人は自分に釣り合うものしか選ばない、譬え傷つくことであっても

DVをする配偶者と無理やり別れさせても

人生の真の豊かさ、幸福とは「どんな人と縁を繋いでいるか」に尽きるように思います。ある程度の年齢の人なら「なまじ小金があるばかりに、人生が狂ってしまった人の例」を直接間接問わず見聞きしているでしょう。お金がなければ人は生きていけませんが、ではたくさんあるからと言って、その人が人間らしい幸福な人生を生きているかどうかはまた別です。健康や社会的地位も然りです。

そしてその縁も、自分が選ぶのみならず、相手からも良くも悪くも選ばれています。「類は友を呼ぶ」ということわざがありますが、価値観や性格の相性だけでなく、自尊感情が高い人は高い人同士、低い人は低い人同士で釣り合っています。よくある話ですが、配偶者に愛情をもう感じていない、嫌いでたまらない、それでもなんだかんだと言って別れないのは、単に経済的な理由だけではなく、その関係が自分に釣り合っているからです。

DV(ドメスティックバイオレンス)をする配偶者と無理やり別れさせても、自尊感情が豊かにならなければやはり似たような人とくっついてしまい、根本解決にはなりません。これはいじめや、ブラック企業から逃げ出せないのも根は同じです。

「自分は救われるに値する」と思っていなければ、救いの手を何度でも自分から振り払うのです。

支配/依存のサドマゾ的関係から抜け出せない理由

何故このような自分を傷つける関係性から抜け出せないのか、様々な議論がありますが、ここではエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」から引用します。

サディズム的人間は、彼が支配していると感じている人間だけを極めてはっきりと「愛し」ている。(略)彼らの生活を支配するのは、彼らを愛しているからだと、彼(サディズム的人間・足立注)は考えているかもわからない。事実は彼は彼らを支配しているから愛しているのだ。(略)彼はあらゆるものを与えるかもわからないーただ一つのことを除いて、即ち自由独立の権利を除いて。この状態は特に両親と子供の関係に見られる。

(略)

マゾヒズム的及びサディズム的努力のいずれもが、耐えがたい孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである。

(略)

この状況の中では、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中の優れた叙述を引くならば、「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、譲り渡せる相手を見つけたいという、強い願いだけしか持っていない」。

(略)

マゾヒズムはこの目標への一つの方法である。マゾヒズム的努力の様々な形は、結局一つのことを狙っている。個人的自己から逃れること、自分自身を失うこと、言い換えれば、自由の重荷から逃れることである。

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」日高六郎訳

自分自身であることを失い、支配/依存の関係性にしがみつく、自立独立しようとしない、媚びへつらい、顔色を窺い、群れておいた方が気が楽であり寂しくない、「私は被害者、悲劇のヒロイン」に酔い続けることができる。そして「悪いのは相手」ということにできる。それを言い募ることで他人に「気の毒がってもらえる」「構ってもらえる」。

関係性の苦痛に甘んじて埋没することで「自分の人生をどう生きるか」という、自分しか考える人はいない大命題から逃げられる。この状況を何十年でも手放したくない。そのマゾヒズムにサディズムが付け込む。サディズムとマゾヒズムは固定されたものではなく、頻繁に攻守交代します。夫婦でも親子でも、結局は相手を利用し合い、むさぼり合い、そしてそのまま一生が終わる例は、枚挙に暇がありません。

勿論これは、自ら奴隷になることであり、自尊感情とは対極のあり方です。

フロムの言に沿っていえば、自尊とは自由の重荷に耐えられることと言って良いでしょう。

「与えられること」を待っていては奴隷になる

自由とは勝手氣ままでは勿論ありません。その字の通り「自らに由る」こと。つまり自己決定です。しかしどんな人も「自由にしていいよ」と言われると却って戸惑うとか、他にも、例えば私服で勤務するより制服があった方が氣が楽といった経験があるでしょう。

自分で考えて決めるのは、楽しいこともある反面、脳に負荷が掛かり面倒で、要は「誰かに決めてもらって自分は従っておいた方が、責任を持たなくて済む」のです。

「人は自由に憧れると言いますが、違います。人は面倒を見てもらうことに憧れる」

「人は安全の名の下に自由を手放す準備ができています」

「自分を被害者と思うことに喜びがある。人類の大部分はそれを楽しんでいる」デニス・プラガー

ニコニコ動画

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「今日のシェフのお任せコース」を頼むなど、お任せで良い場合もありますが、それも「自分がお任せコースを頼んだ」責任はやはり生じます。また例えば食べられない食材をシェフに予め告げたり、「できればあっさりめで」などと注文するのは自分の責任になります。それらを先に言わずに、料理が出てきてから文句を言っても、それはその人の無責任さに帰します。

また別の例で、ある社会人のハイキングサークルで、ハイキングの企画を出すのは少数の決まった人ばかりで、それだけならまだしも「参加できる企画がない」と文句を言う。ならば自分から動くかと言えばそれもやりたがらない。「文句を言うなら企画を出して。企画したくないなら黙ってて」とその話をしてくれた人は腹立ちまぎれに苦言を呈したそうです。

ありがちなことでしょうが、これも「ただ与えられるのを待っている」態度であり、本人は楽なようでも、自由を放棄しています。即ち自ら奴隷になる誘惑は、こんなことでも起きるのです。

奴隷になるとは、プラガーの言葉通り「面倒を見てもらうことに憧れる」状態です。「ああ、あの人は奴隷でいたい人ね」とサディズム的人間に目をつけられやすくなって当然です。

日常の中で「自分で決めた小さな目標」を持つ意義

ここで再度フロムの「自由からの逃走」から引用します。

マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心或いは心理的強制であろうと、ともかくそれを主人とすることによって決断するということから解放される。

同上

これを日常的な態度に置き換えれば「だって〇〇が」です。「みんながマスクを外したら私も外す」も全く同様です。心理セラピーでは、クライアント様がこれをやっておきたい間は決して結果は出ません。一方でマゾヒズムを続けておいて、一方で自分の人生を歩み、納得できる幸福を得るなど、矛盾極まりないからです。

そしてこのフロムの一文に、私たちが自尊の心を養い自由を獲得する術が込められています。即ち「自分自身が主人となって決断する」ということです。

日常の中で「誰でもない自分が選んで、決めてやっている」と実感できること、そして毎日小さな目標を持って行動することが大切です。これは単にTo doリストを作成して、終わったら線で消していくことではありません。これだけではともするとルーティンをこなすに終わってしまいます。

例えば、今はどの会社でも人員不足で、昔なら新人やパート・アルバイトがやっていた作業的な仕事を、責任の重くなった人がやらざるを得ないことも増えているでしょう。単に「○○の作業を終わらせる」のTo doリストをこなしているだけだと、「本当はこんなことをやってる場合じゃないのに!」の不満が募っても不思議ではありません。

この時ただ不平不満を言っていると、それこそ被害者意識に自分から陥ります。つまりマゾヒズムの罠がこんなことにも潜んでいます。誰かが悪意を持ってサドマゾ的関係を仕掛けようとしているわけではないのに。

その際例えばですが、「普通にやれば一時間かかるこの作業を、50分で終わらせる」を目標にし、「空いた10分で、本来やるべき仕事を何かやる」とそれを次の目標にします。本来やるべき職場のコミュニケーションが、作業的な仕事の犠牲になっているのなら、「単なる雑談で10分を使うのではなく『伝えたいこと』『聞きたいこと』を予め明確にした上で、職場のメンバーに話をする。その際必ずメモを取る」などと具体的な目標に落とし込んでいきます。

ここまで「自分で考えて」目標に落とし込めば、ただただ「こんなことばかりやらされてる状況はおかしい!」と、今すぐ誰にもどうにもできない状況に不満を言うだけではなくなります。そして心にとっては、結果的にこの通りになったかならなかったかは実は重要ではありません。こうした具体的な目標に落とし込んで、その通りに実践しようとしたことが重要なのです。「自分が主人となって決断した」からです。

普段からこのように「自分で考えた目標」を実践しようとしている人が、時には理不尽なことに傷ついたり、中々上手くいかないことにめげそうになることはあっても、被害者意識に陥りようはありません。サディズム・マゾヒズムの誘惑を退けやすくなっていきます。「一見大人しそうだけれど、芯の強い人」は、日ごろの発想と行動が他の人とは違うからこそ結果としてそうなったのであり、そういう人が「自分を傷つける関係性」にいつまでも甘んじることはありません。

判断選択はその人の集大成であり全人格・人格以上の人生はない

「体は食べたものでできている」と言われますが、私たちの人格は日々の判断選択でできています。そして今日、今の判断選択は、その人の全人格の現れです。マスク一枚する、しないも、その人のそれまでの人生の集大成です。

そしてその判断選択が、自分自身の次の人格の礎になります。

「人生に遅いと言うことはない、いつからでもやり直しはできる」も、誤りではないでしょう。しかしその人が積み上げた判断選択の集大成としての全人格を、ゲームをリセットするように、そろばんのようにご破算にすることはできません。

冒頭で「縁は自分が選ぶのみならず、相手からも選ばれている」と書きました。私たちの全人格が、毎回毎回試されています。有体に言えば「まともな人から相手にしてもらいたかったら、自分もそれなりの人間になる必要がある」ということです。

例えばSNSで他人の投稿に「いいね」を押すのも、心から共感し、その通りだと思ったから押したのか、「私は○○さんとこんなにお親しいんです!」と他の人にアピールしたくて押したのかで、自分が何を積み上げたのかが変わっていく、それがその人の人格になる、そしてそれを他人はどうにもできず、見る目のある人ほどそうした態度を見抜いてしまいます。

人格以上の人生はないとは、こうしたことにも否が応でも現れてしまうのです。

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。