人生はどのような問いを自分にしてきたかの集大成
私たち人間にとって、人生が変わるとはどういうことでしょうか・・・?人は中々簡単には変わらない、しかし、5年前の自分と全く同じ意識の人はそうそういないとも思います。
ところで、私たちは何か困ったことが起きると、その「困ったこと」を取り除こうとしがちです。それは他人の振る舞いだったり、「上手くやれない自分」だったり。勿論時には主張したり交渉したりして、「相手の困った振る舞い」を変えてもらうよう伝えるのも、必要なこともあります。
しかし、根の深い問題であればあるほど、残念ながら説得は中々奏功しないのを、多くの人が経験しているのではないでしょうか。そしてその時、人は悲しいことに耐え難い痛みを経験します。
「どうしてわかってくれないの・・・?」
相手が家族、恋人、友人など、自分にとって大切な人であればあるほど、引き裂かれそうな思いに苛まれるものかもしれません。
そしてそうした時にこそ、私たちは自分自身が試されているのでしょう。この困難に際し、どのような問いを立てたかを。
「あの人、何であんなわからず屋なの?」の相手がどうなのかの問いに留まり続けるか。
「これは一体、何が起きてるの?どうしてこんなことになってしまったの?」の背景を問うか。
「このままでは同じことの繰り返し・・。私はどんな新しい選択ができるだろう?」の自分の新たな生き方を問うか。
最初は「このわからず屋!どうにかしろ!」になるのもごく自然な反応であり、人情です。その後「何であんなわからず屋なのよ!?」の問いになる。人はそうしたものですが、それに留まり続けるか、その先に進むかで、やはり人生は変わらざるを得ません。
「この選択は私の命が喜んでいるのだろうか・・・?」
私たちの選択は、多くの場合、自分の問いの結果としてそれを選んでいます。そして人は、問いを忘れてしまい、答えの方を考えています。
その問いとは
「損か/得か」「不安か/安心か」「面倒か/面倒臭くないか」の二者択一の問いだったり。
「どうすれば非難されないか、浮かないか、変に思われないか」の「自分の内面に潜む他者」が主体の問いだったり。
「何が自分にとって大事か。どうすれば自分を裏切らないか」の自分に忠実であろうとする問いだったり。
これらの問いは、意識の背後に追いやられ、答えの方が意識の表面に出てきます。私たちは、意識の背後に追いやられた元々の問いがどのようなものだったのかを知るために、次の問いを自分にすることができます。
「この選択は、私の命が喜んでいるのだろうか・・・?」
命が喜んでいる=自尊感情(self-esteem)豊かであること
事柄によっては、すぐに答えを出せない、出さなくて良いことも沢山あります。例えば「親の葬式に出たくない。でも、後悔しないだろうか?」など。あらかじめ決めなくても良く、またその答えは状況によって変化するでしょう。ただ「自分の命がその時喜ぶ方を選ぶ」を心に留めているかどうかで、自分を責めず、かつ、自分の選択に責任を持てる、つまりどんな選択であれ、自分を肯定できるかもしれません。
楽ができること、傷つかないこと、不安でないことが、いつでもどんな時も命が喜ぶとは限らないのです。
自尊感情とは
無条件に自分は価値があり、かけがえのない存在であると感じていること。
何かが出来るから、とか、人格的に優れているから、ではなく、生まれたての赤ちゃんがそのままで尊いのと同じように、何があってもなくても、自分の存在そのものが尊いと感じられること。
「都合の悪い自分」を排除せずいじめず、「それも自分だ」と受け入れられること。
他人や、何かと比べて自分をvery goodとするのではなく、無条件にgood enoughである状態。
自尊感情豊かな人の主な特徴
- 内面化された他者(世間体、人との優劣、評価評判、借り物の正義、罪悪感など)に動かされるのではなく、自分が育んだ倫理観(自分がどう生きたいか、どうありたいか)に沿って生きています。
- 傷つくことはあっても、立ち直れる自分を知っています。
- 喜怒哀楽全ての感情を大切にしています。
- どんな人とも同じ目の高さに立ち、自分も相手も大切に誠実に接します。
- 失敗や挫折から学びを得て、成長する自分を知っています。
- 責任と配慮のある「No」が言え、盲従ではない選択責任の結果の「Yes」が言えます。一方で相手の言い分に耳を傾けることも出来、豊かな人間関係を築けます。
- 周囲に流されたり群れたりせず、孤独に耐える力があります。
- 自分の限界を弁え、「わからない」「知らない」「できない」未完成性を恥じず、受け入れています。
自尊感情が不足すると生じがちな「生きづらさ」の例
以下のような「生きづらさ」は、多くの人が大なり小なり経験していることでしょう。即ち、自尊感情が不足すると、どんな人でも生きづらくなってしまう。これは年齢、能力、性格、社会的地位や経験の多寡とは関係がない傾向にあります。
皆さまの来し方に照らして、少し時間を取って、静かに振り返って頂ければと思います。
人からどう思われるかが過剰に気になる。人から嫌われないかどうかが行動の基準となる。いい人でいたい。
- 人と比べて落ち込んだり、逆に人を見下したり、支配・依存をして偽りの安心を得ようとする。
- 学歴や社会的地位や年収などで自分や他人を評価する。世間体を優先する。
- 何でも駄目出しをしてしまう。逆にすぐに迎合してしまう。「本当は自分はどうしたいか」がよくわからない。
- 後輩や部下を叱ったり注意したりができない。
不安が強いため、試し行為をする。相手にわざわざ嫌な思いをさせて「こんな自分でも受け入れてもらえるか」を試そうとする。
- 脅し(泣き脅しも含む)たり罪悪感を刺激して、人を思い通りに動かそうとする。
- かまってちゃん。察してちゃん。
- 付き合う氣もないのに自己満足のために異性の気を引こうとする。結果異性からの信頼を失う。
- 過干渉、親切の押し売り。心配するふりをして、相手を自分の思い通りにさせずにはいられない。断られると傷つき、怒る。
相手の感情や動機に関心を向けられない。「どんな思いでそれを言ったりしているのか」に意識が向かないため、自分に悪意はなくても「空氣が読めない人」と評されてしまう。
「だって誰それが(夫が、会社が、世間が)~と言うから、するから」と責任転嫁し、「自分がどうしたいか、するのか」の自己決定から逃げる。
ネガティブな感情を感じる自分を罰する。「あの人嫌い」「関わりたくない」と思ってはいけない、と思っている。
先に簡単に謝ってしまう。「すみません」を連発する。また逆に、「許してくれないのなら謝りたくない」と、率直に謝ることができない。
Noが言えない。断ることに罪悪感を感じる。自分から断れず「相手から言ってくれればいいのに」の察してちゃんになってしまう。
0か100か思考が強く、行動できない。「やってみなければわからない」ではなく「どうせやっても無駄」になりがち。失敗を過度に恐れるため、指示待ちになる。正解依存になりやすい。
就活や婚活、営業で断られると、「縁がなかった」「商品やサービスが断られた」と思えず、「自分を否定された」と捉えてしまう。めげてしまいやすい。
「ああ、自分はダメだ」と自分を責めて落ち込むが、「次はどうする」の建設的な反省に中々ならない。
人に仕事を任せたり、頼む事が出来ず、一人で抱え込む。
「まあ、こんなこともあるさ」「駄目でもともと」「またやり直したらいい」と思えず、思い通りにならない自分や他人を内心であっても罰し続ける。自分にも他人にも「まずは60点でOK。それから積み上げればいい」になりにくい。過度な完璧主義。
自分を傷つける人と付き合う。もしくは縁を切れない。他人に利用されやすい。
- 夫や恋人が避妊をしない。
- 異性に「キープ」されているのに、ずるずると交際を続けてしまう。
- かまってちゃんに付け込まれやすい。
- いじめや嫌がらせに毅然とした態度を取れない。或いはスルーできない。「味を占めさせない」ことに罪悪感を感じる。
- DV(精神的なものも含む)をする配偶者・恋人と別れられない。別れてもまた似たような人と付き合う。また、真に自分を愛してくれる人からの愛情を受け取れない。自分から関係を壊してしまう。
- 恋人や友人にお金を貸して、返してもらえない。お金を貸すことを断れない。
自分を犠牲にしていれば、いつか相手はわかってくれる、と思っている。成人後も、親や大人の「都合の良い子」「言いなり良い子ちゃん」のまま。
特定の行動を注意されただけなのに、まるで全人格を否定されたかのように傷ついてしまう。逆切れしやすい。
「太っている私は醜いから嫌い」「○○ができない自分は駄目人間だ」⇒「だから痩せたい」「○○ができるようになりたい」という自罰的な動機で目標を立てる。
この動機では、残念ながら必ず挫折してしまいます。一時的に上手くいったとしても後で反動が来ます。 「太ってる自分」「○○ができない自分」を「なかったことにしたい」という自己虐待になるからです。
身近な人の不快、不満の全てが、自分の責任のように感じる。「自分さえ我慢すればいい」と気持ちを抑えようとする。だが心の奥底で相手に対して恨みが溜まり、いつか爆発する。
取り越し苦労(「もし、~だったらどうしよう」)や、終わったことをクヨクヨ(「なんであんなことになったんだろう」) ばかりし、「今を生きる」ことができない。
SNSの○○自慢にイライラしたり、落ち込んだりする。「こんなの、一番良い所だけを切り取ってるのよ」と頭ではわかっていても、やはり氣になってしまう。
安物買いの銭失いをする。計画的な買い物ができない。生き金を遣えない。物を粗末に扱う。
LINEで既読スルーされるのが怖い。相手に直に確認しようとせず、LINEに振り回される。
本音で話せる人間関係を築けない。常に「いい人」や「いじられキャラ」など、「他人が求める自分」を演じているような氣がする。
自尊感情を高める旅とは問いを持ち続けること
いかがだったでしょうか。「ああ、痛い。私のことだわ」「そうそう、こんな人いるよね~」もしくは、今は通り過ぎて「そんな時期もあったなあ」と思える方も、いらっしゃるかもしれません。自分だったり、身近な人だったり、つまりは「世の中は自尊感情がなにかしら不足している人々の集まり」でもあります。
ですから、自尊感情とは後天的なものであり、どんな人でも何歳からでも、自分次第で育てていくことが出来るという証でもあります。
まず最初の一歩として、自分の感情を大切にすることから始めることができます。「感情はおかしくない」「そう感じたことには、相応のプロセス、事情がある」但し、大人はその感情をいつどのように、表現するか、しないかはやはり問われます。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
感情を受け入れる
⇒不快な感情を「永遠に終わらない欠席裁判」で外側に流してしまうのではなく、自分の内側に還流させて、エネルギーに変える
⇒今の自分の限界、そして状況の限界を受け入れつつ、自分がやれること、やりたいこと、やるべきことに焦点が当たる
⇒人生が変わっていく
大雑把に言えば、こうした流れに自ずとなるとの感触を得ています。
また別の角度から言えば、自尊感情の高まりによる「生きづらくなくなる」とは、面倒なことには瞬時に無関心になり、事なかれ主義の見て見ぬふりをし、ルンルンで楽しく生きられることでは決してありません。
実際には、葛藤耐性が高まることにより、葛藤のエネルギーが自分をより高い次元に押し上げ、広い視野で物事を見られ、結果、より望ましい判断を下せるようになると言えるでしょう。それがはた目には「軽やかに無理のないように生きている」と見えるかもしれません。
自尊感情を高める旅は、「目をそらしておきたかった正直な本音」に、時として向き合うことも起きるでしょう。「私の親は、私を愛していなかった。そしてそのことを、実は昔から私は知っていた。長い間、何とか認めまいとした。でもとうとう、そのツケが廻ってきた」など。その時、心が張り裂ける思いがするかもしれません。怒りや悲しみ、恨みや呪いが噴出するかもしれません。
それでもなお、自分をごまかさず、それを通過した人にしか現れない風景があるように思います。それは一種の境地と言っても良いでしょう。
ここまで読まれた皆さまに、何か心に響くものがあったなら、それは何だったか、そっと問いかけて頂ければと思います。その答えはその方に最もふさわしいタイミングで、浮かび上がってくるでしょう。仮にその時が中々やってこなかったとしても、問いを持ち続けることそのものが、自尊感情を高める旅であると私は信じています。

