「最悪のシナリオ」にはまり込む「もし~だったらどうしよう」思考
自尊感情が低いと、本来は良くも悪くもない出来事に、ネガティブな意味づけをしてしまいがちです。
例:「隣の奥さんが私に『おはようございます』と言わなかったのは、私を嫌っているからだ」
脳は、起きた出来事に意味づけをして、「次に同じようなことが起きた時、どうしたらいいか」に備えようとします。人は感情が動いた出来事を、意味づけせずそのままにしておくことは中々できません。「良かった」「悪かった」、そしてそれは何故かという意味を瞬時にくっつけ、自分の脳内の辞書に保存します。そしてこの意味づけは、必ずしも事実ではありません。
そして自尊感情が低ければ低いほど、「上手く行かなかった時にがっかりしないための『保険』」をかけようとして、自分から「最悪のシナリオ」をくっつけてしまいます。
上の例だと、奥さんは考え事をしていたのかもしれない、元々誰に対しても挨拶はしない人なのかもしれない、もしかすると会釈を返して挨拶したつもりだったのかもしれない、でももしそれらではなかったら、自分は傷つく、だから先回りして「最悪のシナリオ(私は嫌われているからだ)」を自分でくっつけておく、こうやって(よくよく考えるとおかしなやり方ですが)自分を守ろうとしています。「ほらね、やっぱりそうだったでしょ」
これが「彼からラインの返信がない」「○回続けて営業を断られた」などでも、「彼に電話して確認する」「他の営業のやり方を先輩から学び、試してみる」など自分から行動を起こす前に、「最悪のシナリオ」を先に想定してくっつけてしまうと(「彼は心変わりしたに違いない」「自分は営業には向いていない」)、結果的に自尊感情が下がる悪循環が起こってしまいます。
「最悪のシナリオ」は、「もし上手く行かなかったらどうしよう」の質問の答えでもあります。
そして少々厄介なことに、私たちはこの質問ではなく答え、「最悪のシナリオ」の方を考えていることが多いです。「彼が心変わりしていたら、どうのこうの・・」というものです。しかし彼氏の立場に立てばわかりますが、そんなことを考えてばかりいる女性との交際が楽しいわけはありません。結局うんざりして、そして彼女の方は「ほらね、やっぱり」と自分で自分を納得させてしまいます。
危機管理においては必要な「最悪の事態の想定」
但し、防災などの危機管理においては、「最悪のシナリオ」をいくつもシュミレーションすることが重要です。悪い意味での「楽観視」は防災では全く役に立ちません。しかし防災行政が「言うは易し」の最たるものになるのは、限られた予算の中ではどうしても産業振興等、喫緊の課題が優先され、後回しにされやすいからです。
個人の生活における経済や健康なども、同じような側面があるでしょう。先々まで見越して準備・予防をしておくのが一番効果的で、賢いやり方なのですが、それでも自分が苦手なことだと、人はついつい「まだ大丈夫」で先延ばししがちです。「明日から始めよう」を何か月も、何年でもやってしまいます。
その自分を戒め、面倒な準備・予防を今日から始めるために、「もし~だったら」を自分に問い、行動のモチベーションにするのは、自分の人生を大切にする一つのやり方です。ただ、将来の不安のためにきりきり舞いするのは本末転倒ですから、今の生活を楽しみながら、生活を圧迫しない範囲で将来の備えも行うバランスもまた大切です。
先延ばしの二つの動機「恐れ」と「面倒くさい、楽がしたい」人間というものは、何か問題が持ち上がった時に、いつでも「さあ、解決しよう!レッツゴー!」とすぐに行動に移せるわけではありません。例えば、ダイエットひとつとっても、1k[…]
自己有能感が低いと受け身の人生に⇒「被る」態度に
上記の「危機管理のために最悪のシナリオを想定し、準備・予防のためのモチベーションにする」は、人生に対する能動的な姿勢です。
しかし殊に人間関係における「もし~だったら」は、悪い意味での受け身だとやってしまいがちです。彼からのラインの返信がない、既読スルーされただけで、「もし彼が私に飽きてたらどうしよう。それほど私のことを好きでなかったらどうしよう」
ここには、「自分にとって快適な、都合の良い状態がお膳立てされていてほしい」というエゴが実は潜んでいます。以前の記事で、自分の勇氣のなさのために親友を裏切ってしまったのに、「もし許してくれなかったらどうしよう」と潔く謝ることができなかった少年の例を挙げました。
終わったことをいつまでもくよくよしてしまうのは「しまった!ああすればよかった、こんなことするんじゃなかった」と後悔し、その後もずっとくよくよしてしまう・・・誰にでも経験があるでしょう。「しまった!」と一瞬思う、この反応は、その人の[…]
自己有能感という「私は何とかする、何とかできる」という実感が薄いと「お膳立てされる」「嫌なことが前もって取り除かれる」を望んでしまいます。これは自己中心性と責任回避ですが、本人にはその自覚はありません。
この自己有能感は、文明が進み過ぎた今の日本の方が感じにくくなっているでしょう。今でもヨーロッパの山間部で、現代の文明から離れた人々の生活が、YouTubeで紹介されています。電氣は通っていますが、ガスも水道もなく、真冬のあたり一面雪の中でも、井戸から水を汲み、蛇口付きのポリタンクに水を溜めて、洗面台や流しに取り付ける。ガスコンロの代わりに鉄製のストーブに薪を燃やして、その上で調理する。近所に店などないので、パンを粉から手でこねて焼く、などです。
ほぼ自給自足で、動画で見るより実際には厳しい生活でしょう。しかし、その人たちの自己有能感は、令和の日本に暮らす私たちより高いだろうと思います。文明が行きつくところまで行きついて、日本人は体力のみならず、精神的にも知的にも、ひ弱になり、退化しているのかもしれません。
「私は何とかする、何とかできる」の反対が、「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」という人任せです。この人任せが引いては、自分にとって嫌なことが起きると「嫌なことが降りかかってきた」「嫌なことは(私が指一本動かさずとも)取り除かれて当然」という受け身の「被る」態度、被害者意識になります。
つまり「もし~だったらどうしよう」ばかり考えている時は、「なったらなったで、私は何とかする」とは思えていません。
常日頃から、「言われたことだけこなしていればよい」ではなく、自分の頭を手を能動的に使って、仕事も含めた生活を整える、上記のヨーロッパの山間部に暮らす人と同じ生活はできませんが、態度として心がければ、この便利すぎる令和の日本に暮らす私たちも、自己有能感を育てることができるでしょう。自己有能感と「被る」態度は、反比例の関係にあります。
「もし~だったらどうしよう」は自分の領域の外にあるものへの執着
「もし遅刻したらどうしよう」「もし今月の家賃が払えなかったらどうしよう」を延々と考えている人はそういないでしょう。大抵の人は一瞬「どうしよう⁉遅刻するかも⁉」と思っても、すぐ次の瞬間には「最短でいつ着けるか」を調べ、先方にお詫びの電話を入れるなりします。家賃も同じで、「どうしよう、どうしよう」と百万回考えても、家賃が払えるようにはならないことは皆わかっています。
しかし特に近い人間関係において、「もし~だったらどうしよう」が中々収まらないのは、相手との間に「失いたくないもの」があり、それを諦めることが辛いからです。恋愛においては「彼が私を好きでいること」です。しかしそれは、どんなに自分が努力をしても、やはり相手の領域にあるものです。
「もし失敗したらどうしよう」も同じです。小さな事柄なら「駄目で元々」「またやり直せばいいよ」などと割り切れても、多くの人が関わるプロジェクトだったり、大きなお金が動くことだったりすると、プレッシャーが強くなって当然です。プロジェクトが失敗した時の金銭的な損失、それによる自分への評価の低下、自分自身の挫折感などを恐れる氣持ちが強くなると「もし~だったらどうしよう」が頭をもたげてきます。
自分が感じている恐れが「自分の努力が及ばない事柄で、かつ受け入れがたい」時、執着を生みやすいのです。
幸福より不幸を欲しがっていないか
「もし~だったらどうしよう」は恐れ、不安を感じればこそ湧き上がります。
「不安を取り除きたい」は良くも悪くも私たちの行動の動機になります。不安を取り除くための、自発的で建設的な努力(健康の維持管理や、「稼げる」スキルを身に着けること、安定的な信頼を築くために自分の人間性を磨く、など)の原動力にする代わりに、その努力が面倒だから、冒頭に書いた通り「最悪のシナリオを想定して、自分から突き進む」をやることがあります。
それは不幸でいた方が、自分が責任を負わなくて済むからです。地道な努力や、行動に移した後の結果に責任を負わず、「不遇をかこつ」ことに終始できるからです。今風の言葉で言えば「不幸好き」と言えるでしょう。
幸福は棚から牡丹餅で得られるものではなく、あったとしても長続きはせず、私たちの生き方のスキルを向上させてこそ得られるものです。しかしスキルの向上ほど、地道で終わりのない努力はありません。
また「成功するまで失敗する、それが試行錯誤であり、努力」とは思えず、「成功か失敗か」の二択になっていると、このスキルの向上などという面倒くさいことに取り組み前に、「不幸好き」に自分からなり、何をやっても「もし~だったらどうしよう」を繰り返します。
失望を抱えて生きる力・あの世まで駆け抜けて生きる
真っ当な努力を厭わない人であっても、人間関係において、相手との間に望んでいたもの(共感、思いやり、真摯な反省と謝罪、価値観を共有してもらうこと、言い分を裁かずに、スルーされずに耳を傾けてもらうこと、等々)を得られないことは、避けて通れません。
危機の時ほど、その人のメッキは否が応でも剥がれます。相手が自己演出力に長けた、如何にも「良い人」だと、知らず知らずのうちに相手を信頼し期待してしまいます。しかしいざと言う時に、その相手は知らぬ存ぜぬで逃げてしまい、それを何とも思わない、そうしたことも起こります。
上記の「自分の領域の外にあるものへの執着」を和らげるためには、自己有能感ともに、失望を抱えて生きる力が必要です。失望を抱えて生きる力は、それこそ失望する経験を経て初めて得られます。一見相反する二つの能力を育てることこそ、私たちが成熟した、真に信頼に足る大人になる条件でしょう。
そしてそれは、頑張り屋ほど難しいかもしれません。しかし、ある程度の年齢になれば「努力は必ずしも報われない」「真っ当な意見がまかり通らない」ことは何度も経験しているでしょう。頑張り屋ほど「世の中おかしいよね」と思って当然です。
若い人が屈託なく笑う、それは若い時だけの特権であり、美しさです。しかし「失望を抱えて生きる」ことを知った大人は、「屈託なく笑うだけ」はできなくなります。中年以降も「屈託なく笑うだけ」は、やはりどこか歪なのです。
またここで見方を広げて、「私たちはこの世だけの存在ではない」「私たちは魂を磨くためにこの世に生まれてきた」と考えると、「死を超えてあの世まで駆け抜けて生きる」発想を得られるでしょう。私たちは、おかしなこの世をどうにかはできないかもしれません。しかしあの世まで駆け抜けて生きることは、自分にしかできません。
失望を抱えて生きる力さえ、「あの世まで駆け抜けて生きる」原動力にもできます。その時、既に人は「もし~だったらどうしよう」にはまり込むことは、もうそうそうやらなくなるのです。