自分の心を守れるのは自分だけ
親への許し難さは、他人へのそれとは全く違います。他人であれば、時には「あの上司が私の人生の諸悪の根源!」と思い詰めて恨んでも、関係性が終わり時間が経てば、多くの場合忘れてしまいます。誰も好き好んで、親を憎んだり、許し難く思ったりしたくはありません。心ある人ほど、そのこと自体が辛く、何度もSOSを出してきたのに顧みられなかったからこそ、心の傷はもっと深くなるのです。
心優しく、素直で人を疑わず、聞き分けの良い頑張り屋さんほど、皮肉なことに親の支配欲の格好の標的にされてしまいます。その無垢な子供の心をいいように利用され、事あるごとに自尊心を踏みにじられたことへの怒りは、無意識の内に押し込めずに、感じ切って外に出す必要があります。
ただこれも、いきなりそれだけをやろうとしても中々上手くいきません。順を追う必要があります。人によって細かな違いはありますが、今回は最大公約数的な、「親の支配から出る」ステップについての概要を説明します。
①「二度と心を抉られない」環境をまず確保
まず「二度と心を抉られない」環境を確保します。同居していたり、或いは同族会社などで否が応でも顔を合わせざるを得ないこともあるでしょう。その場合も「心を抉られることを自分に許さない。(仮に自分に反省するべき点があったとしても、それは心を抉ってよい理由にはなりません。そのことと「聴くべき耳の痛いことに耳を塞ぐ」とは区別をつけます)」決意が第一歩となります。
但し自尊感情が低いと、意外とこれが難しいのです。「自分は蔑ろにされても当たり前。自分はその程度にしか価値がない」と無意識に刷り込まれ、無意識はそれを実現しようとするからです。特に親に抗うことに罪悪感を持ってしまう、いい子で育ってきた人ほど要注意です。
その場合は「これが今後も続いたらどうなるか」の結果予測をします。1年後、3年後、5年後、10年後、20年後と具体的に時間を延ばしてシュミレーションした時に、何を感じ思うかです。また家庭がある人は「自分の親の問題が、配偶者や子供にどんな影響を与えるか」を考えてみます。
「今だけのことじゃない」「自分のことだけで済まない」と視野を広げられると「問題視するべきことを問題視する」スタートラインに立てるでしょう。どんなことでも、自分がそれを問題だと心から思わなければ、人は自ら変化を起こそうとしません。
そしてできるだけ「心を抉られない」具体的な手段を取っていきます。親と別居していれば連絡をしない、電話に出ない、電話に出ざるを得ない時は事務的な用件だけ、嘘も方便で「電話を切り上げるための幾つかの口実(仕事を持ち帰っている。食事や入浴や家事がまだ済んでいない。明日は早出でもう寝ないといけない。等々)」をあらかじめ用意する、などです。
そのことで親は貴方の悪口を言うかもしれません。「自分の思い通りにならないこと」に反応的にストレスを感じる、その幼児性のためです。親に限ったことではありませんが、人の口に戸は立てられません。誰に対しても「言いたい人には言わせておく」「そのことを真に受けて、私をどうこう思うなら、その人のご縁はそこまで」の心づもりも大切です。
②「謝罪と改心」が上限の望みとするなら下限の望みとは
子供は親に無条件の愛と承認を求めます。意識はしていなかったとしても、これらが「要らない」子供はいません。だからこそ、「一度でいいから、本心から『そんなに傷つけてしまってごめんね。辛い思いをさせてしまったね』と謝ってほしい。そして理解と愛情のある親に変わる努力をしてほしい」と、真面目な人ほど望んでしまうものでしょう。
しかしそうした謝罪と改心をする親なら、大人になった貴方が今こうして苦しんでいることはありません。親が口では謝った風のことを言っても、すぐに裏切られ、もっと深く傷ついた人もいるでしょう。
他人は「そんなの、求めたって無駄だよ」と言いたくなるものです。しかし、人の心は理屈では割り切れません。ですので、「謝罪と改心」が上限の望みとするなら下限の望みとは何かを考え、設定します。具体的には「毎日の生活に干渉されなければよい」といったところになるでしょう。
これは客商売をしている人なら「皆が皆、物わかりの良い常識的なお客さんばかりじゃない。どこへ行っても『困ったお客さん』はいるもの。一か月に一人か二人くらいの来店で、すぐにお引き取り頂けて、他のお客様のご迷惑にならなければ上出来」といった、現実的な下限の目標を持つのと相似形です。
最初から「『困ったお客さん』は誰一人来ないで!」では誰も客商売はできません。これを自分の親との関りにも応用します。「『困ったお客さん』は来てほしくないなあ」「今は親に謝罪と改心を求める氣持ちがどうしても消えない」には正直であっても良いのです。しかしこれだけだと自分が苦しくなるので、下限を設定するということです。
③境界線を引く・日常の中で「No」を言えるようになる練習
②までは環境を整えるステップです。これから先は、いよいよ自分自身の課題に取り組みます。
境界線を引くとは、適切な、責任を持った「No」が言えることです。幼児的に闇雲に「イヤ!」を言うことではありません。
①でも書きましたが、自尊感情が低いと自分を蔑ろにされても氣づけず、「No」「嫌です」「やめて下さい」「私にはもう我慢の限界です」「これ以上は無理です」と言えなくなるのです。また逆に、些細なことで反応的になり、逆切れしたり、責任から逃げてしまうこともあります。いずれにせよ、健全な人間関係を築けなくなります。
「あの親との関係さえなくなれば、どうにかなれば、私の人生は好転する!」と思い詰めたくなるのも人情です。しかし例えば、友達との夜中のLINEのやり取りを自分から切り上げられず、「向こうからやめてくれないかな~」の察してちゃんになっていて、親に毅然とした態度を取ることはもっとできません。
親は貴方に、盲従する「Yes」を求め、罪悪感や恐怖で操作し、時には強要し、それでいて「あんたがそれでいいって言ったじゃない」「嫌なら嫌って言えばいいのに」と責任転嫁してきたかもしれません。それをされて「自分は自分で良い」と思えるはずがありません。自尊心を巧妙に踏みにじる大変罪深いことなのです。
盲従する「Yes」ではなく、責任を持った「No」、そして「自分が選んだ」納得感のある「Yes」が言えるようになるためにこそ、境界線を育てていきます。
境界線については、弊社サイトの記事や、記事下の音声教材をご参考にして下さい。
人間関係で疲れている時は自分の境界線を見直すサイン人間の悩みは突き詰めれば人間関係になります。そして私たちは往々にして、自分を傷つけた相手を恨んだり責めたり、そして相手に「反省して変わってほしい」と願います。しかし、反省は[…]
④怒りを許可しつつ、表現の仕方は自制心を持って
立ち上がり戦うことも、一目散に逃げることもしない、野生の本能を失った、何をされても怒らない臆病な羊ほど、支配欲に憑りつかれた親にとって格好の獲物はありません。そしてそれを「聞き分けの良い子」とすら取り違えます。
怒りは境界線を侵された事を教えてくれるレーダーです。不快な感情を「ネガティブだから」と良くないものだと思い込んでいる人は、「感じるべき怒りを感じないと、大事なことや人を守れない」と思い出してみます。「そんないい加減なことをされたらお客様に迷惑が掛かる」と、取引先に怒るのは、お客様を大事に思えばこそです。
私たち大人は「何に対して、どのように怒っているのか」が問われるのであって、何をされても怒らない昼行燈みたいな人は、ただの事なかれ主義の都合の良い人です。「感じるべき怒りは感じつつ、いつ、どのようにその怒りを表現するかしないかの自制心は求められる」が大人の態度であることを、今一度思い出してみましょう。親のこと以外の日常生活で、怒りを受け止め、大切に扱う練習をします。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
⑤怒りを「二人称で」吐き出してしまう
境界線が育ってくると、今現在の怒りだけでなく、未消化の過去の怒りをも感じるようになります。過去の怒りだからこそ、「今更蒸し返して相手に言えないし」とモヤモヤしてしまうかもしれません。親に対しては尚更です。
理解ある人に話を聴いてもらうのは、孤立を避けるためにも良いことです。孤立は悩みを深め、冷静な判断力を損なうことにもなりかねません。しかし誰にでも話せることではそもそもありませんし、また他人に話すときは当然ですが親のことを三人称で話します。
「うちの親がね・・」の三人称で話すのと、一人の時に二人称で「あんたのことは嫌いだったんだよ!」などと吐き出してしまうのは明らかに違いがあります。ただこれも、機が熟さないといつでもできることではありません。ですが三人称で話すときよりも、傷ついていた自分の正直な本音をより深く知れます。これも自己理解の一環で、やってみないとわからない癒しのプロセスです。
他人への怒りとは異なる親への怒りの根深さ親に対する怒りは、他人へのそれとは根本的に異なります。近所の人、友人、恋人、配偶者、職場の上司や部下、取引先には、その時はほとほと困っても、余程のことでない限り、縁が切れれば時間の経過ととも[…]
⑥「利己的な人は他の人にも利己的」「本当は本能ではわかっていた」と観察
子供を支配欲の道具にするのは、親のエゴであり、利己的な態度そのものです。心ある人でも、時には恐れのために、足がすくんで「我が身可愛さ」に走ってしまうこともあります。また誰しも余裕がなくなれば「自分のことで精一杯」になるのも無理からぬことです。そのことと、「状況如何に関わらず、どんな時でも利己的な人」つまり利己主義者とは分けて考える必要があります。
利己主義者の世界観は、「自分は世界から何を得られるか」になっています。即ち、損か得かの自分の都合です。「世界は無条件に自分を守ってくれる、自分は何もしなくても与えられて当然」の胎児の状態から脱していません。精神的に「生まれていない」のです。体や知能は大人になっていても。性格が我がままとは異なります。一見温厚そうな人でも、利己主義者は存在します。
精神的にこの世に生まれるとは、「自分が世界に働きかける」能動的な態度を獲得することです。世界と自分は対等であり、「世界は常に自分の都合良く存在しているわけではない」を承認することです。ですから不満があれば、自分から環境を整えようとするか、受け入れ、忍耐するかのいずれかになります。この前提で世界を捉えるから、貢献意識や責任を持つこと、時には忍耐することが自分の誇りになるのです。それが自尊感情の高さにつながります。能動的に生きる人にとっては、納得さえできれば責任を持つことは決して嫌なことではなく、寧ろ自信を深めてくれることなのです。
「世界は無条件に自分を守ってくれる、自分は何もしなくても与えられて当然」であれば、責任とは嫌なこと、理不尽なことで避けて当然になります。周囲の人に「私の都合よくあれ」を命じて当然です。その出方が高圧的だったり、かまい過ぎだったり、無関心だったり、様々な形を取っています。
見出しの通り、「利己的な人は他の人にも利己的」です。支配欲に囚われた親は、我が子にだけでなく、他の人にもー自分の配偶者にもー不誠実なことを繰り返している、それを観察して見ると、「自分が悪いのではなかった」と自己否定感が薄らぐでしょう。
また注意が必要なのは、例えばボランティア活動をしているから利己主義者ではない、とは言いきれないということです。私たちはつい「あの人は○○だから、※※だろう」と相手を見てしまいがちです。そうした思い込みは持ってしまうもの、という前提に立てばこそ、却って偏見のない目で物事を見られます。
そして観察が進むと、実は子供の頃から、本能ではわかっていたことに氣づけるでしょう。但し、子供の頃は家庭から放り出されたら生きて行けないので、本能が教えてくれた本音を心の奥深くに押し込めてしまいました。大人になった今は、本能に正直になっても大丈夫と確認します。生きやすさとは、本能と感情と思考のバランスが取れている状態です。本能を押さえつけるとは、緩慢な自殺に外なりません。
⑥-補足:親からの分離に伴う喪失感
これらの観察の前後で、「精神的な孤児」になったかのような喪失感に苛まれることも起こります。この喪失感が耐えがたいと、「本当は本能ではわかっていた」を自分が認めたがらなくなります。親をかばって支配される関係性に自分が舞い戻ってしまいます。
ですので、自分を精神的に支えてくれる家族(きょうだいや配偶者)、友人、信仰がある人ならお寺や教会の関係者で信頼できそうな人、「いのちの電話」などのホットライン、心理セラピスト、カウンセラーなど複数の駆け込み寺的な存在があると安心できるでしょう。
但し相談に乗ってもらっても、喪失感は軽くはなってもそれだけでは消えません。休みの日はぐったりして寝てばかり、ということも起きますので「今はガス欠になってるのを補充している時期。必ず過ぎ去る」と焦らないことが一番肝要です。
⑦「毒親に人生を滅茶苦茶にされた私」からの卒業
またよくありがちなのは、「『毒親本』を読み漁って、『自分の身に起きていたことはこういうことだったのか』と納得したい」だけで終わってしまうことです。
すっきりしたような氣分に一時的になったとしても、人の三大悩み、お金、健康、人間関係が好転していなければ、やはり未解決の問題は残っていると考えた方が良いでしょう。親から自尊心を傷つけられた影響は、この三つのいずれか、もしくは複数に現れます。
特に人間関係においては、身近で思い入れのある相手ほど「私がこの失望に、不安や孤独や怒りに耐えずに済むように、あなたが変わって」をやってしまいたくなる。人はそうしたものですが、誰しも経験があるように、結局は自分で自分の首を締め、自分から囚われ人になってしまいます。
③の境界線を引くとは、「あなたが変わって」をやることではありません。自分の感情、限界、責任に自覚的になり「明日が早いから。今夜のLINEはこの辺でね」と自分から宣言することです。もしかすると相手は「つき合い悪いわね」とへそを曲げるかもしれない、それは相手の境界線の中の領域である、とする態度です。
相手にへそを曲げられて、悪く思われたくない、でもLINEにはつき合いたくないの美味しいとこどりを自分がしたいと「相手から切り上げてくれないかな~」の察してちゃんに自分からなってしまいます。「つき合い悪いわね」と思われるのは悲しいです。でも仕方がありません。境界線を引くとは反応的にならずに(「明日仕事だって言ってるでしょ!このわからず屋!」と内心思っても噛みつかない)その痛みをも受け入れて行く態度です。
察してちゃんはかまってちゃんのバリエーションであり、事柄は小さくとも、自分を苦しめた親と相似形になってしまいます。それを誰でもなく自分に潔しとしないのが、自尊感情が高くなった証拠です。「だってあの人が」を言う自分が嫌だ、になっています。その時「毒親に人生を滅茶苦茶にされた私」から卒業したと言えます。
⑦-補足:現実の変化を実感できるのはタイムラグがあることも
心の面では卒業できても、体の健康の改善には、場合によっては年単位での時間がかかるでしょう。体の細胞が入れ替わるには約一年かかります。またお金や人間関係も、自分の頑張りだけで、すぐどうにかなることではないので、目に見える形になるにはタイムラグがあります。私たちは結果が好転すれば、心の状態が良くなると思いがちですが、本当は心の状態⇒結果の順番です。
また百発百中で「今夜のLINEはこの辺でね」と言えるわけでもなく、うっかり断り損なうこともやはり起こります。その時「断り損なったのは自分」それが自分の人生に責任を持つ態度です。責任を持つとは、自由であるということです。そして「愛は自由の子」です。
愛に支配や依存はありません。「困った時はお互い様」の相互依存はあっても。この違いを自分の生き方にできた時、真に親の支配から人生を取り戻せたと氣づけるでしょう。