「許し」の落とし穴・「一生親を許せない」でも構わない

「許し」は副産物・「許さなくてはならない」と思わない方が良い

自分を苦しめた親を許すことができるか、もしくは許すべきか、そうした問いは非常に苦しいものです。

「不幸にする親」の著者ダン・ニューハースは「私は、『許し』は必ずしも必要ではないと思っています」と述べています。「毒になる親」の著者スーザン・フォワードはさらにはっきりと「『毒になる親』を許す必要はない」と明言しています。

私は「許し」は「親の支配から自由になり、自分の人生を生きた結果の副産物」だと考えています。大事なことは他人の人生ではなく自分の人生を生きること、自分の選択を誰のせいにもせず、誰の奴隷にもならないことです。

親を許したつもりになっていても、例えば「みんながマスクを外したら私も外す」では、結局は自分の意志決定に責任を持たない他力本願であり、奴隷根性から抜け出せていません。心のことは全て繋がっているので、親のことさえ解決できれば良いわけではありません。自分が奴隷根性のままでは、また他で同じ過ちを繰り返します。

「親の有害なコントロールによる被害に遭ったのは事実だが、大人の私は『どうせ私が何かしたって』『文句は言うが自分は指一本動かさない』の被害者意識で生きてはいない」と胸を張って言えれば、充分自尊感情高く生きています。

まず自分が自尊感情高く生き、そして様々な曲折の後、自然と親を許せれば、それはそれでいいのです。ただ後述しますが「許せたから偉い。許せないのは心が狭い」では決してありません。

今回は「不幸にする親」の第7章、「毒になる親」の第9章の内容を扱っていきます。

2種類の「許し」・「復讐をしない」「罪を免除する」

ところで、スーザン・フォワード「毒になる親」では、許しには2種類あるとしています。一つは「復讐をしない」、もう一つは「罪を免除する」です。

「復讐をしない」は、ごく普通の良識のある人ならすぐ理解できるでしょう。復讐の連鎖は地獄を生むだけですし、何より復讐をした自分自身が、相手と同じか、それよりももっと悪い人間になってしまいます。スペインの諺の「幸福になることが最高の復讐」以外の復讐をしないことを、私のクライアント様にはお約束頂いています。

「罪を免除する」とは、スーザン・フォワードによると以下のように述べられています。

「罪の免除」は「事実の否定」の一形態にすぎないと確信した。親を「許した」と言っている多くの人たちは、本当の感情を心の奥底に押し込んでいるのに過ぎず、そのために心の健康の回復が妨げられていたのである。

スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」

親から受けた様々な理不尽な言動により、人生を台無しにされたことを免除する、つまり見過ごしてあげるのはおかしなことです。それをフォワードは「事実の否定」と喝破しています。「事実の否定」は有害なコントロールをする親の常套手段であり、許したつもりで結局は親と同じ事をわが身にやってしまっています。

「『許せない』自分を許せないから『許したことにする』」は自己欺瞞

普通の人間なら、悪意からではない、ミスや行き違いによるものなら、よほどのことでない限り、原状回復し、相手が真摯に謝ってくれればいつまでも根に持たずに許します。皆「お互い様」でやってしまうことであり、許容し合わなければ誰も生きていけないからです。

そして私たちが特別寛容な人間「だから」、許しているわけではなく、許さない方がストレスだから許しています。

親を許す・許さないは、他の「許せない」こととは根本的に異なります。自分の生死と尊厳にかかわることだからです。「許さない方がストレスだから」「『許せない』自分を受け入れられない。そんな自分は心が狭いと思うから」許したつもりになる、これは自己欺瞞であり、現実逃避にしかなりません。

これも「ほれぼれとした自分でなければ愛してやらない」ナルシシズムからきています。

そして自己欺瞞は自己虐待です。

表面上はストレスがなくなったようでも、傷ついた感情は癒されないまま、新たなひずみを生んでしまいます。そして自分でもその関連性に気づけません。

「許したつもり」の弊害の一例

自分の過去の真実と向き合うことが怖く、「許したつもりになって」早々にセラピーを切り上げてしまい、後々もっとひどいうつや不安に苦しむ例はままあります。向き合うのが辛い場合は、その自分をごまかさずに「今は準備ができていないようなので一旦中断します」でなければなりません。自分に嘘を重ねていれば、何のためのセラピーかわからないのです。

「毒になる親」では、非常に示唆深いケースが取り上げられていますので、要約しながら引用します。

或る27歳の女性がフォワードの元にやってきた時、彼女はキリスト教原理主義者でした。原理主義者とは、経典に書かれていることを全て文字通り信仰し、近代的な解釈を一切拒否する狂信的な考え方のことです。彼女は11歳の時に義父に一年間レイプされ続け、その後も母親のボーイフレンドたちに性的ないたずらをされ、16歳で家出し、売春を始めました。

23歳の時にたちの悪い客から暴力を振るわれ、あやうく命を落としかけそうになって病院に担ぎ込まれ、その病院の若い用務員と知り合い、一年後に結婚しました。彼は熱心なクリスチャンでした。その後子供も生まれたものの、ハッピーエンドにはなりませんでした。彼女はひどいうつに悩まされるようになったのです。

フォワードは彼女を近親相姦のグループセラピーに参加させました。彼女は初め、義父のことも、自分を守らなかった母親のことも許していて、心は平和だと主張していました。フォワードはうつを治すために、しばらくの間「許す」ことは忘れて、内面に潜んでいるかもしれない「怒り」を感じ取る練習を始めたらどうかと勧めました。

ですが彼女はひどく抵抗し、「許す」ことの大切さを深く信じているし、治るために「怒る」必要はないと主張しました。フォワードによれば、「彼女の宗教的な信条が治療の邪魔をしていた」。彼女は「許したつもりになった自分像」を壊したくなかったのでしょう。

しかしグループセラピーに参加してしばらくたつと、彼女は他の参加者のために怒るようになりました(「貴方の親は、貴方になんてひどいことをしたんだ!」)。自分のことで怒れない人でも、他人が受けた理不尽さに心を寄せることによって、その人のために怒りを表現できるようになることがあります。彼女はそうやって、怒りを表現することの正当性を学んでいったのでしょう。

それから二、三週間後のころ、大転機が訪れた。ついに自分自身に起きたことに対する怒りがほとばしりはじめたのである。セラピーの途中で彼女は大声で叫び出し、子供時代を破壊し大人になってからの人生までめちゃくちゃにした両親のことを金切り声をあげてののしり泣きわめきはじめた。嵐が過ぎ去った後、すすり泣く彼女を抱きしめると、すべてを解き放った後の虚脱状態で、体からすっかり力が抜けてぐったりとなった。

彼女の感情が鎮まったのを見計らって、私は「敬虔なクリスチャンの女性があんな風になるなんて、一体どうしたっていうの?」とからかった。それに対する彼女の答えを、私は忘れることができない。

彼女は「きっと神様は、人を許す以上にもっと自分が回復することを私に望んでおられたんだと思うわ」と答えた。

同上

「許せたら偉い、許せないから心が狭い」では決してない

フォワードは更にこう述べています。

ひどい思いをさせられた人間は、「怒り」という感情を外に出す必要がある。子供の時に切望していた愛情を親から与えられなかった人間は「深い悲しみ」という感情を抑えておかずに外に出す必要がある。自分にされたことを矮小化するようなことはやめなければならない。人は簡単に「許して忘れなさい」と言うかもしれないが、それは「そんなことは何も起きなかったというフリをしていなさい」と言っているのと同じである。

同上 (太字と下線は足立による)

この怒りや深い悲しみを外に出す時、憎しみ、恨み、時として呪いとして表現されます。その自分を見たくない、自分にはそんな醜さはない、と思っておきたいと、外に出す作業は頓挫してしまいます。

そして「自分はもう親を許せた」と言う人に、通常多くの人は「偉いですね。立派ですね」と反応します。その場の雰囲気を壊さないために、そのような返事をしておくこともあるでしょう。しかし、本当にその人が怒りや深い悲しみを外に出せたかどうかはわかりません。親を心底軽蔑し、愛想が尽きて「もうこんなことで自分のエネルギーを使いたくない」と思い至ったから「許した」と言っていることもあります。

「許した」と言う人を「偉いですね」と、その場の方便ではなく、「そう思うべき」になると、「許せないのは偉くない。心が狭い」になってしまいかねません。それをしてしまうと更なる自己虐待をしてしまいます。許せなさを抱えながら、それに押しつぶされず、振り回されずに生きるのも、他人には決してわからないエネルギーと、心の強さを養う終わりのない努力が必要です。

付け加えますが、「親を許せなくなったきっかけ」は、上記の近親相姦の例のように「誰の目から見ても人道に反すること」とは限りません。他人からすれば「親なんてそんなもんじゃないの」ということでも、その人にとっては許しがたく感じることもあります。そしてそのきっかけは最後の一押しなのです。それまでに「見て見ぬふりをしてきた」無数の、小さくて巧妙な害があった上でのことです。

現実にはあからさまな暴言・暴力より、声のトーンや表情、態度振る舞いで圧迫する、わざと知らん顔、抗議すると「あんたは冗談がわからない」などとごまかす、前もって「親に逆らえないように刷り込んでおく」等、中々他人には理解してもらえない巧妙な手口の方が多いです。

「許せない自分」と共に生きるとは「神ならざる身」の自分を知ること

親が相も変わらず有害なコントロールをし続け、害毒をまき散らしているのに、こちらが一方的に「許す」のはおかしな話です。嫌がらせ目的のクレーマーや万引き犯を、その行為を決して止めないのに、人は許したりしません。また、クレーマーや万引き犯に「そんなことは間違っている、改心しろ」とも言いません。

ただ親の場合は、子供の切ない願いが中々消えません。「もしかしたら・・」とつい期待し、「一度でいいから『辛い思いをさせてごめんね』と心から謝ってほしい」と思うのもまた当然です。決してかなうことのない望みを無理やり消そうとする必要もなく、その痛みを抱えながら生きることによって、人は心の襞を深くすることもできます。

そうした痛み、そして「許せない自分」と共に生きることは、他でもなく「自分は神ならざる身なのだ」と、神のようには許せない自分を知っていくことです。ですから、自分の精神性を高める終わりのない努力はしても、それは「いい人であろうとする」「いい子でいなければ愛されない」とは正反対のことです。

「大人にとって、親にとっての『都合の良い子』を求める」こと、多くの大人がついやってしまいがちですが、それは大人のエゴでしかありません。「親や大人にとっての『都合の良い子』」とは「言いなり良い子ちゃん」であり、知らず知らずのうちに奴隷根性を植え付けられること、自尊感情とは全くの対極です。

それから解放されるためにどれほどの道筋が必要であったか。それを知る人が、心の底から「いい人でなくて、いい子でなくていいんだよ。『いい人であろう』としちゃいけないよ」という態度で、自分にも他人にも接することができるのだと思います。

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第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。