同じ感情が習慣化されると「○○な人」の人格になってしまう
喜怒哀楽全ての感情そのものに、良い悪いはありません。喜びや楽しみが良くて、怒りや悲しみが悪いとは限りません。「何に対して、どのように」怒ったり悲しんだり、喜んだりしているのかが問われます。
ですが怒りや悲しみなどのネガティブな方の感情は、誰しも好き好んで感じたいものではありません。だからこそ、否定せずに受けとめる習慣がとても大切です。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
但し、昨日も考えたあの嫌なことを思い出し、また同じ感情を繰り返し感じ、それが習慣化されると、怒りなら「怒りっぽい人」、悲しみなら「陰氣な人」などの、人格として固定されてしまいます。そして怒りっぽい人なら怒りっぽい人生に、陰氣な人なら陰氣な人生に方向づけられてしまいます。
喜怒哀楽全ての感情を大切にしながら、「怒りっぽい人」「陰氣な人」にはならない、これにも意識的な習慣化が必要です。
無関心や抑圧、ネガティブに嵌りっぱなしも良くない
人が「ネガティブな感情を感じまい」として、真っ先にやるのが無関心になることです。心理学的には否認と言います。事実を否定することで、起きた出来事を意識の外に追いやって「なかったことにする」、或いは矮小化(「そんなこと大したことじゃない」)したり、歪曲(「だって〇〇が」「みんながそうしてる」の責任転嫁など)したりすることです。これが一番楽ですが、責任ある大人の態度ではありません。
もしくは抑圧と言って押し殺す、抑えつけることです。しかしこれもまた、心や体のどこかにひずみとして現れます。
また「感情を否定しない」のは、ネガティブな感情にどっぷり嵌りっぱなしとも異なります。どっぷり嵌りっぱなしは、冒頭の「人格として固定化」になりかねません。
ニュートラルポジションに自分を戻す・呼吸法
その時その時、自分が何にどう感じたかが自分自身の発露です。2025年5月現在、お店の人達が未だに体裁のためにマスクをし続ける、「いつまでそれやってるの?そんなことやってるの日本だけだよ」と内心うんざりするのも、それが自分だ、ということです。何も感じないのは楽かもしれませんが、無感覚、無感動が良いのかどうかはまた別の話です。
日常の小さなうんざりとか、ちょっと面倒、嫌だな、怖いなと思うことに、正直でありつつ嵌り込まない、そのために「ニュートラルポジションに自分を戻す」を意識してみます。ニュートラルとは中立であるという意味です。ニュートラルな立ち位置から、その感情をただ観察し、眺める。そうすると小さな不快は流れ去って行くのがわかるでしょう。

この時、深い呼吸と共に「ニュートラルポジションに戻す」とイメージすると、より氣持ちが落ち着きます。
呼吸法は様々なやり方がネットやYouTube動画などで紹介されているので、ご自分に合ったやり方を実践してみてください。ここでは丹田を意識した呼吸法を紹介します。
簡単な丹田呼吸法
まず丹田の位置を確認します。両手の指を揃え、片方の手の親指をおへそに当てます。もう片方の手を、上の手のすぐ下に置きます。下の手の位置が丹田です。

まず、鼻か口から息を長く吐き、丹田をへこませきります。4つ数を数えてそのままキープし、それから鼻から自然に息が入り、再び丹田が膨らむまで息を吸います。また4つ数を数えてから、丹田をへこませるように息を吐きます。これを3~4回繰り返します。4つ数を数えてキープが苦しければ、飛ばしても構いません。
この呼吸法を繰り返しながら、ニュートラルポジションに自分を戻し、様々な感情をただ観察し、それらが流れ去って行くとイメージします。
呼吸法をする余裕がない時でも「ニュートラルポジションに戻す」を意識するかしないかで、心のありようは変わってきます。
真面目な頑張り屋ほど「まあ、こんなもの」と受け入れるのが苦手
良心と広い視野に基づき「物事はこうあるべき、こうあってほしい」と理想を持ち、それに向かって努力をする、それは大事な美質です。これがなくなればただの野放図、ごみのポイ捨てに良心の呵責を感じないのと同じです。
一方で、見出しの通り、真面目な頑張り屋ほど「まあ、こんなもの」と受け入れるのが苦手かもしれません。
美容を例に取ると、歳を取れば取るほど、その人のできる範囲で身ぎれいにする心がけは大切でしょう。「もう歳だし」と開き直って諦めるのは、自分を大切にしていません。
しかし、今は巷で美容医療が花盛りで、明らかに不自然なほどやり過ぎてしまう例が、ネットで揶揄氣味に書かれています。私は美容医療を全否定はしません。職業上、シミやほくろを取ったり、歯のホワイトニングをする必要がある人もいるでしょう。しかし表情が出なくなってしまうほど、顔にあれこれ施すのは本末転倒のように思います。
身ぎれいにする心がけは保ちつつ、歳を取ることそのものも受け入れ、「素敵な歳の取り方をしてるわね」になる、そのバランスが大切でしょう。
これが精神的なことだと、もっと葛藤が生じます。この際も、「ニュートラルポジションに自分を戻す」と、自分にはどうにもできない現実を「まあ、こんなものよ」「世の中そんなものかもよ」と受け入れやすくなります。道義的な是非はともかく、「今の自分にはどうにもできない」現実を受け入れるのもまた、「頑張って何とかしようとする」こととは異なる勇氣が要ります。
その人の態度や行為を良しとは思わない、嫌なことをされたら嫌だと思う、そう感じないと自分の境界線を引けません。境界線を引いて自分の領域を引っ掻き回されなければ、「残念な人ね」「がっかりしたなあ」とは思っても、「それは良いとは思わない」と主張したり、具体的な態度や行動について注意や叱責をしても、「あんたそんなことで良いのか、改心しろ!」にいつまでも囚われ続けない、これがニュートラルポジションに自分を保っている状態です。
人の脳には、どんなに破滅的なことであっても慣れたことを繰り返そうとする特性が万人にあります。これを断ち切るには本氣で反省するしかありません。後悔は反省のための最初の入り口です。「選択責任は自分にある」が腑落ちしていないと、ただ周囲や自分を責めるだけで、反省になりません。本人に反省する氣がなければ、同じことを何度でも繰り返し、やがて心ある人ほどその人の元を去って行きます。蒔いた種は自分が刈り取るとはこうしたことです。
それでも流れてしまわない感情は感じ切り、氣づきを得る
小さな不快な感情は「ニュートラルポジションに戻す」で流れても、事柄によってはそうもいかないこともあります。その場合は、感じ切って外に出すことが必要になるでしょう。
殊に自分に直接どうこうされたわけでもないのに、何か引っかかる、何度も思い浮かぶのは、そこに自分が得るべき氣づきがあるからです。
口に出さずに内心で悶々とするより、一人でいる時に声に出して「何が嫌だったか」「何に引っかかっているのか」「何が納得できないのか」「どうするべきだと思っているのか」などを言ってみます。心の中であれこれ思うより、声に出した言葉をまた耳から聞くので、より客観的になれます。
人に愚痴をこぼすときは「あの人がどうしてこうして・・」というドラマを口頭で再現しようとします。それよりも、自分が何にこだわっているのかを明確にしてしまうのが目的です。「あの人の悲劇のヒロインっぽいところが、無責任で反省がないのが嫌」など。その自分のこだわりに良い悪いはありません。裏を返せば「責任を持ち、反省のある生き方」を自分が大事にしたい、それが自分の信念だ、ということです。
そして改めて「私は責任を持ち、反省できる生き方をする」と自分に宣言します。
信念が強い人ほど、失望や傷つくことも増えます。自分の信念をもやもやの中から再発見し、「それで良いんだ」と肯定できると、嫌な出来事がただ嫌なだけではならなくなるでしょう。
同じ感情に囚われ続けると「現実を俯瞰する」ことができない
「ニュートラルポジションに戻す」のは、単なるストレス対策のためだけではありません。
誰しも経験があると思いますが、不安や苛立ちや納得のいかなさに囚われている人に「これは、これこれ、こういうことだから、そんなに不安がらなくても大丈夫よ」と説得しようとしたけれど上手くいかなかった、ということがあるでしょう。他人だけでなく、自分もそうだったかもしれません。
私たち大人は、道義的責任は自分にはないことであっても、対処する責任、そして選択責任がついて廻ります。そのためにこそ、刻々と変わる状況を正確に把握し、単に知識情報を仕入れるだけでなく「誰が、何の目的でこのようなことを言ったりしたりするのか。行きつく先は何か」の背景を考え、そして「今は何を優先するべきか」を常に自分に問い続けなければなりません。
喜怒哀楽全ての感情は大切なのですが、見出しの通り、同じ感情に囚われ続けると「現実を俯瞰する」ことができないのです。結果、正しい判断を下せません。
コロナ騒動において恐怖を煽られたことがその典型です。2020年の夏ごろには多くの人が「コロナはペストやエボラ出血熱のような激烈な感染症ではない」とわかっていました。それにも関わらず、「人から悪く思われないために○○する」という、恐れから来る打算的な生き方をやめられないと、マスクを外す勇氣、ワクチン接種を「裁判を起こしてでも拒絶する」胆力を持てないのです。
衆に優れた人物は、運に恵まれようと見離されようと、常に態度を変えないものである。
運命は変転しても、彼らは毅然とした精神を保ち続けているので、他人の眼には、運命もこの人々にはなんの影響も与えないのではないかとさえ、見えるほどだ。
マキャベリ「政略論」
「この人、大した人だなあ」と思える人が周囲にいたら、その人の感情状態をさりげなく観察してみましょう。いつも不機嫌、いつも憂鬱そう、しょっちゅう一喜一憂して感情が上下する、そうした人で大事を為せる人はいません。パッと発散させてしまう人はいるかもしれませんが、終日ブスっとしていることはないでしょう。
いつ会っても、特別ニコニコはしていなくても、落ち着いている筈です。その人にも、色々なことは起きています。どれくらい意識しているかはわかりませんが、結果的に「ニュートラルポジションに戻す」をやっているのだと思います。そしてこれも、心がけ次第で、誰かにできて誰かにはできないものではありません。