意図的にやったことでなければ許せても
よく「人を許した方が自分が楽になれる」と言われます。確かに、普通の心ある人なら自ら好き好んで「許したくない」わけではありません。許さずにいること自体がストレスですし、どんな人も「許したいけれど、許せない」葛藤に悩むのです。
相手が意図的にやったことではないこと、うっかりミスや話の行き違いで起きたことなら、相手が真摯に謝り、原状回復できれば大抵の人は許すでしょう。
(ミスであっても取り返しのつかないことなら、事の大きさによっては許せなくて当然です)
しかし、意図的に信頼を裏切られたこと、相手が嘘をついて欺いていたと知った時の心の傷は、大変深くなります。簡単に許せなくて当然でしょう。信頼を寄せていた自分の人生を否定されたように感じてしまうからです。
例えば浮気した方はほんの出来心、自分の虚栄心を満たしたいだけかもしれませんが、された方は自分を否定されたように感じ、深く傷つきます。このギャップが人間の苦悩を生みます。
その時「許せない自分は心が狭いんじゃないか」などと、自分を責めると更に苦しくなってしまいます。
そしてまた、相手が悔い改めて心を入れ替えたり決してせず、のうのうと涼しい顔をしてまた同じことを繰り返していると、余計に心の傷が深くなります。
どうやってこの許しがたい感情に折り合いをつけていくか、これは千差万別でこれだけが正解、というものはありません。
今回は一つの事例をヒントとして取り上げます。
信頼していた人に裏切られた女性のセッションから
ある女性が、長年信頼と尊敬を寄せていた相手から、実は欺かれ、裏切られていたというご相談を受けました。
彼女の気づきの部分の会話は以下の通りです。
(このクライアント様から「もしこれが他の人のお役に立つのなら」のたっての願いのため、記事にすることにしました。また、個人の特定を避けるため、事実の詳細は省きます)
クライアント様:C
C:「実はあれもこれも、嘘だったんだとわかった時は、本当にショックでした。『一生許せない!』と思いましたね。そしてあっさり騙されてしまった自分が、不甲斐なかったです」
私:「『一生許せない!』という思いを失くしたい、とお考えですか・・・?」
C:「そうですね・・。なくなったら楽になるでしょうけれど。でもあの人がやったことは、誰に対してでも許せることじゃないです」
私:「そうですよね。やった行為は、Cさんに対しても大変失礼だったし、誰に対してでもやってはいけないことですね」
C:「私がある友人に『何でこんなことをするのか理解できない』と言ったら、『僕は共感はしないけど理解はできるよ。そういう人たちって、他人はその都度の消耗品なんだよ。不信感は植えつけ放題で平気なんだ』って。
彼の言うことは、頭では理解できても、心情的にはまるで理解できないです」
私:「なるほど。私はCさんが、心情的に理解できない人でよかった、と思いますよ。それはCさんの中にないことだから、理解できないんですよね」
C:「そうですか・・ありがとうございます。だからこそ騙されてしまったのかもしれないですけど」
私:「心情的には理解できない、つまり『他人を消耗品としてみる』ことは決してしないCさんのままで、更に何があったら、次に似たような人に出会ったとき、あんな風に騙されてしまわずに済むと思いますか?」
C:「かつては『この人についていけば安心』という人が欲しかったんだと思います。その心の隙を突かれたというか。
あんまり上手いことを言う人は、眉唾ですね~(笑)。口当たりの良いことばかり言う人には『これは本当かな?』とペンディングして、すぐに飛びつかないことだと思います。どんなにすばらしい人でも、他人である以上参考意見でしかないんですよね」
私:「すぐに飛びつかない、これは客観視の姿勢ですね。その客観視をしているCさんから、Cさんを欺いた相手を今はどう思っていますか?」
C:「やったことは許せませんけど・・・。でも、結局は、あの人は自分で自分をまがい物にしてしまってるんですよね。人間って、そう馬鹿じゃないし、もう騙される人も減ってくるでしょう。全部自分に返ってくると思いますよ」
私:「そうですね。人を許せない時って、相手を正してやりたくなるものですけれど、自分が自分を正そうとしなかったら、結局は全部自分に跳ね返ってくるものですね」
C:「そう思います。私が頑張ってお説教しなくていいんだなって(笑)」
行為やあり方が許せなくてもいい、それを理解できない自分でいい
少々解説めいたことを言うと、Cさんを欺いた人の行為や、あり方をよしと思わなくていい、許せなくていい、ということです。
それと、「自分が世界の中心に居座って、間違った行為やあり方を正さなくてはいけない」ことは別だ、ということが、Cさんの腑に落ちたのでしょう。
「許せない!」と感情的になっているときは、この「自分が世界の中心に居座って、間違った行為やあり方を正さなくてはいけない。でもできない」のジレンマに陥り、それが自分を苦しめていることが多いです。「あんたそれどうにかしたらどう⁉おかしいと思わないの⁉」
またCさんのお友達は「そういう人たちってこれこれなんだよ」と解説し、「教えたまわる」ことでCさんを助け導こうとしました。よく人がやってしまうことですが、大抵上手くいきません。
「頭ではわかるけど・・」になってしまいます。これで「ああ、そうですね」とCさんが納得できれば、最初から悩みはしないのです。こうしたことは、紆余曲折の上、最終的に「自分で」気づくしかありません。
私は「Cさんがそれを心情的に理解できないということは、それがご自分の中にないからですね」と、「Cさんの心の中ではこういうことが起こっているのではないですか?」と言語化して提示しました。
これには、良い悪いの評価はなく、ただ「そういうことが起こっているのでは?」と示しただけです。
人は悩んでいる時、愚痴や不平不満を言葉に出しても、「自分の心の中で起きていること」がよくわかっていません。だからこそ混乱し、悩みます。
そして「そのCさんでよかったと、私は思いますよ」と「その自分でいいんだ」の自己承認のきっかけを差し出しました。Cさんはそれを素直に受け取ってくれました。
またCさんは、「自分にも心の隙があった」と自己受容することができました。道義的責任(良い悪いの責任)は相手にあるけれど、それを引き起こした要因は自分にもあった。だからこそ、この要因を自分でなくすことができる。この要因がなくなれば、「もうあんなふうに騙されずに済む」。そしてその自分を実感できれば、「もしまたあんなことが起こったらどうしよう」と前もって恐れることはなくなります。
心の隙を突かれてしまうことは誰にでも
Cさんの気づきにあった通り、客観視の姿勢や、また「自分は自分でよい」という自己受容、そして「自分の歩みを自分で認めていく」自己承認が、心の隙という騙された要因をなくすでしょう。
しかし、何が起きるかわからないのが人生です。病気や事故、思いがけないトラブル等で、心が弱くなることはどんな人にも起こります。
そしてまた、人間を基本的に信頼していない人はやはりいるものです。そうした人は「どうやったら自分が支配されるより先に、自分が優位に立って、人を利用し、支配できるか」を常々考え抜いています。或る意味、悲しい人たちとも言えるでしょう。そして悪魔ほど天使の仮面を被っています。一目で「嫌だな、近寄りたくない」と思う人は、こちらがすぐ用心できるので、実はそれほど怖くありません。
心が弱っているときはなおさら、心の隙を突かれることはやはりあるものなんだ、自分は絶対大丈夫と慢心しないことが、結果的に自分の身を守ってくれるでしょう。
畏敬の念を持って向き合わなければ、滅ぶのはその人
心の傷は、癒えた後すっかり消えてしまうものと、傷口がふさがっても跡が残るものがあります。
信頼を裏切られた心の傷は、癒えた後、普段はその存在を意識していなくても、やはり跡が残るものでしょう。それくらい、信頼とは人間にとって不可欠なものだからです。
上記のCさんのケースは、相手が他人でした。これが肉親や、配偶者、恋人であれば、その傷はもっと深くなったでしょう。
「相手もやむを得なかった、そうせざるを得なかった」とか、「自分にも原因があった」などと或る程度許容できる場合と、そうでない場合があります。
ですから、全てはケースバイケースで、根気強く一つずつ向き合う必要があります。
ただ、人の世はそう捨てたものでもまたなく、信頼を決して裏切らない人、口先のポーズではなく、日々それを生きようとしている人が、世の中の誰からも見捨てられ、孤独な人生になることもまたあり得ません。
物でも事でも、勿論人でも、畏敬の念を持って扱い、向き合わなければ、滅ぶのはその人です。それを他人が止めることはできません。
そしてまた、「滅んでいく人」と、関わるのかどうかを決めるのも自分です。それは家族・肉親であっても同じです。
無傷でいられる人生などありません。「無傷ではない自分」を受け入れていくことも、自尊感情の大切な要素です。