【境界線と自分】自分に「ごめんなさい」こそ「No」を言う力に

自分を「悪いもの」に晒し続ける私たち

自分を真の意味で大切にするには、終わりのない勉強と、自分の頭で考え取捨選択し続けること、そして選択したことに対して自負と責任を持つ態度が不可欠です。この自負と責任があればこそ、私たちは失敗から学ぼうとし、自分だけの氣づき、そして生きた知恵を得られます。

「自分で考えて決めるのは面倒。誰か私に『正解』を教えて下さい。それに従っておけば私は非難されないんです!」・・こうした態度を責任逃れの怠惰と言います。

本来は退けるべきもの(感染対策にはならず、寿命を縮めるだけのマスクをし続けるなど)であっても、同調圧力に負け、大多数の人に合わせるのは自分を見失っているからです。それにもまして、「私ちゃんとしています!」アピールの世間体大事は、「誰のためにそれをやっているのか?」の偽善と欺瞞を人は心の底で感じ取ります。同じ世間体大事であっても、その動機は微妙に異なっています。そしてその動機の積み重ねが、その人の人格を形成します。

民衆というものは、しばしば表面上の利益に幻惑されて、自分たちの破滅に繋がることさえ、望むものだ。

マキャベリ「政略論」

これは16世紀のイタリア人だけではなく、21世紀の日本人にもそのまま当てはまります。私たちは様々な言い訳や時には思考停止をしながら、「自分たちの破滅に繋がること」を自ら望みます。言葉を変えれば「悪いものに自分を晒し続ける」のです。大人の場合、これに「No」を言ってその場から立ち去るのは自分にしかできません。

そしてまた、「悪いものに自分を晒し続けた」その自分への悔悟がなければ、形を変えて人は同じことを繰り返してしまいます。

オーストリア在住の著述家・陶芸家の佐藤シューちひろさんが、Facebookに大変示唆深い投稿をされてたので引用します。佐藤さんはかつて、ハワイのホ・オポノポノを実践していました。ホ・オポノポノとは「ありがとう」「ごめんなさい」「愛してます」「許してください」の4つの言葉を自分に語り掛けて浄化する、というものです。

10年くらい前のことだけれど、「ありがとう」が害になって、「ごめんなさい」が決定的に効いた経験をしたことがある。あのとき私は、熊野の縄文の森で陶芸製作の仕事をしていて、近くに国道沿いのコンビニしかなかったので、そこでお弁当を買って食べていた。そんなものは食べたくはなかったけれど、他になかったからしようがないし、それだって「ありがとう」と言って食べれば、浄化されるはずだと思っていた。そうやって、いつも「ありがとう」と言って食べていたのだけれど、やはり少しもおいしくないことには変わりがなかったし、気分もよくはなかった。

それであるとき、いつものように「ありがとう」と言って食べようとしたとき、「ありがとう」という言葉が出る代わりに、涙が出た。そして、ありがとうの代わりに、「ごめんなさい」と言って泣いていた。野菜も魚も動物も、人間がこんなに薬まみれにして、毒のような食べ物を作り出してしまったのだ。植物にも動物にも申し訳がないという思いがこみ上げた。そして、そんなものを無理に食べている自分もかわいそうになった。本来ならば、受け入れるべきではないことを、無理に受け入れようとしていたのだということに気がついた。こんなことは、自然に対しても、自分に対しても、ゆるすべきではなかったのだということに。

【ごめんなさいは解放になるのか?】...…

本当は「ありがたい」と思っていないのに、「こんなものは嫌だ。受け入れるべきではない」と本音では思っているのに、無理に「ありがとう」と言い聞かせて「悪いものに自分を晒す」のは自己虐待です。

そしてこれも、他人が外側から「こんな添加物まみれのコンビニ弁当なんて、毒を食べてるのと一緒だ。自分にすまないと思わないの?」とお説教しても効きません。お弁当以外の事柄においても「自分を悪いものに晒すのはもうごめんだ。そんなことはしてはならない」と思えて初めて、そのお弁当を前にして「涙が出た」のです。

例えば人間関係において、恐怖や「関係性を失ったら辛い」孤独感から、自分を蔑ろにする相手に自分を晒し続け、そこから出ようとする決意をせずに、コンビニ弁当を食べる自分にだけ「ごめんなさい」と言うことはできないのです。

自分に「良いもの」を許可しないとやって来ない

佐藤さんは続けてこう述べています。

ところで、そのときから、確かに何かが変わったのだ。いつもコンビニのパンとかおにぎりとかを差し入れてくれる和尚さんに、「コンビニのものは、健康にあまりよくないそうですよ」とそれとなく言うことができた。すると和尚は、おにぎり屋さんのおにぎりとかを差し入れてくれるようになった。それと同時に、地元の人が、庭で採れた無農薬の野菜とかお米とかをくれるようになった。嫌なのに受け入れていたのを、やはり受け入れるべきではない、と潜在意識と顕在意識とが同時に思えたときに、別な現実を作り出し始めたのだ。

これも頭の理屈だけで「コンビニのものは、健康にあまりよくないそうですよ」と和尚さんに言っても変わらなかったでしょう。自分の心が「悪いもの」を許可していれば、その「悪いもの」からすれば「だってあんたが来ていいよって言ってるじゃん」になります。

境界線は「良いものは内へ、悪いものは外へ」のためにあります。そんなことは当たり前と思っていても、私たちは本当にしばしば「悪いもの」を入れるのを自ら許可し、「良いもの」を拒みます。上記の裏返しで「良いもの」の立場からすれば、「私を受け入れてないから行くに行けない」になって当然です。

佐藤さんは「良いものは内へ、悪いものは外へ」の境界線を明瞭にすればこそ、和尚さんや地元の人がおにぎりや野菜を差し入れてくれるようになったのです。

自分にダメ出しは自分を蹴り飛ばし「悪いもの」に晒し続けること

佐藤さんが自分に「ごめんなさい」と言って泣いていたのと、自分にダメ出しは全く似て非なることです。自分にダメ出しを、恰も自分に厳しい態度と取り違えていることが往々にしてありますが、それは全くの間違いで、「自分で自分を悪いものに晒す。晒すどころか蹴り飛ばして悪いものの中に突っ込む」自己虐待の極みです。「お前こんなヘマしやがって。俺の顔をよくも潰しやがったな」のヤクザの言いがかりを自分にやってしまっています。

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個別の判断選択や、態度、言動に対して、「あんなこと言ったりしたりするんじゃなかった」と良心による心の痛みを経験し、或いは「あれで良かったかな。もっとこうした方が良かったかな」と検証し、「次はこうしてみよう」と自分を励ますのと、「俺の顔を潰しやがって」のヤクザの言いがかりは別物です。

子供の頃の虐待は自己否定感の要因に

ところで子供の頃、身体的、心理的虐待を受けて育った人の中には、虐待者(主に親)からの「俺の顔を潰しやがって」を自分自身の声と取り違えてしまっていることがよくあります。自我の発達段階、自分と他人の区別が未だ不明瞭な時期、「自分を大切に扱われない⇒自分は価値がない」と刷り込まれてしまうのも無理はありません。

大人であってもそうした環境に事実上監禁されて、虐待的な扱いをされると同じことは起きてしまいます。だからこそ大人は、まずは「君子危うきに近寄らず」、そして早い段階でその場から去る、すぐにどうにもできない場合は「それ、危ないよ」と言ってくれる友人に協力を仰ぐ等の手立てが大変重要です。どんな人でも、長期間精神的に圧迫され、かつ孤立していると、正常な判断力を失ってしまうからです。

虐待におけるもう一つの傷は、自分は何もかも悪い、間違っている、汚い、恥ずかしいという意識が深く浸透していることです。(略)彼らは自分のものではない悪を受け入れます。自分たちが扱われたやり方こそ自分にふさわしい扱われ方だったのだと信じ始めます。悪いとか邪悪だとか何度となく言われてきたために、それは真実に違いないと思っている被害者が大勢いるのです。

言葉で直接言われなくても、無視されたり、悲しみや不安を訴えた時に、大した理由もなく邪険にされたりすれば同じことです。明確な暴言でなくても、声のトーンや表情で圧迫する、下着や靴下が破れていても素知らぬ顔をして取り換えないなど、常態化していて虐待者本人は全く自覚がないことも多く、また子供は他の家庭を知らないので「それが当たり前」と思い込んでしまいます。

子供の頃にされたことに対して、道義的責任は自分にはありません。しかし虐待者が自分にしてきたことを、誰でもなく自分自身が自分に、もしかすると他人に繰り返していたり、或いは例えば配偶者に虐待される環境に自分が身を置いていないかと氣づき立ち止まり、そして自分を悪に晒すのを止められるのはー他者からの支援は必須で、一人で抱え込んではいけませんがー自分だけなのです。本人の氣づきがなければ洗脳は解けません。

「愛のない悪いもの」に自分を晒して「だって」と言い訳する方が楽

虐待的な行為に怒り、それを言葉にして表明するのは、境界線を育てる第一歩です。全ての感情を大事にする意義もここにあります。上記の通り「それが自分にとってふさわしい扱われ方だ」と受け入れてしまえば、永久的に続いてしまうからです。

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しかしそれはあくまでも第一歩であり、必要条件であっても十分条件ではありません。

心理セラピーにおいても、怒りや不満を吐き出しながら、境界線を育てて強くなっていくクライアント様と、「自分の何かを変える氣はない。だから同じことが一生でも続く」クライアント様に大別できます。後者は、いずれかのタイミングで打ち切りにならざるを得ません。

見出しの通り、自分の何かを変える面倒な努力をするくらいなら、「『愛のない悪いもの』に自分を晒して『だって』と言い訳する方が人は楽」なのです。しかしそれは、本氣で自分に「ごめんなさい」と泣いて謝ってはいません。結局は自分も虐待の共犯者になっています。そうした安易な、卑怯な態度を情けないと思い、「そんな自分に耐えられない。そんなことで一生が終わるのが虚しい」と思えるかどうかも、その人自身にかかっています。

受け入れてしまった自分への悔悟が、やがて他人の境界線を尊重する土台に

話を佐藤さんの体験に戻しますが、コンビニ弁当は一つのシンボルに過ぎません。

日本は諸外国と比較して二けたも多い食品添加物が使われていますが、こうしたことも私たちが「No」を言わず、受け入れてしまえば「だってあんたがそれ食べてるじゃん」になってしまいます。買い物は投票と言われます。デモをしたり、抗議の電話を掛けたりしなくても、私たち消費者が勉強して賢くなり、他を少々節約したり、コンビニができる以前の生活のように「自分でおにぎりを作る」手間をかけるなどして、「本当に体に良いもの」だけを受け入れて行けば、自ずと淘汰される筈なのです。

自分を損なうもの、蔑ろにする行為を受け入れてはいけませんが、その時の立場や状況によっては、「何も言わずに受け流す」がベストの選択になることもあります。いつもいつも「やめて下さい」と言えるばかりではありません。ただそう言えない時であっても、「自分が受け入れない」と心に決めることはできます。

「本来受け入れてはいけないことを、受け入れてしまった」その経験がない人はいないでしょう。「それは自分がやってはいけないことだったのだ」「そんなことを許してしまって、自分に『ごめんなさい』」・・「良いものは内へ、悪いものは外へ」の深い意義が腑落ちすると、「No」を言うことに罪悪感や恐れを持たず、また他人が「No」と言っても、それを残念には思っても自分を否定されたようには取らず、まして拗ねたり逆切れしたりせず、その人が「悪いものに自分を晒さない」態度に共感し、励ますようになるでしょう。

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