうなろうと何も感じず柳に風より、一喜一憂するチームリーダーの方がましかもしれません。但し、目先のことに一喜一憂してばかりでは、長期的視野を持った真のリーダーには育ちません。毎日の売り上げを大事にしつつ、自分に「何としても生き抜く」覚悟があるかどうか問いかけてみます。すると「毎日毎月、百発百中で売り上げが達成されることなどない(もしそうであれば、そもそもの目標設定が低すぎます)」現実を受け入れやすくなるでしょう。
「良い加減」は相手や状況を見極めること
「コントロールしたがる欲求」は、「すべてが自分の思い通りに成ってほしい」というエゴから来ています。よくよく考えれば、全員の思い通りに成ることなどあり得ません。誰にだって断る権利、選ぶ権利はあります。
「コントロールしたがる欲求」が強すぎる時、人はベクトルが内側に向いていて、つまり自分の不安やこだわりに囚われています。「すべてが思い通りに成ることなどない」がどこかに吹っ飛んでいます。外の現実の世界を見ていません。人間は放っておくと、ベクトルが内側に向き、狭い世界の中に意識を閉じ込めてしまいます。
それを避けるために、無責任の「いい加減」ではなく「良い加減」になっていく、そう心を向けると、外の世界に目が向くようになります。「良い加減」とは、相手や状況を見極めて「今のこの人になら、何をどこまで求められるか」を一つ一つ考えて行くことです。
自分の価値観や信念は、アイデンティティの土台ですから簡単に譲れなくて当たり前です。しかし「今、この状況で、目の前の相手に、それがどこまで通じるか、受け入れられるか」は千差万別です。こんな当たり前のことを、私たちはよく忘れますし、最初からそれができる人もまたいません。
「有害なコントロールをする親」には「良い加減」はできない
「有害なコントロールをする親」は「いい加減」であったかもしれませんが、「良い加減」では決してなかったでしょう。子供の置かれている状況に合わせて「良い加減」をしてくれることと、親のエゴを押し通し、子供を支配下に置くことは全くの正反対です。
自分の価値観や信念について、「本当に私は大事なことを大事にしているか?」と自問する人の方が少ないものです。世間体を子供よりも優先する親が非常に多いのは、この自問をしていないからです。そしてまた脳は「白か黒か」「0か100か」で決めつけて楽をしたがります。ですから「いい加減」には何の努力も要りませんが、「良い加減」は終わりのない意識的な努力が必要です。
このように「良い加減」は誰にとっても当たり前にはできない、難しいものです。しかし「良い加減ができるようになりたい」とスタートラインに立った時には、裏から言えば「私は有害なコントロールをしない」道筋を歩き始めたのと同じなのです。