1歳~3歳までの分離・個体化の時期に「No」を尊重されたか
私たちは何故、「No」と言えなくなったのでしょうか?「ひたすら正解を答えること」が是とされる学校教育や、様々な人種・文化背景の人々がいるアメリカのような、「人と違うのが当たり前」ではない日本の社会もその原因でしょう。勿論その人固有の資質によるものも大きいです。
著者は「最も重要な境界線の摩擦(※足立注・「No」と言えなくなること)は、生まれてから数年間のうちに起こります」としています。それは主に1歳~3歳までの分離・個体化の時期です。
生後から1歳までは、赤ちゃんは母親と一心同体の境地です。分離・個体化とは、「他人と自分は違う」ことを受け入れ、自他共に尊重する愛の基礎を養うことです。この分離・個体化に失敗すると、他人は自分の延長になります。支配・依存が人間関係のデフォルトになり、他人を利用価値があるか、脅威か(実際には「面倒くさい、厄介者だ」など)で推し量るようになってしまいます。勿論、それをされれば相手は大変傷つきますが、本人はまるで氣づきません。
愛しているのに傷つける、「No」を言えないがために適切に「No」を言うのは、自分のためだけではありません。一番愛している人たち、とりわけかけがえのない家族を、「No」を言えないがために、往々にして結果的に傷つけてしまいます。[…]
「三つ子の魂百まで」と言いますが、この間に私たちは人格の基礎を養います。「No」を言うとは、裏を返せば責任を伴う「Yes」即ち「私はこう思う、これが大事だと思う。私がこれを選ぶ」です。盲従にはこの「私」がありません。「だってそうしろと言われたから。皆がそうしてるから。変に思われたくないから」行為の主体は「私」ではなくなっています。しかし人から言われたからにせよ、行為の結果を負うのは、自分しかいません。
以下に、親子間で生じがちな境界線の傷、「何故『No』と言えなくなったのか」の主だった4つの理由を挙げて行きます。
①「No」と言ったら見捨てられる・境界線からの引きこもり
誰しも好き好んで「No」と言われたいわけではありません。ですから「No」を言う時は、お断りすることを残念に思う氣持ちとその理由、できれば代替え案(「これこれならお受けできます」「このようにして頂けると助かります」)を丁寧に伝えます。そしてあくまで「その事柄」に対して「No」を言っているのであり、相手を否定したり(「あんたそれ違うやろ」)、相手を見下したり(「あなたわかってないわね」)するのではない、充分な配慮が必要です。
しかし、どんなに配慮をしたとしても、相手が自己受容が不十分だと、「No」を拒絶や否定だと取られてしまいます。
自我が未成熟な親が、子供の「No」「イヤ」を、まるで自分を拒絶されたように傷ついてしまい、そして子供への愛情を引っ込めてしまう。そうすると子供は「『No』と言ったら私は見捨てられる」と学習してしまいます。「いい子にしていれば愛される。悪い子だったら見捨てられる」内心では恐怖に満ちた、しかし表面上はお利口さんの羊になってしまいます。
親はしつけのために怒っても、子供との繋がりを断たない、親の方が子供に心理的な距離を置いたり、身を引いてしまわないことが大変重要です。
自分の子供に「あなたが怒るとお母さんは傷つくのよ」と言う親は、自らの感情を管理する責任を子供に負わせていることになります。実際、その子供は、自分の親の親にさせられてしまっています。時には二歳か三歳にしてそうなることもあります。(略)
親が身を引くのを感じるとき、子供たちはすぐに、お父さんやお母さんの感情は自分のせいなのだと思います。
自分の素直な感情、特に怒りや悲しみを表現することは悪いことであり、いつも相手を「喜ばせなければならない」になると、相手のご機嫌取りに終始するようになってしまいます。迎合的になり、操作的な人の格好のカモにされてしまいます。
境界線問題の4タイプ・迎合的、回避的、支配的、無反応境界線問題は「No」と言えない人だけのものではありません。最も「割を食う」のは、「迎合的な人」、即ち「自分が我慢すれば良い」と譲ってばかりいたり、また「怒ってはいけない」[…]
反射的にネガティブな感情を抑圧し続け、自分でも氣づけない無力感や、意欲の低下、自分へのいら立ち、自信のなさ、慢性疾患の原因にもなります。
②「従っておけば私は怒られない」・境界線の敵意
境界線の敵意とは、子供が親から離れようとする、「No」を言う、親とは違う意見を言う、辛さや悲しみを訴えると、親が腹を立てることです。①よりももっとアグレッシブに子供を攻撃します。怒りに満ちた言葉、体罰、不適切な制裁、不機嫌な態度、嘲笑などです。時には子供の言い分を聴こうとせずに「あんたが被害者意識が強すぎる」「後ろ向きだ」「何を甘ったれてるんだ」などと最初から裁いてしまいます。
敵意を向けられれば敵意で応答してしまう、それが人間の性(さが)です。子供も本能的に親を敵だと認識します。しかし親の庇護を失えば、子供は生きて行けません。そのため子供は、心の奥底に親への敵意を抑えつけながら、従順のふりをすることを学んでしまいます。本音の本音は「No」なのに、「Yes」と言う生き方が根付いてしまいます。
子供たちが自分と異なる考えを持つことや、不従順や、あれこれ試してみることに対し、親がただ敵意を示すだけなら、子供たちが訓練されることはありません。彼らは我慢することや責任を持つことの意義は学ばず、他人の怒りを避けることだけを学ぶのです。
「他人の怒りを避けることだけを学ぶ」とは「従っておけば私は怒られない」「怒られないために○○する/しない」という打算的な態度です。言いなりになって内にこもる、一見「手のかからないお利口さん」の子供もいます。しかし上記のように「本音は『No』なのに『Yes』と言う」不一致のため、心の力がつきません。不安が強く、勇氣が持てず、ただただ目先の安心に飛びつき、面倒を避ける生き方になりかねません。表面上は「いい人」であり、自分でもそう思っているかもしれません。身近な人がその事なかれ主義に傷ついても、本人は自覚がないことがしばしばです。
①は罪悪感を刺激されて操作され、②は親の怒りによって操作されます。いずれにせよ、自分の自由意志で選択した結果ではないので、真の責任感と、責任感と表裏一体の自由を獲得できません。自由がないとは愛がないことなので、自分も他人も本当の意味で愛せず、心優しい頑張り屋さんなのに生きていても楽しくない、余暇は本当の楽しみというより、憂さ晴らしで埋められたり、或いは「何もする氣がおきない」で一日が過ぎてしまいます。
また逆に、親にされたように他人に敵意を現す大人になるケースもあります。些細なことで癇癪を起こしたり、言いがかりをつけてくるなどです。親の敵意が子供に連鎖する、ということです。
③過剰な禁止や命令・失敗を恐れる、指示待ち人間に
過剰な世話焼きとは「子供が風邪を引くのを恐れて、曇りの日に雨靴を履かせる」ようなものです。子供にあまりにやかましく禁止や命令をし過ぎると、子供は思考停止します。そして失敗を恐れるようになり、「次はどうしたらいいんですか」の指示待ち人間になってしまいます。
何でも先回りして 何でも与えて こうする?ああする?って準備する親なんか やさしくも何ともないわ その証拠にあんたは「自分の白鳥」のプランも持てないじゃない
槇村さとる「Do Da Dancin’!」
バレエ「白鳥の湖」の主役に抜擢されても、自分がどう踊りたいかのプランを持てなければ、どんなに技術が優れていたところで、魂のない踊りになってしまいます。
自分の境界線を養うとは、何が自分にとって良いもので、何が悪いものかを自分で判断して振り分けて行く作業のことです。子供の内は、失敗しないことよりも、「失敗しても私は大丈夫」「失敗した方がより深く学べる」を体験させることの方がずっと大事です。
カレーライスを三杯も食べたらお腹が苦しくなって夜も眠れなくなる、カレーライスがどんなに好きでも、食べ過ぎは悪いことだということを、「ほら、言わんこっちゃない」と苦笑いしながら学ばせる、その程度の余裕が親の方に必要です。「お腹が苦しくなるよ、そんなに食べ過ぎたら」と軽く戒めたとはしてもです。
取り返しのつかないことは、親が判断してやめさせなければなりませんが、取り返しのつく小さな失敗は「蒔いた種は自分が刈り取る」因果応報を学ぶきっかけにできます。人間関係のトラブルは、相手が放ったブーメランが、そのまま相手に返って来るのを妨げ、自分がブーメランを取ってしまうことでも起きます。そしてそれを愛や親切や忍耐と勘違いしているのです。境界線とは因果応報の原則そのものです。
また失敗は、誰しも持って生まれているナルシシズムを打ち砕いてくれます。成熟とはナルシシズムが上手に打ち砕かれることと言い換えても良いでしょう。真に自信のある人ほど謙虚で優しいのは、ナルシシズムが打ち砕かれているからです。単なる氣の弱い優しい人ではなく、少々の批判にいちいち反応的にならない芯の強さがあります。
④ベタベタな甘やかし・限界の欠如
限界の欠如とは、親が子供に際限なく迎合し、ベタベタに甘やかすことです。子供を家庭の専制君主にしてしまいます。①~③は、子供の意志を親が打ち砕くことでしたが、適切な自制心や忍耐を学ばせず、子供を野放図にしてしまうこともまた、境界線に傷を負わせることになります。
4歳の時に店先でお菓子やおもちゃを欲しがって駄々をこね、親が根負けしてしまう。そうすると子供は味を占めます。それが子供が40歳になっても繰り返され、「子供部屋に住んでいる専制君主」となって親にあれこれ無理難題を強いることになります。
脳はどんなに破滅的なことでも、慣れたことを繰り返そうとします。親に対して専制君主であろうとする子供が、家の外で、健全で成熟した信頼関係を他人と結べるわけはないのです。家の外で孤独を感じると、益々親との共依存関係に縋り続けてしまいます。
辛そうな人を「救ってあげたい」のは自然な反応でも2005年のJR福知山線脱線事故では、事故現場の近隣の方々が、家にあるタオルや救急用品を、魚屋さんが、魚を並べる時に使う氷などを持ち寄って、救急車を待たずに負傷者を救護しました。頭が[…]
ベタベタに甘やかされれば、ナルシシズムは肥大化する一方です。ナルシシズムが肥大化すると、人からちやほやされなければ氣が済まなかったり、少しの批判や注意にすら耐えられない大人になってしまいます。逆切れしたり、「わかりました」と口で言ってもスルーして反省しないことも、境界線に傷を負っている証拠です。
はっきりとした暴言や暴力がなかったとしても
今回の記事の主旨は「私は毒親育ちだから仕方がない」「あの毒親、どうしてくれる、私に謝って償え」の言い訳や責任転嫁のためではありません。これをしてしまえば、ただでさえ傷ついた境界線を、更に自分が破壊するようなものです。
「こうしたことはあってはならないことだったのだ」とまず率直に振り返ります。その際に親に対する失望や怒りを感じるかもしれません。これらの失望や怒りは、今現在の親との境界線問題をどうするのかという、新たな課題のためのスタートラインにもなります。
親の方は境界線問題に無自覚だと、全く改善されていないどころか悪い方の学習をして、子供の成人後も更に巧妙により深く、子供の境界線と自尊心を傷つけてくることもあります。
殊にはっきりとした暴言や暴力がなかった場合こそ要注意です。子供の方が氣づかないまま親をかばい続け、自分の境界線が傷つきっぱなしということも大変多いです。
この4つの原因について、思い当たる節があった場合、自分自身の境界線の傷をどのように癒すかのきっかけにして頂ければと思います。
例えば
①なら、「相手の氣持ちに配慮することと、迎合することは違う」の区別を付ける、
②なら「自分が怒られないため、悪く思われたくないためではなく、これが正しい、大事だと思うからする」という動機で生きる、
③なら「どちらに転んでも良い小さなこと」からチャレンジする、
④なら他人の限界を尊重する、
などです。
今回は親子間で起きがちな、典型的な4つの原因について取り上げました。境界線の傷を癒し、育て直すのは息の長い、そして終わりのない習慣そのものです。しかしこの誰にもわからない、地道な努力こそが真の自立を促します。他人からの評価評判に左右されない自信、自尊感情を高めてくれるのです。