愛情たっぷりに育てられた人は、概ね健全、しかし逆は常に真ではなく
弊社のクライアント様から時々受ける質問に
「親にしっかり愛されて育った人は、健全に育ち、人にも優しくできるそうですが、親から(身体的・精神的)虐待を受けて育った私は、大丈夫なのでしょうか・・・?」
があります。
世間には、「あの人は親に愛されなかったから、ひがみ根性が抜けないんだ」などと思ったり、言ったりする人もいます。
確かに、親に健全な愛情と信頼、そして承認を浴びるようにもらって育った人は、「世界は無条件に良いもの、世界が自分を歓迎してくれている」と無意識に感じ取っているでしょう。ですので、概ね健全で、人をひがんだり、意地悪をしたりすることはめったにないようです。
人間の脳は一般化をしたがりますので、「親から愛された=健全で優しい」「親から愛されなかった=不健全で意地悪」などとラベルを付けて脳の中に保存したがります。しかし現実は決して、そう単純ではありません。いわゆる火宅の家に育った人であっても、信頼関係が築け、社会に適応している人もたくさんいます。
また同じ親にそう分け隔てなく育てられたきょうだいでも、異なる生き方、異なる人格になっていく例はたくさんあります。片方は人のために無償の努力をしても、もう片方は「貰えるものは貰っておけ」の浅ましい人格になるなどです。
このような人たちは、一体どのようにして、劣悪な環境に負けることなく自分を育てることに成功したのでしょうか・・・?
客観性と主体的な努力「私は頑張ったらできる」
結論から先に言ってしまうと、弊社のクライアント様で、辛い家庭環境に育ったにも関わらず、自己教育に成功されたクライアント様に共通する特徴があります(あくまで私の経験上のことで、これが絶対条件ではありません)。
- 読書の習慣がある
- 日記やブログなど、自分の考えを言語化しまとめる習慣がある
- 「頑張ればできる」という経験がある
- 責任のある仕事を持っている、あるいは持っていた(仕事を「こなす」のではなく、主体的に取り組む)
- 友人、配偶者、恋人など、「心から信頼できる人」が少なくとも一人はいる
読書は脳の前頭連合野を鍛え、客観性や想像力、思考の柔軟性が増します。また日記やブログなどの言語化も、「自分が何を感じ考えているのか」の客観視に役立ちます。
勉強にしろスポーツにしろ「頑張ったらできた、結果を出せた」のは、それを親が否定しようとしまいと、厳然たる事実です。ご両親に精神的な圧迫を受け続けていたクライアント様で、「幼い頃、ある日突然、縄跳びの二重跳びができるようになった。前日まで縄に足が引っかかってできなかったのに」という体験を話して下さった方がおられます。大人の目から見れば、そのような小さなことで充分なのです。
仕事に主体的に取り組むのは、責任が生じますが、この責任は心の筋肉を鍛え、心の器を強くする役割があります(「言われたことをこなしているだけ」ではいつまでたっても心は鍛えられません)。
また「心から信頼できる人」の存在は、「人間はそう捨てたものではない」という暗示になり、同じく自分自身にとっても「自分はそう捨てたものではない」という暗示になります。依存ではない相互に助け合う信頼関係を築けた実感も、上記の「頑張ればできる」と同じく、誰にも否定できない自信になります。
勤勉性の獲得・「どうせ私は」OR「私は頑張ったらできる」
「私は頑張ったらできる」実感は、主に小学生の頃に体得する勤勉性が支えています。
勤勉性とは、身体的、社会的、知的技能における能力を培い、学ぶ喜びをもって困難な仕事に取組み問題を解決していくこと。一方能力において自分に失望すると劣等感を感じる。
エリク・ホーンブルーガー・エリクソンの発達理論
学校の勉強だけでなく、スポーツ、遊び、家の手伝い、子供同士の時には喧嘩も含めた関わりの中で問題解決能力を身に着けること、こうした「学ぶ喜び」「成長したい欲求」を子供の頃に経験し、大人になっても学び成長し続けるか、自分に失望し「どうせ」になってしまうかの大きな分かれ目になります。
但し、表面的な能力の有無で勤勉性を推し量ると誤ります。学校の成績が良かったとしても、「学ぶ喜び」「成長したい欲求」が培われていなければ、それは勤勉性を獲得したとは言い難いです。自分に失望するとは「どうせ私は」であり、これが依存や、責任を嫌って逃げる原因になります。親に愛されず孤独だったとしても、勤勉性を獲得していれば「学ぶ喜び」「成長したい欲求」の方が勝り、困難に際して怯まない人格になっていきます。
怒りや恨みは「その対象」に向ける・無関係な人を巻き込まない
そしてまた、これらが「良心に基づく品位」に支えられていることも、合わせて大切です。能力がなまじ高く「私はやればできる」と思っていて、パワハラ、モラハラをやりまくっている人は枚挙に暇がありません。「人の痛みを自分のように感じる」共感性と、「人としてみっともないことはしたくない」品位に支えられていなければ、結局は長い目で見れば、肝心の信頼関係を失ってしまいます。
冒頭の「あの人は親に愛されなかったから、ひがみ根性が抜けないんだ」も、現実にそういうことは起きます。これは親への怒りや恨みを、親に向けられないがために、他のやりやすい人へ転化しています。親に向けられないのは、親への恐れや、なんだかんだ言って依存しておきたいある種の打算や、「関係そのものを失うのが怖い」などがあるでしょう。
また他人への転化は、嫌がらせなどのわかりやすい例だけでなく、「世間を見返してやりたい」⇒「そのためには真っ当な努力以外のことをしてでも、『凄いですね。流石ですね』と言われたい」があります。SNSでの自慢が止められないのもその一環かもしれません。
スーザン・フォワードの「毒になる親」の中で、「親との対決」についてその必要性を述べた箇所があります。
あなたに負わされたものは、その原因となった人間に返さないかぎり、あなたはそれをつぎの人に渡してしまう、ということなのだ。
もし親に対する恐れや罪悪感や怒りをそのままにしておけば、あなたはそれを人生のパートナー(妻や夫)や自分の子供のうえに吐き出してしまうことになる可能性が非常に高いのである。
「毒になる親 一生苦しむ子供」スーザン・フォワード
対決はしてもしなくてもよい、ただ「せざるを得ない」場面がやってくることも親との対決とは、真正面から親と向き合い、これまでの有害で不健康なコントロールについてはっきりと発言し、踏みにじられた心を回復するプロセスです。この対決[…]
実は親への恐れ、怒り、悔しさを「自覚するまで」が大変です。自尊感情が低いと自分を蔑ろにされてもそのまま受け入れてしまい、そしてまた子供は親を庇うからです。「いい子」で育ってしまった人ほどそうなります。
自分の心に正直に向き合う、その覚悟がないと、心理セラピーを受けても、親への復讐の代わりに私に復讐することも起きます。あからさまな嫌がらせというより、何をどんなに提案しても、同じことを延々と繰り返し堂々巡りになります。この場合はいずれ中断することになります。その分クライアント様の品位は下がってしまうわけですから、心理セラピーはいつでも誰にでもやってよいわけではないのです。
心理セラピーを受けない場合でも、怒りや恨みを感じる自分をまずなかったことにせず、直接相手に言わなくても構わないので、紙に書きだすなどして「その対象」に向けること、そして無関係な人を巻き込まないことを心に留めて頂ければと思います。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
「欲しいもの」と「必要なもの」は異なることも
親からの無償の愛を欲しがらない子供はいません。そしてそれは、他のものでは代替えにならないでしょう。親戚に養育された人が、その親代わりになってくれた人が他の子供たちと分け隔てなく愛情を注いでくれ、そして「幸せだった。感謝している」とそれも勿論本当のことですが、やはり「親に捨てられた」寂しさは消えないと仰るのも尤もなことです。
一方で、私たちが責任ある大人として生きて行くために、必要なものは何か、セルフブレーンストーミングしてみるのも良いでしょう。
下記はほんの一例です。ご自分の場合は何だったか、少し時間を取って考えてみましょう。それがご自身の価値観です。
- 自発性・自主性
- 自ら勉強すること
- 約束を守ること
- 挑戦すること/失敗から学べること
- 自分と他人への思いやり
- 粘り強さ・忍耐力
- 現実を見据えつつ希望を失わないこと
そしてこれらは、誰かが与えてくれるものではありません。自分が獲得していくものです。親の無償の愛は、その環境づくりをし、時に励まし、共に喜び、上手くいかなかった時は「残念だったね。でも頑張ったよ」と慰め、そして道を逸れかかった時は、叱責をしてでもフィードバックをする、そうやってプロセスを支えるものです。
その支えがあった方が、子供は安心して成長できます。子供は屈託がなく元氣一杯に見えても、実は不安の中で日々成長しています。しかし身も蓋もない言い方かもしれませんが、こうした支えがなければないで成長するのも、人間の実に複雑な側面です。「こうでなければ健全に育たない」とは言いきれないのが人間の奥深さです。
私たち大人は、「欲しいもの」と「必要なもの」はしばしば異なることを経験しています。ですから折に触れて「自分は『必要なもの』を欲しがっているか」を自分に質問する、その客観性が求められます。
親に愛されなかった寂しさは消えなくても
上述したように親に愛されなかった寂しさは、他のもので埋め合わせきれません。その寂しさ、悲しみを抱えて生き、関係のない他人に撒き散らさず、また自分を攻撃して憂さ晴らししないのも、外側からは決してわからない力が要ります。その力こそが品位です。
劣悪な環境に負けてしまわず、自分を育てることに成功するとは、とどのつまりこの寂しさや悲しみ、失望を抱えて生きる力を自分が養い育てたかに行きつくのでしょう。
誰からも称賛されることはない、ただ自分の人生のためにやり抜く、その力を養い育てた人は、人目にはつかなくてもそこここに存在しているのです。