親からの言語化されなかったルールとは
私たちは子供の頃、良くも悪くも大人達から教育や躾と称された洗脳を受けます。必要で大事なこともあれば、生涯にわたる生きづらさの原因になるものもあります。
学校などの家庭外の教育も大事ですが、やはりその人の一生を大きく左右されるのは、親から受けたメッセージです。そしてこのメッセージには、言語化されたものと、言語化されなかったものがあります。
言語化されたメッセージは、子供の頃は「そんなものかな」と思っても、成長した後「やっぱりあれは違う」と自分で氣づけます。例えば「結婚して家庭を持ってこそ一人前だ」などです。昔はそうした考え方の人が大多数でしたが、今は本音はどうあれ、そのようなことを大っぴらに言う人の方が少ないでしょう。そして「結婚してるかどうかと、大人として一人前かとは関係ない」と自分が思えば、親の考えを自分で上書きできます。
一方で、中々自覚しづらいのは言語化されなかったメッセージです。これは親自身もはっきり自覚できていないことが多いです。そしてこのメッセージは、単なるメッセージで終わらず「無言のルール」にしばしばなっています。この「無言のルール」が大人になっても私たちを無意識の内に支配し続けているのです。
言葉に出して語られることのないルールは、目に見えない操り人形師のように子供を背後から操り、子供が盲目的に従うことを要求する。それらは意識のうえにも上がっていない隠されたルールであり、「父親よりも偉くなるな」「母親をさしおいて幸せになるな」「親の望む通りの人生を送れ」「いつまでも親を必要としていろ」「私を見捨てるな」などがそれである。
このような「無言のルール」は、子供が大人になっても人生にべったりとまとわりついて離れようとしない。この状態を変えるための第一歩は、まずこの事実を認めることだ。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」下線は足立による
自己否定感が強かったり、等身大の自分を受け入れられない場合は、この「無言のルール」に思い当たる節がないかどうか、振り返ってみましょう。人は自分に対して、過大評価か過小評価に傾きがちです。「ちやほやされなければ氣が済まない」も、「自分を低く見積もって責任逃れをし、誰か『やってくれそうな人』に押し付ける」も、根は同じです。「そのままのあなたを愛していますよ」というメッセージを、誰でもない親からもらえていなければ、そうなってしまっても不思議ではありません。
親と「絡み合って」いるかどうかの考え方のチェックリスト
「親の無言のルール」に縛られているかどうか、自分ではよくわからないことの方が多いかもしれません。その場合、以下のチェックリストを活用してみましょう。これもフォワードの「毒になる親」からの引用です。
- 親は私の行動しだいで幸せに感じたり感じなかったりする。
- 親は私の行動しだいで自分を誇らしく感じたり感じなかったりする。
- 親にとって私は人生のすべてだ。
- 親は私なしに生きられないと思う。
- 私は親なしに生きられないと思う。
- もし私が本当のこと(例えば、離婚する、中絶した、同性愛である、フィアンセが外国人である、等々)を打ち明けたら、親はショックで(または怒りのあまり)倒れてしまうだろう。
- もし親にたてついたら、私はもう永久に縁切りだと言われるだろう。
- 彼らがどれほど私を傷つけたかを話したら、私はきっと縁を切られてしまうだろう。
- 私は親の氣持ちを傷つけそうなことは何ひとつ言ったりしたりするべきではない。
- 親の氣持ちは自分の氣持ちよりも重要だ。
- 親と話をすることなど意味がない。そんなことをしたところで、ろくなことはないからだ。
- 親が変わってさえくれれば、私の氣分は晴れる。
- 私は自分が悪い息子(娘)であることについて親に埋め合わせをしなくてはならない。
- もし彼らがどれほど私を傷つけたかわからせることができたら、彼らも態度を変えるに違いない。
- 彼らがたとえどんなことをしたにしても、親なんだから敬意を払わなくてはならない。
- 私は親にコントロールされていない。私はいつも親とは闘っている。
フォワードは「もしこれらのうち四つ以上が『イエス』だったら、あなたの心はいまだに親と相当絡み合っている」と述べています。
もし、他人からこの項目を真顔で言われたらどう感じるでしょうか。こうした状態は決して健全ではない、異様なことが起きていると実感できるでしょう。
特に①、②、⑦、⑧、⑨、⑩は、「親の感情の責任は子供である自分にある」という前提になっています。これはよくよく考えればおかしなことです。「その時相手は泣くかもしれない。怒り出すかもしれない。それでも憎まれ役を買ってでもそうしなければならない」ことは、大人にはついて廻ります。大人でなくても、少ししっかりした子供でもわかってやっていることです。
ここで「親子の役割逆転」が起きていることがわかります。親の方が赤ん坊になって、子供に機嫌を取ってもらおうとしています。「これはおかしな状態なのだ」と氣づけると、問題解決のためのスタートラインに立てています。
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親に罪悪感や恐れで支配されていないかのチェックリスト
人を支配する常套手段は「飴と鞭」です。但し飴の方は相手が慣れてしまうと、ちょっとやそっとのご褒美では動かなくなります。昇給しても嬉しいのは束の間で、すぐに忘れて元の木阿弥になるようなものです。そして飴よりも「それをやる方が面倒くさい」であれば、やらないのが世の常です。
鞭で動かすとは、要は脅しですが、あからさまな脅しは相手が反発し、歯向かってきたり無視されたり逃げられたりされかねません。ですので、相手の心に罪悪感、そして恐れを抱かせることで動かそうとします。この場合、人は「操作されている」と中々氣づきにくいのです。まして子供なら尚更です。
またフォワードによるチェックリストを引用します。
- 私は何事でも親の期待通りにできないと罪悪感を感じる。
- 私は親の氣分を害するようなことをすると罪悪感を感じる。
- 私は親のアドバイスに逆らうと罪悪感を感じる。
- 私は親と言い争うと罪悪感を感じる。
- 私は親に腹を立てると罪悪感を感じる。
- 私は親を落胆させたり氣持ちを傷つけたりすると罪悪感を感じる。
- 私は親のために十分頑張っていないと罪悪感を感じる。
- 私は親からするようにと言われたことをすべてやらないと罪悪感を感じる。
- 私は親の言うことを拒否すると罪悪感を感じる。
- 私は親に大声を出されると怖い。
- 私は親に怒られると怖い。
- 私は親に対して腹を立てるのは怖い。
- 私は親が聞きたくないだろうと思われることを彼(彼女)に言うのは怖くてできない。
- 私は親が愛情を与えてくれなくなるのが怖い。
- 私は親に反対するのが怖い。
- 私は親に反対して立ち上がるのは怖くてできない。
これらも、親友や、或いは我が子から言われたらどう感じるかを想像すると、如何に不健全で不幸なことかがわかるでしょう。情のある人なら、我が子が元氣で幸せでいてくれたらそれでいい、親のことなど忘れてるくらいで丁度いいと思うでしょう。我が子がこのようなことを感じていたら、「私は親として何てかわいそうなことをしてしまったのだろう」と思うものでしょう。
また以前の記事で書いた「親との対決」は、最後の「私は親に反対して立ち上がるのは怖くてできない」を払拭するためのものです。
対決はしてもしなくてもよい、ただ「せざるを得ない」場面がやってくることも親との対決とは、真正面から親と向き合い、これまでの有害で不健康なコントロールについてはっきりと発言し、踏みにじられた心を回復するプロセスです。この対決[…]
記事にも書きましたが、直に親と対決しなくても、手紙書きやロープレなどでも充分です。何かあった時に親に対して毅然と、しかし感情的反応的にならずに「No」を言える自分が育っていれば良いのです。
「○○すると/しないと悪いような氣がする」が起きていないか
罪悪感で操作されることと、良心の呵責を感じることは全く別物です。良心に沿って選択したことは、結果がどうあれ、また人にどう評価されるかは別として「これで良かった」と自分が納得できます。
罪悪感で動かされるのは、上記のチェックリストのように「相手(この場合は親)に対して○○すると/しないと悪いような氣がする」です。「マスクをしないと人の目が氣になる」がその典型中の典型です。結局は「だって誰それが」つまり「私は他人から脅されて動かされた」になります。自分の人生を生きていません。良心に沿って選択したことは「だって」になりません。この違いが大変大きいのです。
子供は親からの愛情を切に求めます。それは当然の本能ですが、「愛されるために○○する/しない」は取引です。心が健全な親なら「そんなことは考えなくていい!そのことと、やって良いことと悪いことの区別をつけるのは別」と伝えようとするでしょう。しかし心が不健全な親は、それこそ飴と鞭を使って、「愛されるために○○する/しない」と子供を調教してしまうのです。子供を一人の人間ではなく、サーカスの獣にしてしまいます。
そしてまた「愛されないのは私が悪い、価値がないからだ」とどうしても子供は受け取ってしまいます。親に愛されずして、子供自身が「自分は自分で良い」と心底思えるようになるのは中々考えにくいです。もしそうした子供がいれば、それは余程その他の大人から愛され、励まされ、何より本人の主体的な頑張りがあればこそでしょう。
大人の分別を使って考えればわかりますが、「愛されなかったからと言って、愛されない方が悪く、価値がないわけではない」のです。嫌がらせは、嫌がらせをする方に問題があるのと同じです。相手に「愛する心と技術」がなかったのであって、愛されなかった方の、まして子供の責任ではありません。
この点も大変重要で、「愛されなかったのは子供の自分の責任ではない」と心底思えることと、「大人になってからの人生は、(親からの影響が簡単に消えはしないにしろ)自分の責任。果たすべき責任を果たし、人との信頼関係を築いていくのは誰でもない自分がやること」が分離自立のためにセットで必要です。この反対の「親から愛されなかった私はダメ」「親がああだったから、大人になっても私がこんななのは仕方がない」をやり続けると、自尊感情は下がりっぱなしになります。心が不健全な親は、自覚の有無に関わらず、この状態を続けてきたのです。
親に限らず、職場や、異性、友人に対しても「○○すると/しないと悪いような氣がする」になっていないか、振り返ってみましょう。「横入りの電話を切り上げるのは悪い氣がする」「お客様の無理難題を断るのが悪い氣がする」「LINEの返信をしないと悪い氣がする」等々です。日常の小さな「○○すると/しないと悪いような氣がする」は、ついつい目をつぶってやり過ごしがちです。しかしこうしたことから、蟻の一穴の例えのように、ダムが決壊することはあります。
逆から言えば、これらの小さなこと、例えば横入りの電話が長引いたなら、「原則10分を超えたら改めてアポを取り直してもらう」などとあらかじめ決めておき、「ごめんなさいね、今はこれこれで」と断れると、ダムの決壊を防げます。
まず氣づくこと、そして「私は○○する/しない」を生きる
今回引用したチェックリストを活用し、「自分は親の『無言のルール』によって、不当に人生を縮こまらせてしまった」と氣づけたなら、それは大変勇氣の要る、大きな一歩を踏み出せたことになります。誰に氣づかれなかったとしてもです。洗脳は氣づかないからこそ洗脳であって、意識化は洗脳を解くための必要条件です。
そして「○○すると/しないと悪いような氣がする」から、「私は○○する/しない」で今日から生き始めましょう。横入りの長電話を断るなど、誰にでも起きる小さなことからで充分です。既にやっている人は、更に意識的にやってみましょう。意識的にやるとは、自分の選択に責任を持つことです。
「私は○○する/しない」を積み重ねると、自分の軸、芯が強くなります。他人がどう言う、どう思われるではなく、自分自身に忠実であろうとする、その自分が育ちます。本当の自信とは、能力や評価評判に左右されるものではありません。「私は」を主語にして人生を生きることそのものです。
自尊感情豊かに生きるとは、いつの間にか刷り込まれてしまった洗脳、特に「親からの無言のルール」を解除することと、同時に「私は○○する/しない」を生きることとの、両輪で実現するのです。