心にとって目標は「あった方が良い」
心理セラピー・セッションでは初回セッションの前に「セッション完了後どのような自分になっていたいかを、1~3つ考えて持ってきてください」とお伝えしています。つまり目標です。
私は目標を持つべきだ、とは言いませんが、あった方が良いと考えています。と言うのは、目標を持たないと私たちは知らず知らずのうちに、自分から問題に振り回されるからです。
生きていれば嬉しいことや楽しいこともありますが、同時に嫌なこと、思い通りに成らないこともたくさん起こります。つまり問題です。
望まないこと、即ち問題から、望むこと、即ち目標へ意識を向け直す、これを瞬時にやれる習慣が、心のエネルギーを無駄にせず、結果自尊感情を高めていきます。
以下に更に詳しく、心にとって目標は「あった方が良い」理由を3つ解説していきます。
理由① 問題だけに意識が向くと、問題にはまりっぱなしに
人が「問題」「困った状態」から抜け出せないのは、運が悪いためでも、周りの人が助けてくれないためでも、自分がダメだからでもありません。その「困った状態」に、自分の意識が向きっぱなしになり、否が応でも「困った状態」に自分からはまり込んでしまうからです。
私たちは世界の全てを意識できているわけではありません。自分の意識が切り取った世界だけを、見て聞いて感じています。そして、「意識が切り取った世界」の中に、否が応でも進んでしまいます。全く違う世界にいつの間にかいた、ということはやはりありません。
物事が上手くいかない時、人は知らず知らずのうちに、以下のようなの質問を自分にしてしまっています。
「もし、上手くいかなかったらどうしよう・・・?」(What if クエスチョン)
「何故あの人はこんなことをするんだろう・・・?」(Why クエスチョン)
「上手くいくかな?いかないかな?」(Yes/No クエスチョン)
これらの質問は全て「上手くいかない」ことを意識が切り取っています。
※なお、Whyクエスチョンは、事故の再発防止のためなどの、タスクの問題究明や、見失いやすい目的を問うためには不可欠です。ただこれを「本当は誰にもわからない」人間の心においてやってしまうと、言い訳やもっともらしいストーリー(「あの人はきっと親に愛されなかったから、こんなに薄情なんだ」など)をくっつけて終わりにしがちです。現実的な解決にはなりません。
例えば、彼氏からラインの返信が来ない、既読スルーされた時、
「もし、彼が浮氣していたらどうしよう。私のこと、嫌いになってたらどうしよう」
「何故、返信くれないの?」
「彼は私のことを大して好きじゃないのかな?」
・・・こんなことばっかり考えていて、彼氏とラブラブになれるでしょうか・・・?
では、恋愛が上手くいく人は、その代りに何をやっているのでしょうか?上手くいく人にも、彼氏からラインの返信が来ない、といったようなことは、やはり起こります。
その時、「自分が欲しくないものではなく、欲しいものは何か」すなわち目標を考えられるかどうかです。この場合だと「彼とコミュニケーションを取ること」が「欲しいもの」であり、目標になります。
そして
「どうやったら彼とコミュニケーションが取れるだろう?」(Howクエスチョン)
「彼とコミュニケーションを取るのに、何ができるだろう?」(Whatクエスチョン)
などの、HowもしくはWhatの質問を自分にしています。この質問をしている時、「彼とコミュニケーションを取らない」ことは考えていません。どんな方法であれ、コミュニケーションを取ることしか考えていないのです。そしてこのHowもしくはWhatの質問は、自分が何が欲しいか、つまり目標がわかっていないとできません。
この質問を自分にすれば、自ずと答えは出てきます。LINEで返信が来ないのなら電話する、ということですね。そして
「もしもし?LINEの返信来ないんだけど?」
「え!?あれ返信いるの?」
「待ってたのに~!!」
多少の口喧嘩にはなるかもしれませんが、口喧嘩もコミュニケーションのひとつです。ですからこれで目標は達成したのですし、こんなことで彼との仲が決定的に駄目になることも通常起きません。
What if、Why、Yes/Noクエスチョンを「やらないでください」ではありません。
どんな人も、例えば電車が遅延すると「遅刻したらどうしよう!?」と一瞬湧き上がってきます。これをなくすことは不可能ですし、不自然です。ただ人は「どうしよう、どうしよう」だけをやってるわけではありません。「どうやったら最短で到着できるか」を自分に問い、確認後、先方に「申し訳ありません。電車の遅延で何時ごろになりそうです」とお詫びの電話を入れます。大抵は「わかりました。お氣をつけてお越しください。お待ちしてます」で事なきを得ます。
つまり自ずと、How「どうやったら」の質問を自分にしています。ただこれを余り意識はしていないでしょう。
不安にはまりこんでいる時、人は「もし何とかだったらどうしよう」ばかりを考えていて、How「どうやったら」を考えていません。まずこれに自分で気づけることが第一歩です。
自尊感情を高めるには、Whatif、Why、Yes/Noクエスチョンを、やはりやってしまう自分をごまかさず、ありのままに見て、その上でHowもしくはWhatの質問の割合を増やす、この意識的な習慣が不可欠です。
理由② 具体的な目標がないと「問題を取り除いてほしい」に
ところで、目標とは言っても漠然とした目標では不十分です。例えば「人間関係を向上させる」、悪くはありませんが、これでは具体的に何をどうすればよいのかはまだわかりません。
「人間関係を向上させたい」と思っていても、今日、明日できる、具体的な小さな一歩に落とし込まない限り、「問題が取り除かれること」を人はつい願ってしまいます。「あの嫌な上司、今度こそ絶対異動になりますように!」「あの意地悪な奥さん、早く引っ越ししてくれますように!」勿論これらは、望むものではあっても目標とは言えません。
嫌な上司が異動になればホッとするのも人情です。これも絶対にやらないでください、ではありません。ごく普通の人間はこうしたことをやってしまう、人はそうしたもの、という前提に立ちます。その上で、「問題が取り除かれること」を願ってばかりいると、単に状況は何も変わらないだけではなく、自分自身を「問題よりも小さな、無力な存在だ」という枠組みで捉えてしまいます。結果「だって、どうせ」の悪循環に陥ります。
例えば「嫌な上司との人間関係をどうにかしたい」のであれば、日常の具体的などの場面で、どのように以前とは違う態度や言動を取れれば良いのか、それを一つ一つ考えて落とし込んでいきます。
ある女性の会社の上司が、しょっちゅう怒鳴っている人で、彼女を含めた部下たちはうんざりし、チームの士氣がすっかり下がってしまっていました。そして皆の口を突いて出る言葉は「あの上司、早く異動になってほしい」でした。
私はまず、「その上司がどんな時に、どのように怒鳴るのか」を観察することを勧めました。上司が怒鳴るのは大まかに二パターンありました。一つは部下や取引先が、自分が指示した通りに動かない時、もう一つは仕事とは関係なく、単に自分の機嫌が悪い時でした。
部下が指示した通りに動かない、それはコミュニケーションの不全から生じています。それを上司に「もっとわかりやすく指示してください」と言っても無駄でしょう。よくありがちですが「言ったつもり、伝えたつもり」になっています。私は彼女に、指示された時に必ず「こういう理解で間違いないですか?」と確認することを宿題として渡しました。
当初は「いちいちそんなこと聞くな!」とまた怒鳴られないか不安だったそうです。しかし実際にはそんなことはなく、丁寧に確認する彼女を、その上司は段々信頼するようになりました。そして、単に自分の機嫌で怒鳴っている時は、いちいち取り合わない、そうやって発散させてるだけだと受け流すようにアドバイスしました。
やがて他のメンバーにもその情報は共有され、指示された事柄を復唱し、確認するようになると、結果仕事が円滑に回るようになりました。コミュニケーションの不全で上司が怒鳴ることは、当然のことながら減っていきました。上司が機嫌が悪くて怒鳴るのも、皆がいちいち真面目に取り合わなくなると、部署の雰囲気も以前のように暗くピリピリしたものではなくなりました。落ち着いて良い意味で淡々としたものに変わっていったそうです。
このように、小さな一歩に落とし込むことの大切さを、ほとんどの人が中々意識出来ていません。誰もがその人にとっての小さな一歩しか踏み出せず、ただそれは、他の人にとっては「私、あんなことようしないわ」でもあり得るのです。
理由③ 「私はどうにかできる」と思えず、指示待ちや他人任せに
何であれ、百発百中で上手くいくことはあり得ません。殊に人間関係は相手あってのことですから、上手くいく時も、そうでない時もあるのが当然です。
心にとって重要なことは、結果ではありません。
具体的なプロセスを歩んでいる最中に、「私はどうにかする、どうにかしようとする人間なんだ」と自分に対して思えることが大事です。それが問題解決能力であり、自己有能感になります。これらも自尊感情の重要な要素であり、勇氣の土台になります。勇氣のないところに真の愛の発露もまたありません。
「どうにかする、どうにかしようとする」はHowです。自分に対してそう思えれば思えるほど、What ifの割合が減り、Howの割合が増えます。
これが自立するということ、依存的ではないことです。「言われたことさえやっておけば、私は非難されない」の指示待ちや、「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」の他人任せ、今の日本人に大変多い在り方でしょう。
ですが、そういう人が、もし貴方が危機的な状況に立たされた時、たとえ傷ついても損をしても、体を張って貴方を助けようとしてくれるでしょうか?そ知らぬふりをして逃げてしまうのが関の山でしょう。
その人は平時は氣持ちの優しい、常識的ないい人かもしれません。しかし人間の真価は危機の時に現れます。危機の時に取れる態度は、平時にしか養えません。
そしてまた人は、危機の時に取った相手の態度をよく見ていて、忘れません。そして不思議とそのことをペラペラとはしゃべらない傾向にあるようです。
流されない生き方のためにこそ自分にHowとWhatの質問を
目標を具体化し、小さな一歩に落とし込むのは、例えるなら行先を番地まで明確化する、ということです。「人間関係を向上させる」だけだと、カーナビに「兵庫県」とだけ入力して、「動かない!このナビ壊れてる!」と言っているようなものです。
番地まで入力して初めて、ナビはルートを導き出します。
自分がどうしたいのか、何を得たいのか、そして何をするのか、これらを明確にしない生き方は、ハンドルを持たずにただ流されるだけの生き方です。「みんながそう言ってる」「そうしろと言われている」だからそうするでは、自分の人生を生きていることにはならず、自尊の心を育みようがありません。
あなた任せの指示待ちで流されるのは、一見楽かもしれません。しかしそれは、悪意のある人間に操作され、振り回され、いいようにされる隙を自分から作っています。そうした人生にならないためにこそ、迷った時こそHowやWhatの質問を自分にする、そうすると自ずと道は開けていきます。