「0か100かをやめたい」「何故あの人は0か100かなのか」
このページに辿りついた方は、自分自身に対して「0か100かをやめたい」と思っておられるか、他人に対して「何故あの人は0か100かなのか」と不満や疑問を持っておられるかの、いずれかではないでしょうか・・?。
普通の心ある人なら「0か100かで構わない。それの何が悪いんだ」などと、そんな開き直りはしません。それは望ましくないとわかっていて、しかし「0か100か」で考えて、小さな一歩を踏み出せない、そのジレンマに悩みがちなのではと思います。
人は何故、0か100か思考に陥るのでしょう・・?それには主に、2つの背景があります。
0か100か思考の2つの背景
0か100か思考の背景には、まず誰しも陥りがちな脳の過度な一般化があります。後述しますが、脳は省エネをしたいため、「ざっくり考える方が楽」「細分化して考える方が面倒くさい」のです。これは訓練次第ですが、誰にでも克服は充分可能です。ですが、意識的に取り組まないと、中々やらないことの一つかもしれません。
もう一つはもっと根の深い、自己否定感が挙げられます。特に親から、挑戦を励まされ、失敗を慰められ、勇氣づけられたかどうかに大きく左右されがちです。自尊感情の豊かさとは、結果の優劣で左右されるものでは本来ありません。「自分がこうしたい。これが大事」と心から思って選択したことの積み重ねによります。それが道端の空き缶を拾うといった、誰にでもできる些細なことでも充分なのです。
この「これが大事だと思う。自分がこうしたい」を、親からあざ笑われたり、無視されたり、もしくは過剰な禁止・命令や世話焼きで子供の自発性を摘み取られてしまえば、子供は次第に自分の意志を放棄するようになっても無理はありません。結果、指示待ちの言いなりになってしまいかねません。指示待ちの言いなりになれば、「100が担保されないのならやりません」になっても、全くおかしくはないでしょう。
①過度な一般化・脳は楽をしたがる
ところで、脳は他の体の器官よりも、多くのエネルギーを使います。一日に約400kcal、ご飯二膳分、一日の総摂取カロリーの約20%を脳が使っています。ノーベル賞受賞者の学者さんで、肥満体の人を少なくとも私は知りません。
そして人間に限らず、動物は飢餓に備えるために省エネモードになっています。体でも脳でも「楽をしたがる」のは、この省エネモードのためと考えられています。そして脳が楽をするためにやることの一つが「過度な一般化」です。
0か100か、白か黒かで物事を決めつけて、脳の中に入れた方が楽、それが過度な一般化です。「男はみんな浮気する」「女は受け身」「○○人は△△だ」物事に単純化されたラベルをつけて、脳の中に入れる方が楽なのです。あらゆる角度から詳細に考える方が面倒くさいのです。
もしくは、中々わかりづらいのですが、「私にできたんだから、あなたにだってできるでしょ」も、一般化になります。或いは「自分が標準だ、世の中がトチ狂ってる」なども、そうかもしれません(私は生まれてこの方、ずっとそう思ってきました)。これは知能の高さとか、経験の多寡とは無関係に作動してしまいます。
しかし現実は大変複雑で、また流動的です。白と黒の間には、無限のグレーがあり、そのグレーがマーブルになってしかも動いているのが現実で起きていること、皆さまも実感されているのではと思います。
子供が幼い時は、クレヨンは12色です。赤や白や黒は、一つしかない世界観です。大人になれば、白と一口に言っても様々であることが、自ずとわかっていきます。
子供の間は、「赤も白も黒も一つしかない」の単純化した思考でも良いかもしれません。しかし、私たち大人には、複雑な現実に対処する責任が生じます。そのため、様々な角度から考え、細分化する思考を鍛えていく。意識はせずとも取り組まれている方も多いとは思いますが、こればかりは本人がその必要性を感じないと、他人が指導してもピンと来ないのかもしれません。
これはお勉強ができるできないの頭の良さとは異なり、ひとえに日々の訓練の賜物です。訓練なので、誰でもさぼれば単純化する思考に、残念ながら退化してしまいます。
②自己否定感⇒「ほれぼれとした自分でなければ許せない」⇒結果何もやらない
①は誰にでも起きるということは、裏から言えば訓練次第で誰でも克服できるということです。②の自己否定感の方が根が深く、克服にはより長いプロセスが必要なものだと思います。
見出しの自己否定感⇒「ほれぼれとした自分でなければ許せない」に、疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。「ほれぼれとした自分でなければ許せない」はナルシシズムと称されます。人は誰も皆、ナルシシズムを持って生まれてきます。幼い子供が、かっこいいスーパーヒーローやきれいなお姫様になりたがるのは、このナルシシズムが根底にあります。
子供がスーパーヒーローごっこ、お姫様ごっこに夢中になるのは、せいぜい小学校一二年生頃まででしょう。子供は徐々に「努力の結果、何かができるようになる」ことを学んでいきます。その際、何でもそうですがいきなりは上手くなれないこと、また能力には差があり、自分よりもできる子はいくらでもいることを体験していきます。失敗や、自分の限界を知ることを通して、自分がスーパーヒーローやお姫様ではないことを受け入れて行きます。
この時、周囲の大人、特に親から失敗を慰められたり、「でも、よく頑張ったよ」とプロセスを認め、励ましてもらうことが、ナルシシズムを上手に打ち砕く鍵となります。スーパーヒーローでなくても、お姫様でなくても、自分は愛され、受け入れられると心から感じ取れないと、ナルシシズムが却って肥大化してしまうのです。即ち「ほれぼれとした自分でなければ許せない」です。「ほれぼれとした自分でなければ許せない」のなら、最初から何もやらない⇒0を選ぶ、になってしまいかねません。
親が子供の成長を脅威と捉えていると
思春期以前の、体格も知能もまだまだ子供の内は、親が子供の失敗を「よく頑張ったよ」と慰め、励ましたとしても、思春期以降になると、親が子供の成長を脅威に感じることがあります。心が不健全な一部の親は、子供の体格、体力、知力、容姿が、親である自分を凌駕していくことが耐えられないのです。勿論そのようなことは、通常本人は自覚していません。無意識に押し込められればこそ、却って自制が効かず、事あるごとに子供の自尊心を打ち砕き、子供に惨めさを味わわせようとしてしまいます。
自尊とは自分の考えを持ってこそ自尊感情を育てるには、良心、価値観、広い視野に基づく自分なりの考えを持ち、できる限りそれに沿って取捨選択することが基礎になります。言いなり、指示待ち、「だって世間では」「TVがこう言ってる」は楽ですが[…]
これは親自身が「何があっても無くても、自分は自分で良い」という自己受容感に支えられた自信がないためと考えられます。世間体大事が優先するのもこのためと言えるでしょう。「自分は自分で良い」と心の底から思っている人が、実体のない世間の目に振り回されることは、やはり起こらないのです。
心が不健全な親は、子供の非力さと自分への依存度を高めることで、自分の立場を守ろうとします。自分の優位性を保つことが、子供の人格よりも重要視されがちです。これは親のエゴ以外の何物でもないと、私はそのように思います。この無自覚なエゴによって、かわいそうなことに、子供の自信は打ち砕かれる一方になってしまいかねません。そのためにチャレンジを恐れ、上記の脳の単純化と相まって、結果、0か100か思考がいつの間にか強められてしまいます。
プロセスを励ましてもらえることの重要性
まだ責任が伴わない子供の間は、結果で「良かった、悪かった」をジャッジされるのではなく、プロセスを励ましてもらうことが大変重要になります。大人であっても、自分を真にモチベートするのはプロセスを認めてもらうことではないでしょうか・・?自分の頑張りや、創意工夫、粘り強さを認めてもらう方が、もしかしたら棚から牡丹餅だったかもしれない結果だけを承認されるより、「自分の人格を認めてもらった」と感じ取れます。結果だけで認められるのは、悪く言えば「その結果(だけ)が欲しいあなたの都合でしょ?」になりかねません。
当然のことですが、結果はプロセスの成果です。結果検証の「何が良かったか。何が奏功しなかったか」を振り返るのは、次のプロセスにつなげるためのものです。PDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクルのCを人は中々やらないのですが、それは次のAにつなげるためと腑落ちしていないために、「ダメだったことから目をそらしたい」をやってしまうのかもしれません。これも「結果を今一度プロセスに細分化し直す」思考が必要とされるのではと思います。
「結果〇点だった」最後のシーンだけを見るのではなく、それに至るまでのプロセスの動画を見て「ああ、これは良かった」「これは余り役に立たなかった。この場合はやらない方が良かった」などと振り返るとイメージすると、わかりやすいかもしれません。
仕事が真にできる人が、仕事の自慢をしないのは、我慢して言わないのではありません。結果検証も含めて、すぐ次のプロセスに意識が向いているから、未来に目が向いているからなのも、理由の一つでしょう。
自慢は既に終わった過去に対してすることです。「段取り八分」という言葉がありますが、段取り即ち「次のプロセス」に、意識と行動の8割が超えている重要性が、仕事ができる人は自分のものになっているのかもしれません。段取りとは、長期短期含めた準備です。準備とはプロセスそのものです。
子供の間はこのような複雑なことはわからなくて当然です。しかし、大人はその意義がわかった上で、子供のプロセスを励ましたり、時には「これはこうした方が良いよ」と具体的な行動に落とし込んだフィードバックをすると、少なくとも自己否定感の強い子供にはならないのではと思います。
細分化の練習「最低限これだけはやる」
これまで見てきたように、自分に対してもプロセスに落とし込んだ承認、励ましが「0か100か思考」から脱するために必要となります。しかし、いきなりやるのは、それこそ「0か100か」で難しく感じるかもしれません。その場合は、「最低限これだけはやる」を意識するところから始めることができます。「0か100か」は文字通り二択です。二択ではない中間の選択肢があり、その内の「最低限」でもまあまあどうにかなることを、「他人様に迷惑の掛からない、自分のことだけで済むこと」でまずは体感していきます。
例えば、家の片づけが得意な人は、口を揃えて「目についた時にちょこちょこと片付ける」と言います。いっぺんに片付けようとするのではありません。片付けが苦手な人ほど「一氣に全部片づけるか、いっそ何もしないか」の「0か100か」の二択になりがちです。ただでさえ苦手なのに「一氣に片付けよう」と思うから、結局ずっと「何もしない」。つまり散らかったままになりがちなのかもしれません。例えばテーブルの上だけ、それも面倒ならペンをペン差しに戻すだけ、そうした細分化の練習から始めてみます。
仕事を持っている人は、疲れて帰ってきてそのままベッドに倒れ込むこともあるでしょう。その際「0か100か」だと、「コンタクトレンズを外して、歯を磨いて、お化粧を落として、顔の手入れをして、パジャマに着替えて寝る」か、「そのまま倒れ込むか」の二択になってしまいます。ここで「最低限、コンタクトレンズだけは外す」などと自分で決めて、それだけはやる、こうした些細なことから細分化の訓練を始められます。余力があれば、次は歯を磨くか顔を洗うかは、また自分が決めて良いのです。
他にもアイロンがけが「全部やるか、何もしないか」の二択になっていたら、「とりあえず、明日着て行く服だけはアイロンをかける」などです。それでどうということはないと実感できると、「『0か100か』でなくても充分大丈夫」の成功体験になります。
「0か100か」から、次善策、三善策を講じられるために
上記の例は、何と言うことはない、ありきたりなことのように思われるかもしれません。しかし上述したように、私たち大人は流動的な現実に対処する責任がついて廻ります。その際、「最善策か、何もせずに自爆するか」では、やはり責任を果たせません。
次善策、三善策を講じられるのが、責任のある大人の処し方になるのでしょう。「そんなことは誰でも(頭では)わかっている」であっても、常日頃から「明日着て行く服だけアイロンが当たっていれば、まずは良い」という、ごくごく些細なことから実践できていないと、いざ危機的状況が来ると、あっという間に吹っ飛んでしまいかねません。
親に埋め込まれた自己否定感を克服していく道筋は、人によって大きく異なるのでここでは割愛します。ですが、心理セラピーにおいては「小さな一歩を軽んじない」クライアント様だけが、紆余曲折はあっても結果を出せる、それは明言しても構いません。親との関係性に向き合うのは中々大変で、機が熟さないとできないことも、勿論多々あります。しかしその前に、「最低限これだけはやる」細分化の練習をしておくことは、その人の意志次第で誰でもできる、そのように私は考えています。
