失敗した後、反省を促すのではなく責める人
私たち人間は機械ではありません。ですので、必ず大なり小なり失敗はあります。
失敗をした後、例えば上司が「次からはどうするの?」と再発防止のための反省を促すのは、上司として当然の仕事です。
仮に厳しい言い方をしても、愛情があればこそ成長を促そうとします。まあまあ、なあなあで甘やかす方が不誠実です。
しかし、もし上司が反省を促すのではなく、ねちねちと責める場合、それは上司自身が自分に失敗をすることを許せていません。
失敗=悪、くらいに考えています。「失敗なんかしない、ほれぼれとする自分しか愛せない」だから他人にも許せないのです。
もしかすると自分の失敗は見て見ぬふりをしたり、ごまかしたり、誰かに尻拭いを押しつけて、自分は知らん顔をするかもしれません。
これは一見自分の失敗を許しているようですが、真実は異なります。
失敗した自分に耐えられないから、その自分を直視できないから、失敗という事実から逃げ出しています。
このような上司の部下になった人は、とんだ災難です。
スルースキルを身につけて、あとは悩みを共感して聞いてもらえる人をみつけることをお勧めします。
その上司は、本当は失敗した部下ではなく、自分を憎んでいます。部下に憎んでいる自分を投影しています。
これは自分で気づかない限り、他人が止めることはできません。
達人は小さなほころびを見逃さない
真に出来る人は、必ず失敗から学んでいます。自分も大小無数の失敗をし、そこから這い上がった経験が何回もあります。
それは他では代わりにならない貴重な学びだと、心底わかっています。
ですので、失敗の中身に関しては、厳しく向き合わせて学ばせようとします。テストで間違った箇所をただ責めたり、まして放り出して見て見ぬふりではなく、「間違いのやり直しをすること」が本当の勉強なのと同じです。ですから、失敗そのものは受け入れる度量があります。
失敗しないことではなく、取り返しのつかない大惨事になるずっと手前の、小さなほころびの内に発見し、すぐに改善する方がはるかに重要です。そのためにこそ「人は失敗をするもの」という前提に、まず自分自身が立っていなくては、小さなほころびを見て見ぬふりをしてしまいます。達人とは、凡人が見過ごす小さなほころびを、見逃さない人のことです。
人は皆、等身大のその人であることが大事です。その一方で、人間がやることに完璧はありません。つまり気づく気づかぬ関係なく、なにがしかの「失敗」は必ずあるのです。
人は失敗ではなく、その後の態度を見て、そして忘れない
自尊感情が低いうちは「ほれぼれとする完璧な自分しか愛せない!」「100点取ったら愛してやる!」を自分にやってしまうので、些細な失敗さえ気に病んでしまいがちです。
「ごめんなさい!」と真剣に謝り、あとの対処も終わったのに、なおクヨクヨしてしまう時は、自尊感情が充分に高まっていないサインです。
ところで、人は他人の失敗ではなく、その後の態度をよく見ていて、そして忘れません。トラブルが起きた時に取った態度を、人はよく見ていて忘れないのと同じです。
「もし友達が同じ失敗した時、失敗そのものを見ていますか?失敗した後の態度を見ていますか?」
こう問いかけると、本当に自分が取るべき態度がわかってくるでしょう。
真の謝罪や反省は実は難しい
上述した通り、人の真価が問われるのは、成功した時よりも寧ろ、失敗をどう受け止めたかです。
ナポレオンがウォーターローで敗れ、イギリスの海軍に捕虜として捕らえられた時、数万のイギリス人が一目ナポレオンの姿を見ようと波止場に連日詰めかけました。
ナポレオンにより20年間も辛酸をなめ続けたイギリス人にとって、彼は不倶戴天の敵でした。
その憎い敵がついに捕らえられたのですから、イギリス人がどんなに驚喜したか想像に難くありません。あの有名なナポレオン帽を被った彼がついに船の甲板に姿を現した時、それまで騒ぎ立っていた数万のイギリス人達は、一斉に沈黙し、波止場は水を打ったように静まり返りました。
そして、誰からともなく、一斉に帽子を取り、無言で彼に敬意を表しました。囚われの身になったナポレオンは、意気阻喪した惨めな姿を晒してはいませんでした。
敗れてもなお、王者の誇りを失わず、敢然として自分が招いた運命を引き受けていました。
その気迫が、数万の敵方の人々の心を打って、自然に頭を下げさせたのです。(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」より要約)
こうした態度は、一朝一夕に成るものではありません。
真の反省や謝罪は、実は難しいのです。心から「しまった!申し訳なかった」と思ってではなく、「謝っておかなければ後が面倒だから」「自分が悪く思われたくないから」では本当の謝罪ではありません。こうした態度を全く取ったことがない人もまたいないでしょう。謝罪の前に言い訳が出たこともあるでしょう。「あるがままの自分」とは、そうした自分をごまかさないことです。
「敢然として自分が招いた運命を引き受ける」これは言い訳や責任転嫁や自己保身が微塵もない態度です。裏から言えば、責任転嫁が如何に誰でもない自分を腐らせてしまうか。失敗に真摯に向き合う、或いは向き合わせるのではなく、ただねちねちと自分や他人を責めるのなら、滅ぶのはその人なのです。