「あれもできてない、これもできてない」の減点主義
「自分に自信が持てない」「これでいいと思えない」・・こうしたご相談は大変多いです。この場合「あなた、あれもできるし、これも持ってるし、人が羨むようなことばかりじゃないいの」と他人が言っても納得できません。
考え方自体をひっくり返さない限り、どんなに能力を高めようが、収入が増えようが、人からちやほやされようが、「何か足りない」焦燥感に苛まれ続けます。そして際限なく「もっと、もっと」「まだ足りない」「足りないのは○○のせいだ」に陥りかねません。
これは減点主義で自分を推し量っているからです。日本の教育が減点主義なので、その洗脳が深いためでもあるでしょう。
減点主義から加点主義に変われば、この悩みはたちどころに解決します。そのやり方は、ただ知識でわかるだけではなく、皆さんのそれぞれの日常の中で「最低限ここまでやる」を意識づけることによって体得できます。
「最低限ここまで」のラインを日常の細かなことで
具体的な例を挙げると、仕事を持っている人なら、「帰宅した途端にベッドに倒れこむほど疲れている」こともあるでしょう。
その際減点主義だと「服も脱がない、メイクも落とさない、歯も磨かない、コンタクトレンズも外さずに寝てしまうなんて」と誰も何も言わないのに自分を責め、ただでさえへとへとなのに余計に自分を疲れさせてしまいます。
この場合、例えば「最低限、コンタクトレンズだけは外そう」と自分で決めることです。他のことは多少目をつぶれても、コンタクトレンズをしたままだと、翌日目がつらいですね。それを避けるために「最低限」を決めます。
もし余力があれば、その次の最低限を決めてクリアしていきます。それがメイクを落とすことなのか、服を脱ぐことなのか、歯を磨くことなのかは自分で決めていいのです。
また例えば「メイクを落として顔の手入れをする」も、「メイクだけは落とす」から「化粧水とクリームはつける」など、幅を持たせて「その時できる最低限」を決めていきます。
減点主義の人は「0か100か思考」になっています。0か100か、白か黒かで考える方が、脳にとっては楽なのです。「メイクを落とさずに寝る」か、「メイクを落とし、化粧水も美容液もクリームもマッサージも全部する」かの二択になりがちです。しかし現実は、もっと中間の幅があります。しかもその時々によって変化していくものです。
「生きやすさ」とは、幅があり常に変化する現実に対処していくための、頭の体操をし続けることによって得られます。ですから終わりがありません。体の柔軟性も、頭の柔軟性も、さぼればすぐに失われてしまいます。
人より優れた能力があるとか、収入や家や車があるから「生きやすく、幸福」ではありません。この頭の体操をするかしないかなのです。
「最低限」をクリアできると加点主義に
「最低限ここまで」を意識すると、後は積み上げていくという発想になりますから、加点主義になります。これが自分だけにとどまらず、周囲の人にも波及していきます。
例えばお子さんがご飯を全部食べたがらない時でも、お子さんの発育期にもよりますが「これだけは食べようね(例えば卵だけは食べる、など)」と決めておけば、「食べたくないなら食べなくていい!」と0か100かにならずにすみます。卵だけ食べたら「よかったね、今日はこれでご馳走様だね」と加点主義でほめてあげられます。
大人でもそうですが、0か100かになると自分を全否定されたような気持になります。こんな些細なことの積み重ねで、子供の自己肯定感、引いては自尊感情は養われるのです。
「最低限」のラインは状況によって上下するもの・その時々に「何が大事か」を問う習慣
この「最低限」のラインは、状況や相手によっても上下します。いつでも「卵さえ食べればいい」というわけではありません。これもまた柔軟性です。
例えば、お稽古事の場合は、初心者には「まず興味を持ってもらい、楽しんでもらうところから」始めます。体を使うことであれば、「少々筋肉痛にはなるかもしれないが、『もう辛い!やりたくない!』にはならないようにする。また、怪我をせず、変な癖がつかないようにする」が最低限のラインになるでしょう。
生徒がベテランになれば要求するものが高くなって当然で、時には先生が厳しく叱ることもあります。「厳しく叱ってもめげずについてきてくれる」と相手を信頼すればこそです。その信頼が伝わればこそ、教わる側は悔し涙を流しても頑張り、成長していきます。
これも指導者が「最低限」のレベルを柔軟に上下させればこそできることです。
ダメな指導者や職場の上司でこの逆をやる人がいます。その時点で指導者失格です。
これはその時々で「今のこの人にとって、何が大事で必要か」を指導者側が自分に問うているからできることです。それが本当に「相手を大事にすること」。たとえ相手にわかってもらえなかったとしても、責任を持つとはこうしたことです。ちやほやや、事なかれ主義は相手のためには全くなっていません。
人間関係も「最低限」でOK
人間関係の悩みも「最低限」の考え方を取り入れると、かなり解消されるでしょう。
特に親との関係性では「親に感謝すべき」「親孝行すべき」に縛られていると、減点主義になってしまいます。感謝したくてもできない、親孝行したくても、とてもその氣にはなれない親もいるものです。
自分が人として情けなくならない、自分の品位を落とさない程度の「最低限」はどこかを探り、決める。これはケースバイケースですし、その人が決めていいのです。他人がとやかく言うことではありません。例えば「年賀状だけにする」「命にかかわることでなければ、メールの返信はしない」「冠婚葬祭だけは付き合う」などでいいのです。
また、相手に対して怒りが湧くのは自分の「最低限」のラインが相手より高かった、平たく言えば、自分の期待値が高いためでもあります。相手が自分の期待通りに振舞わないことに腹を立てています。そのことが一概に悪いわけではありません。端から「この人その程度」と見切りをつけられるのも寂しいものです。
相手に対してがっかりする、「こんな人だと思わなかった!」と悔しく思う、生きていればごく当たり前の感情です。その悔しさは悔しさで大切にした上で、「最低限」のラインを下げられると楽になります。
例えば、私の同業の心理関係者に「心理関係者たるもの、そんなことでいいのか!」と腹を立てることもままあります。ただ立場上相手にそれを言うこともできず、仮に言ったところで伝わらない、それだけにとどまっているとどうしようもないフラストレーションだけが残ります。
「心理関係者たるもの、そんなことでいいのか!」という私の怒りは、それなりに理由のあることで、間違ったことでも何でもありません。それはそれとして否定せず受け止め、「最低限」のラインをぐっと引き下げると、「医者や弁護士だって、立派な人もいれば、金の亡者もいるしな。心理関係者も似たようなものか」と視野を広げることができます。
そうすると、相手の態度を良しとは決してしませんが、どうにもできないストレスに苛まれずにすみます。
自分に厳しい人ほど、他人にも厳しくなりがちです。それを求めていい時と、そうでない時があります。そうでない時の感情の処理の仕方に「最低限」のラインの考え方は効果的でしょう。
「足るを知る」自分にとって「譲れないもの」がわかっていること
「最低限」のラインを考え、状況によって上下させるのは、努力を放棄することではありません。自分にとっての「最低限」がわかるためには、裏から言えば「これだけは譲れない」ものは何かが、自分でわかっていなくてはなりません。
「これだけは譲れない」ものが、本当に大切にするべきことなのかが問われます。命よりも、子供よりも、世間体や面子や、「自分が楽で得ができる」「面倒に巻き込まれない」ことを優先していることも大変多いです。
減点主義で生きていると「もっと、もっと」と際限がなくなります。
加点主義で生きると「足るを知る」生き方に自然となっていきます。
コロナ騒動自体は、謀略そのもの、悪そのものです。しかし一方で、これまでの一年中お祭り騒ぎのような、過剰なサービスや商品を売るため買うためにきりきり舞いするライフスタイルを見直すきっかけにもなりました。
「住む家と、食べるものがあって、共感しあえるコミュニティがあればそれで充分ではないか」・・そうしたことに氣づき始めた人が少なからずいます。
高級マンションに住んで、年に一度は海外旅行をして、シーズンごとに新しい服を買ってという暮らしをすれば、お金はいくらあっても足りません。「もっと、もっと」「まだ足りない」の減点主義です。
外食しなくても、旅行に行かなくても、静かに風鈴の音に耳を澄ましたり、家族でゆっくりお茶を飲んだり、近所を散歩するだけで充分満ち足りる。実は「大事にしたかったもの」「本当に望んでいたもの」はこっちのほうだったのではないかと。
「最低限」「足るを知る」のは、実は豊かさは既にあることを氣づくことなのかもしれません。