人は孤立を恐れ、孤立に弱い
親の世間体大事のために、自尊心が傷つき、「どうせ自分はこの程度」が実現してしまう、そして頑張り屋ほどその自分に怒りを感じるという悩みは絶えることがありません。
しかしそれでもなお、人は「肩身の狭い思いをしたくないから」と大多数に、即ち「世の中の人がやっていること」に迎合し、自分がどうしたいか、どう考えるのかを放棄します。それでは、自分からカオナシのロボットになってしまいます。これは自尊感情豊かなあり方とは全く正反対です。
人は孤立に弱いものです。悪質ないじめの典型は、仲間外れ、今風に言えば「ハブる」ことです。自我が未成熟な子供の頃の方が、同調圧力が強くなるのは、それだけ孤立を恐れているためでしょう。
人間は社会的動物なので、一人きりでは生きて行けません。ですから、仲間を求め、協力し合い、共感し、励まし合うことは人間ならではの生きる喜びの一つです。しかしこのことと、「世間並にしておけば安心」の安易な同調とははっきり区別を付ける必要があります。
「お子さんはまだ?」が引き起こした悲劇
今は昔と比べて、若い人が「結婚はまだ?」、結婚すれば「お子さんは?」、一人目を産めば「二人目は?」を挨拶代わりに訊かれることは減ってきたでしょう。しかしそれでもなお、「〇歳までに結婚できない人はどうのこうの」と言った、無責任な批判に悩む若い人も珍しくはありません。
30年ほど前、生まれたばかりの赤ちゃんを若い夫婦が盗んだ事件が起きました。妻は親戚たちからの、事あるごとに「お子さんはまだ?」のプレッシャーに耐えかね、ある日ぽろっと「子供ができたかも」と言ってしまいました。本当は妊娠していなかったのですが、引くに引けなくなり、ついに産院から見ず知らずの赤ちゃんを盗んでしまったのです。
素人の犯行なのですぐ足が付きました。盗まれた赤ちゃんは、その夫婦に大事にされていました。夫婦は謝罪と反省をし、また盗まれた方の親御さんもその夫婦の氣持ちがわかったのでしょう、不起訴になりました。その親御さんが良い方で良かったと、30年経った今でも私は思います。
安易な「お子さんはまだ?」がどれほど罪深いか、言っている方はその自覚がないがゆえに、尚更罪深いのです。
「世間並」を強いることはエゴでしかないと、私が強く思うきっかけの一つになった事件でした。
「信念ある生き方を自分が怠けたい」
大多数側に同調するのは、「肩身の狭い思いをしたくない」せいもあるでしょう。上述した事件を起こした妻も「肩身の狭い思いをしたくない」が動機だったかもしれません。少数派であることだけで、決まり悪く感じること自体が、本来はおかしなことです。誰かに迷惑をかけているわけでもないのにです。
「誰もあんたのことなんか氣にしちゃいないって。いつまで自意識過剰になってるの!?」と言える、「敢えて空氣を読まない」人ばかりでは世の中ありません。
しかしそれ以上に、自分が「信念のある生き方を怠けたい」になっていないかです。「出る杭は打たれる」の出る杭とは、自分の信念を貫こうとする人です。その生き方を目の当たりにすると、自分の怠惰が刺激されて「あんたが余計なことをするから、私たちが思考停止して無責任に生きて行けないじゃないの」が本音かもしれません。自分の信念を持つとは、自分の判断選択に責任を持つことに他なりません。

勿論そうは言えないので、「あの人は変わっている」と相手の人格の問題にすり替えています。2020年からのコロナ騒動に沿って言えば「アタオカの反ワク」です。疑問を呈することそのものが尊重されず、人格攻撃にすり替えられるという、大変卑怯なことを政府もメディアもこぞって行いました。日本は真の民主主義国家ではないことが、このような形で露呈しました。
こうした卑怯な足を引っ張りに折れてしまわず、乗り越えるのはどうすればいいのでしょうか?一つには「出過ぎた杭は打たれない」になることです。例えば、「NHKをぶっ壊~す」の立花孝志氏の、言動や主張には賛否両論、毀誉褒貶ありますが、存在自体は「あそこまで突き抜けてしまえると『あの人はああいう人』」「たまにはあんな人も出て来るよね」と受け入れられるようなことです。しかしこれは、彼の強烈な個性があればこそで、万人にやれることでもありません。
自分の心で「何が人として大事か」を感じ取る意義
もう一つは、「何が人として大事か」を、誰でもなく自分の心で感じ取り、それに従って生きることです。価値観のない人はいませんが、その価値観の中身がどのようなものになっているのか。「愛が大事、人が大事、思いやりが大事」と口で言うのはたやすいです。しかし愛の遂行とはどのようなものなのか、愛のつもりで反対のことをやっていないかを、自分に問うのは自分しかいません。
「アタオカの反ワク」の中傷を一蹴できた人は、自分でよく調べた人たちです。世界中の名立たる科学者、医師らが反対し、どのように危険かをネットを通じて無償で発信していました。詳細を全て理解できなかったとしても、そのことに込められた使命感、正義感を感じ取っていたのです。また、接種が先行していた海外で、死亡や障害が相次いでいることも調べ上げていました。そして何のために前代未聞のワクチン強制が起きているのかも。
そして何より、感染症を口実とした人権蹂躙自体を退ける、それを自分の生き方にした人たちです。デンマークの調査で、コロナワクチンの30%はプラセボ、つまり生理食塩水であることがわかっています。狡い権力者たちが、自分たちはプラセボを打っていたことは想像に難くありません。「プラセボを融通してもらって自分はすり抜ける」こと自体が、「人としてダメでしょう?」です。頭がおかしいのはどっちだったのかです。
コロナ騒動に限ったことではなく、「何が人として大事か」は、自分の心が発見し、養っていくものです。他人は良書やすぐれた映画などを推薦することはできますが、それらから何を感じ考え、自分のものにするかしないかはその人次第です。
「だって世間では」を言っている間は結果は出ない
心理セラピーにおいても、クライアント様が「だって世間では」を言っている間は結果は出ません。堂々巡りになります。その理由はここまで読んでいただいた方には理解できると思います。
自分の価値判断基準、即ち「自分は何を大事にして生きているのか」よりも、実体のない世間体、「大多数の方に与しておきたい寄らば大樹の陰」を優先しているからです。このこと自体が自己放棄です。自分で自分を投げ捨てておいて、人生が好転することは矛盾しています。
例えば冠婚葬祭の時に何を着て行くか、いくら包めば良いのかわからない時に、「世間一般ではどうしているのか」を調べて合わせるのは、自分も相手も恥ずかしい思いをしないためです。この相互尊重が動機であることと、「世間では」を言い訳にして、自分が選択責任を負いたくないこととは、はっきり区別を付ける必要があります。
「だって世間では」を言い訳にするのは楽ですが、その世間は何一つ、私たちの人生に責任を取ってはくれません。上記の赤ちゃんを盗んでしまった夫婦の心の傷を、安易なプレッシャーをかけた世間の人々が癒したりはしないのです。知らぬ存ぜぬを決め込むか、言い訳にならない言い訳をして逃げるかが関の山だったでしょう。コロナワクチン接種のプレッシャーをかけた政府、医師会、厚労省、インフルエンサー、そして一般の人々も同じです。
引き下がることも責任の内
心の境界線とは、自分の判断選択に基づいた「No」を言うことです。幼児的な「イヤ!」とは異なります。そしてその境界線とは「良いものは中へ、悪いものは外へ」のためにあります。そんなことは当たり前と思われるかもしれませんが、常日頃からよく勉強しておかないと、「言われるがままにマスクをし、ワクチンを打つ」のを自分が止められません。悪いものを中へ、良いものを外へになってしまいます。
今はほとんど全ての大人が、スマホやパソコンを持っている時代です。その氣になればいくらでも情報は取れます。一つの事柄に相反する情報が出てきた場合は、一旦保留し、辻褄を合わせて考えます。また「マスコミや政府がゴリ押しするものはろくでもない」くらいの心構えで丁度です。ゴリ押ししようとするにはそれなりの理由、背景があってのことです。便利さやお得で釣ろうとするのも同じです。自分が欲望や恐怖に反応的になり踊らされると、どんなインテリであろうとこの世の中のからくりがわかりません。言われるがままになりっぱなしです。
全ての戦争は認知戦です。太平洋戦争開戦前から、日本の敗戦を予見していた少数の人たちは、非国民と非難されました。日本中が焼け野原になっても、本土決戦を本氣で信じ、玉音放送を阻止しようとした陸軍の若手将校たちもいました。連日救急車が走り回っても、何の疑問も持たない80年後の令和の日本人と相似形です。そしてこの認知力は、戦争が始まってから鍛えることはできません。
最後の最後まで「世間では」「同調圧力が」「TVがこう言ってる」を言い訳にしておきたい人たちに対しては、引き下がるしかありません。正義感の強い人ほど「いい加減にしろ、あんたそんなことで良いのか」とどんなに言いたくなっても。
限界設定は、自分の能力や、責任を持てるかどうかや、時間的精神的余裕だけではありません。自己を放棄することに何の疑問も持たない相手に対して、「それ以上になる氣はない」のだと見定めることも含みます。ある一定の期間や回数、「それってどうかと思うよ」くらいは言ったり、職場であればチャレンジの機会を与えたとしてもです。
そして安請け合いをしないことも責任の取り方であるように、「それ以上になる氣はない」相手からは引き下がるのもまた責任を果たすことです。そしてエーリッヒ・フロムによれば、愛とは「責任・尊重・配慮・関心」の4条件が満たされていることです。このような責任の果たし方も、愛の一環と考えることができるでしょう。