悪よりたちが悪い偽善・悪を見て見ぬふりしない勇気

悪に立ち向かうには苦痛が伴う。だから人は悪を「なかったこと」にする。デニス・プラガー

クライアント様の苦しみの多くは、悪に苛まれてきた心の傷です。殊に、親のエゴによって苦しめられ続けた心の傷は、簡単には癒えません。

悪からは思わず目をそむけたくなるものです。悪が引き起こす悲惨、えげつなさを、普通の感覚の人なら好き好んで見たり聞いたりしたくはありません。

子供の頃に親から受けた、時にかなり巧妙な暴力は、子供自身が見て見ぬふりをしてしまいます。自分が直視するのに耐えられないからです。直視できる精神力は、子供の頃はなくても当然です。

現実に悪は存在します。社会的な悪も、個人的な悪も両方存在します。ただでさえ現実と向き合うのは勇気が要りますが、その中でも悪に向き合うのは更に胆力が要求されます。

この勇気、胆力を常日頃から鍛えていないと、悪を「なかったこと」にしたくなり、これが引いては偽善になります。

偽善はむき出しの悪よりたちが悪いです。というのは、むき出しの悪はやっている方が自覚がある場合もあり、何しろ周囲がすぐわかります。

しかし、偽善はまず本人に自覚がなく、周囲にもわかりづらく、しかしその間悪による苦しみは終わりません。

見て見ぬふりの共犯者が大勢いるから、悪が成り立つ

この世の悪が消えてなくならないのは、それに協力する無自覚の共犯者が大勢いるからです。いじめっ子は極わずかでも、いじめの傍観者は大勢いる、だからいじめが止まらない、コロナ騒動が2年経っても終わらないのは、この構造のためだと私は断言します。

結局、我々は敵の言葉ではなく友人の沈黙を覚えているものなのだ。

最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。

マルティン・ルーサー・キング・ジュニア 

そして善人である沈黙した友人は、相手を如何に深く傷つけたかは自覚していません。自分は善人だと、善人であるはずだと思っていれば尚のことです。だからこそ、何度でも、時には生涯にわたって繰り返します。

悪を企む少数の人々は、この「善人の沈黙」を最大限に活用します。

勇気がなく「人から悪く思われたくない」と偽善に

何故いじめの傍観者に自らなるのか、無関心を装って沈黙し続けるのか、それは「悪に立ち向かう苦痛」が、その人の良心や正義感を上回っているからです。

悪を見て見ぬふりする卑怯さに自分が耐えられないか、悪に立ち向かう苦痛に自分が耐えられないかの、いずれかを選んでいます。

無関心を装えば、当座は称賛はされなくても、非難されずには済むでしょう。しかしキング牧師の言葉通り「友人の沈黙は忘れない」のです。

また「人から悪く思われたくない」は、本人は悩んでいるようでも、実はエゴです。人が何をどう思うか、内心の自由を縛ろうとしているからです。相手のためになっていません。

自分の信念の結果選んだことなら、それを他人がどう思おうが「わかりました、貴方の言う通りにします」とは言えません。自分を否定することだからです。

ですから、自分の価値観・信念を明確にし、それに沿って生きる努力をしないと、ただただ人の顔色を窺い、流されて生きてしまいます。それは自分でも気づかぬうちに、エゴに乗っ取られ続けることです。その人たちが根っからの悪人では決してないにも関わらず。

そして「悪く思われたくない」という動機が偽善を生みます。親が子供の自尊心を散々傷つけておきながら、「悪い親だと思われたくない」がために、物を贈ったり、食事に連れて行ったり。その偽善に子供が更に深く傷つく例は、枚挙に暇がありません。

「人から悪く思われたくない」その自分に悩むというご相談も多いです。悩んでいる時点で、「これは何かおかしい、自分は不自然な生き方をしている」と気づいています。その気づきがあればこそ、それまでとは違う人生のスタートラインに立てます。そして「自分の価値観・信念に沿って生きる」習慣が身に着いた後、「あれは私のエゴだった」と自分で気づく、そうやって解決に至ります。他人が指摘したところで、その時は認めようとはしません。

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私たちは弱く、愚かにさせられてきた

勇気がないとは、自分を弱い存在だと思っている、その結果です。勿論、一人一人の力は小さいかもしれません。しかしそれは、「私は弱いから勇気がなくても仕方がない」とは違います。

この記事を書いているのは2022年1月です。コロナ騒動が茶番と薄々わかっていても、世の中の99%以上の人が、誰もいない屋外でさえマスクを外しません。

茶番とわかっていてマスクをする自分を、惨めだとすら思わない、皆と同じにしておけば、目先の非難は避けられる。日本人の自尊心、自尊感情は甚だ低いと言わざるを得ません。

またマスクのために、子供たちのIQや、コミュニケーション能力が下がっているという報告があります。これが将来にどんな禍根を残すか、想像もつきません。

このコロナ騒動の背景を調べれば調べるほど、そして見識の高い人たちの発信に触れるにつけ、コロナに限ったことではなく、かなり長い間、私たちは愚かに、そして心身ともに弱くさせられてきたことがわかってきました。

3S政策(スポーツ、セックス、スクリーン)がまずその典型です。旧漢字が氏名以外で廃止され、また常用漢字の数がどんどん減っていること、TV番組により「考えさせない」、減塩や食品添加物、子供たちをワクチン漬けにして免疫力を奪うなどもそうです。

「テレビを視るほど馬鹿になる」

アメリカの刑務所ではテレビ番組を流し続けることによって囚人を大人しくさせます。
テレビをずっと見ていると、前頭葉という自発的に考える脳の部位がドンドン退化して家畜のようになるのです。
二ホンでは小泉政権が構造改革(おカネ持ちだけを優遇する社会計画)を開始して以降、長時間のバラエティ番組やお笑い番組が編成されていますが、これは視聴者の国民の思考力を奪い、資本家にとって都合の良い法律を作るための手段だと指摘されています。
このように国策として国民の白痴化を進めることを「愚民政策」と言います。

響堂雪乃「二ホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ」

殊に学校教育が子供たちの自発性、創造性を奪い「大人にとって都合の良い、言いなり良い子ちゃん養成機関」になってしまっています。「言われたとおりにしておけば、非難されず、怒られない」子供の頃からそうやって洗脳され、調教されてしまっている、マスク社会はその結果でしょう。ひたすら「もうマスクを外していいですよ」と誰か偉い人が言ってくれるのを待ち、自分の判断選択、責任では外さない、これでは自尊感情は下がる一方です。

昨年10月に緊急事態宣言が解除された折、その途端に旅行の予約が8月の10倍になったそうです。つまり皆「恐るべき感染症など起きてない」とわかっているにも関わらず、この茶番を自分たちの手で終わらせようとしている人は、ほんの一握りです。

野生動物に「怖いから考えない」「誰かが何とかしてくれる」はない

考える習慣と力を奪い、そして元々「悪に立ち向かうには苦痛が伴う」のなら、「怖いから考えない」になってしまうのも、自然の成り行きでしょう。

しかしそれは問題の先送りをするだけで、現実はどんどん悪化します。「怖いから考えない」は結局のところ、若者や子供につけを残すだけです。若者や子供は国の未来です。

ところで、野生動物に「怖いから考えない」はありません。現代人がやりがちな「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」もありません。そんな個体は死にます。

草食動物のように弱い種であればあるほど、天敵が来そうになったら、耳をそばだて、目を凝らし、鼻を効かせ、五感をフルに使って現実を直視します。そしてある瞬間から全力で駆け出して逃げます。

危機管理において、私たち現代人は野生動物に劣ります。野生の本能をいつの間にか弱らせてしまっているかのようです。

人には、生命には、元々力も知恵もある、それを認める方が怖い

上述した通り、私たちは長い間、この世の支配者から弱く、愚かにさせられてきました。それは裏を返せば、本当は私たちは、自分たちが思うよりずっと強く、賢いということです。だからわざわざ、弱めて、愚かにする必要があったのです。

無人島に着の身着のまま流れ着いた人が、何年も生き延びた例は古今東西いくつもあります。「信じられない、まるで奇跡だ」と便利な生活に慣れ過ぎた現代人の私たちは、ついそう思うでしょう。しかしその人たちが特別なのではなく、人間には、生命には、元々それだけの力があります。

鷲などの猛禽類が、自分よりも重い狐などの獲物を、足でつかんで飛び立ち、より安全な場所へ運んでいきます。それは自分だけの力で飛ぶのではなく、風を読んで、風の力を使って飛んでいきます。誰に教わったのでもなく、鷲の本能にはその知恵が備わっています。

生命が生きよう、生き延びよう、そして子孫を残し、繁栄しようとする力は、すべての種に共通です。私たち人間にも当然ある力です。

私たちには本当は、元々力も知恵もある。それを意図的に弱らされてきたのも事実ですが、その謀略に「乗ってしまった」のもまた私たちです。つまり弱く、愚かな自分ということにしておいた方が、都合が良い。勇気を出さずに済む奴隷でいる方が楽なのです。それが今「言われるがままにマスクをし続ける(本当は「お願い」されているだけで強制は誰にもできません)人々の群れ」として、顕在化しています。

偽善は悪に立ち向かう勇気がないために起きてしまいます。私たちが本来持つ力や知恵を認めてしまう方が怖い、認めてしまうと言い訳(「だってみんなが、同調圧力が」)をして逃げられなくなる、その卑怯さも人間の顔の一つです。

言い訳をしながら、本当は強く賢い自分から逃げながら、だけど善人ぶって、一生を終えることもやろうとすればできます。他人は誰も、それを止められません。本当にそれでいいのかどうかを決められるのは、自分だけです。

人生の終わりに、誰がどう思おうと、何と言おうと、「わが人生に悔いなし」と言い切れるかどうか。自尊感情豊かに生きるとは、そう言い切れる生き方をすることです。

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第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。