優れた人ほどお説教をしないのは
今回取り上げる「お説教」は、相手が自分の子供や部下、後輩など「注意や叱責をしなければならない」立場で、やむを得ずする場合は除きます。
この場合のお説教は「相手に態度を改めてもらわなければならないから、その指導をするのが自分の責任だから」行うものです。叱られるよりも叱る方が辛い、でもその辛さから逃げないことが責任であり、引いては愛です。「人から憎まれたくない」という打算があっては、こうした叱責はできません。
こうした「やむを得ずお説教をする、される」ではなく、「お説教をしたがる人・ケース」について取り上げていきます。
こちらが誰に迷惑をかけることでもない、完全に自分が自由に選択して良いことなのに、居酒屋などで「何でこうしないの?」のお説教をされると、どんな人も辟易するものでしょう。「何で結婚しないの?」「何でセミナーを開かないの?」「何でもっと○○しないの?」等々。
ただ、お説教の内容そのものは決して間違っているわけではないからこそ、却って対処に困ります。
「言ってることは正しいのだけれど、でも・・・」と気持ちが消化不良になりやすいです。
「説教を垂れる」という言い回しがあります。つまり、説教は意識のベクトルが下に向いています。どこかで相手を下に見ているのです。
そして優れた人ほど、冒頭の「叱責をしなければならない」場合以外は、お説教はしません。意識のベクトルを下に向けて優れた人になる、ということはありえないからです。
自分の信念を主張として「私はこう思う」と話すことはあります。「もし良いご縁があれば、結婚するのもいいと思うわよ。私は結婚しないとわからなかったことが、たくさんあったから」「仕事は真剣にやらないと、仕事とは言えないよね」など。
ただそれは、自分の経験の結果として得たものであって、その結果だけを他人がまねることはできません。
その人自身が、やはりプロセスを経て自分でつかみ取るしかありません。
人は何故お説教をするのか
一部の人は何故、相手に嫌がられてもお説教をするのでしょうか・・・?
ある心理実験で、被験者を二つのグループに分け、一つにはファストフードのサラダの写真が載っているメニューを、もう一つのグループにはサラダが載っていないメニューを見せたところ、サラダが載っているメニューを見た方が、高カロリーのものを頼んだ割合が高かった、というものがあります。
つまり脳は、サラダの写真を「見た」だけなのに、「自分は健康に気を遣っている。だから高カロリーのものを食べても大丈夫」と思い込んでしまうのです。
これが、セミナーを受講しただけで勉強した気分になったり、facebookで人道的な記事をシェアしたり、「いいね」を押しただけで「自分は人道的な人間だ」と思い込んでしまったりになります。実際には何もしていないのに。
相手に教訓を垂れ、教え導いた気分になると、実際には何も実践していなくても「自分は正しく生きている人間だ」と自分で自分を騙してしまいます。
「正しく生きている人間だということにしておきたい」という自己欺瞞があります。
SNSのリア充自慢や感謝アピールも「リアルが充実していることにしておきたい」「感謝していることにしておきたい」です。
実際に人生が充実し、心から感謝している人は、いちいちアピールをしません。それよりも、受けた恩を返したい、報恩の行動に移しています。
親御さんから浴びるように愛情を注がれている子供は、「プレステ買うてもろてん!」とわざわざ友達に自慢しないのと同じです。本当は寂しいから自慢するのです。
「あるがままの自分を受け入れる」自己受容ができていないと、「そういうことにしておきたい」をやってしまいます。同情を引くための不幸話も同じです。優れた人ほど自分のことを話さないのは、幸福であれ不幸であれ、「そういうことにしておきたい」の自己欺瞞がないからでしょう。真の幸福も不幸も、安易に口に出すものではありません。
愛でも思いやりでも、それを実践し、生きようとしたとたんに「思うようにはできない自分」を目の当たりにします。
「ほれぼれとする自分でなければ愛せない!」のナルシシズムが強いと、その自分を直視するのに耐えられません。
ですから、実践から逃げ、お説教をすることで「正しく生きている人間だということにしておきたい」と、ナルシシズムを満足させようとします。
お説教は、このナルシシズムから脱せない限り続いてしまいます。
お説教をしたがる人ほど、実はそれを実践してはいないのです。
「立派なことを言う人」についていきたくなる心理
お説教をすると即、人が離れていくのなら、誰もお説教をしなくなります。しかし、人間の世は複雑です。
「立派そうなことを言う人」についていきたい人も、この世には少なくありません。
自分の価値観・信念が漠然としていたり、自分がそれを生きている実感が薄いと「これでいいのかな・・・?」と自分の生き方に自信が持てなくなりがちです。
「上から目線で物を言う」態度は、時として「堂々として自信があり、立派そうに見える」ことがあります。本当に自信がある人は、上から目線で物を言ったりはしないのですが。
「立派そうなことを言う人」に共感し、賛同しただけで「自分もその仲間だ、それを生きている人間だ」と思っておきたくなる、サラダの実験と同じ心理が働きます。
一旦このまやかしの安心感を得てしまうと、人は中々手放そうとはしません。それが事実かどうかを確かめる、面倒な思考のプロセスをすっ飛ばして、とりあえず安心できるものに飛びついてしまう、自分から騙されてしまうからくりがここにあります。
こうして「立派そうなことを言う人」の取り巻きが出来上がります。
「それを生きているか」の見分け方
「本当にそれを生きている人」と共感しあいたい、或いは、実践し先に進んでいる人から、フィードバックをもらいたい、と考えるのはごく自然であり、健全な判断力を培うためにも大切なことです。
口先だけのお説教ではなく、「本当にそれを生きているか」のチェックポイントを以下に挙げます。
行動を見る
その人を判断するのに最も適しているのは、その人の行動を見ることです。行動だけを見るつもりでいいでしょう。
人間の本音は、言葉ではなく、常に行動に現れます。
「やりたくないことをやる」「やりたいことがやれない」のは誰にとってもストレス「あの人が本当に私を好きかどうかわからない」・・恋愛している人なら不安に思うものでしょう。恋人がどんなに「好きだよ」「愛しているよ」と言っても行動が伴わな[…]
何をしているのか、何をしていないのか。
自分が手を汚すこと、痛みが伴うことから逃げ回っていないか。
誤解を受けたり憎しみを買うことになっても、やるべきことをやろうとしているか。
人の矢面に立つことから逃げない人は、信用していいでしょう。
一貫性があるか、裏表がないか
上記の「行動を見る」とも関連がありますが、一貫性があるかも非常に重要です。
一貫性とは、その人の無意識レベルまで、その生き方が浸透していないとできないことだからです。
勿論完璧な人間はいません。どんなに親切な人でも、全ての人に親切にするのは無理が生じるでしょう。
ただそれが「そういうこともあるよね」のレベルなのか、「ちょっと、信じられない」レベルなのか。
「ちょっと、信じられない」レベルとは、例えば「人に親切にしましょう」と口では言いながら、自分にとって有益な人には親切にし、利益をもたらさない相手には嫌がらせをしている、など、意図的な裏表があるかどうかです。「あの人、○○な割には△△だなあ」こういう言葉が数回浮かんで来たら、要注意です。
その人の今の限界を超えて、実践しきれない、ということと、あきらかな裏表があることとは異なります。
I(私)メッセージか、You(あなた)メッセージか
お説教は言葉を換えれば、You(あなた)メッセージです。「何であんたこうしないの!?」
主張はI(私)メッセージになります。「私はこう思う」
「私はこう思う」は、自分の信念に責任を持つ態度です。そして、違う考えや反論を受け入れる態度があればこそのものです。
相手に圧迫感を与えず、かつ毅然とした態度を保つ自己主張とは「思ったことが言えない」「つい相手に迎合してしまう」「イヤだと言えずにつけこまれてしまう」こうしたコミュニケーションの悩みを抱えている人は少なくないでしょう。その悩[…]
ブログやSNSでの文章で判断する場合、このI(私)メッセージか、You(あなた)メッセージかが、比較的わかりやすい判断材料になります。
相手に選択の自由を認めているか
You(あなた)メッセージ「何であんたこうしないの?」は、相手に選択の自由を認めていません。
緊急度が高く、危険なことを叱る時は別です。「危ないじゃないの!」はYouメッセージですが、言葉を選んでいる余裕はありません。相手が車に轢かれそうな時、じっと黙って「相手に選ばせる」場合ではありません。
しかし時には、人は間違ったり、回り道をしなければわからないこともあります。命に関わることや、決定的に信頼を失うようなことでないこと、後から挽回できることなら、「やらせてみる」のもこちらの度量です。そうした場合、相手の選択の自由を認めないのは、実は自分が失敗を恐れている、そうした背景があります。
自分の忍耐力のなさが、お説教にすり替わっています。
同じ目の高さに立っているか
相手の選択の自由を認めるのは、相手と同じ目の高さに立っていないとできません。
上からでもなく、下からこびへつらうでもなく、立場の上下はあっても、人として同じ目の高さになっているかです。
一貫性や、相手に選択の自由を認める態度や、同じ目の高さに立つことなどは、自尊感情の中身でもあります。自尊感情が高い人ほど、主張や提案や、時には「刺し違える覚悟での」批判もしますが、「相手を下に見る」お説教はしません。
「お説教をしたがる人のはけ口」になりがちな方へ
この記事を読まれている方の中には、「お説教をしたがる人のはけ口」になってしまう人もおられるかもしれません。
素直で、聞き分けが良く、食って掛かったりあからさまに無視したりなどせず、そして少々氣の弱い「いい人」ほど「お説教をしたがる人」にとってはうれしい存在です。
相手が上司だったりすると、断りにくく、内心うんざりしながらどうしていいかわからないこともあるでしょう。
話している内容そのものは、決して間違ってなどなく、また相手は(本当は自己陶酔なのだけれど)、その人のためだと思い込んでいるので余計に厄介です。
これは小手先のテクニックでは、根本的な解決にはなりません。
自分が何を大事に生きているかを自ら発見し、それを実践し続けることしかありません。これはどうかすると年単位の努力が必要です。「何を大事に生きているか」とは、優先順位付けです。これは当たり前のようで、当たり前にはできない最たるものの一つです。
職場で上司がダラダラとした説教を始める、自分にはまだやるべき仕事が残っている場合、途中で「指示なさることはこれこれですか?」と確認し、「申し訳ありませんが、今日はまだ、やらなければならないことがあるので。また改めてお話はお伺いさせていただきます」と毅然として切り上げられるのも、優先順位付けができていないと、相手に妥協してしまいます。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ私たちの心が深く傷つくのは、大事なものやことを傷つけられた時です。「どうでもいい」とはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。価値観のない人はいません。しかし多[…]
口先だけで実践していない人と、「中々思うようにはできない自分」と向き合いつつ、実践を続ける人とでは、やがて明らかに存在感に差が付きます。
どんなに口が上手で、自己演出に長けていても、地道に実践している人には決して叶いません。
この存在感は、無意識で感じ取るものです。
この存在感の差を相手が感じ取ると、もう「口先だけのお説教」をしようとはしなくなります。
そして本当に、生き方に共感し、励ましてくれる人が自然と集まってくるようになります。彼らは決して、自己欺瞞が目的の「お取り巻き」ではありません。