「説明すればわかる筈!」をつい頑張ってしまうけれど
2020年からのコロナ騒動において、私も含めた、少数派ではあっても決して少数ではなかった人々が、「何とかこの出鱈目を止めなくては」と情報発信を頑張り続けました。
金融経済や国際情勢などの、基礎知識がなければわかりづらいこととは違って、コロナ詐欺は「順を追って説明すれば、小学校高学年の子供ならばわかる」ようなことだったからです。
動画を編集したり、替え歌を作ったり、データや海外の動向を集めたり、漫画で表現したり、チラシを撒いたり、デモや街宣をしたり・・・。みんな頑張りました。みんな全力を尽くしました。命を、未来の社会を守りたかった。それまで特に政治に関心がなかった層が、誰に言われたからでもなく声を挙げ続けたのは、この数十年では初めてだったかもしれません。
「説明すればわかる筈!」と頑張り続けたものの、結果的には、「最初からわかっていた人にしか、ほぼほぼ届かなかった」のが実情ではなかったでしょうか。様々な説明は、実際には「瞬時に『これはおかしい』と直観できた人」への、「やっぱりそうだったんだね」の後付けにしかならなかったかもしれません。
2025年10月にドキュメンタリー映画「ヒポクラテスの盲点」が全国で上映されました。これは画期的なことだったと思います。川田龍平さんが動画配信で「10月13日に新宿ピカデリーに見に行こうとしたが、昼間の回は一杯だった」と仰っていました。当然、接種者も多かったでしょう。最初から反対していた非接種者と異なり、接種者がわざわざ映画館へ足を運ぶには、かなりの動揺と葛藤を経てのことだっただろうと思います。
映画「ヒポクラテスの盲点」10月10日から全国上映ドキュメンタリー映画「ヒポクラテスの盲点」が、2025年10月10日から全国で上映されます。https://www.youtube.com/watch?v=nZ6[…]
このような意識の変化は起きましたが、私の体感的には、コロナ詐欺とワクチン薬害に氣づき、そして自分の問題として考えられる人の上限はもう達しただろうと思います。今後、新たに氣づける人は、恐らくもうそんなにはいない。それはメディアが報道しないからというよりも、人間の意識の構造によるものと私は考えています。
三層構造における意識の違い
下図は、人間がどのような意識の層で物事を見ているのかを現したものです。これは人間性や、学歴のような知性・教養、年齢、経験、社会的地位とは無関係です。この三層構造の理解が進むと、標題の通り「話の噛み合わなさ」が価値観や知性などとは別の領域で起こっていると腑落ちできるかもしれません。

第一層:無思考で反応的「言われたからこうする」
第一層は世の中の圧倒的多数を占めます。私の体感的には8割以上ではないかと思います。
目の前の現実にただ反応するだけです。そして責任を非常に浅く捉えます。「言われたから、皆がそうしてるからこうする」です。皆がマスクをすればマスク、接種券が届けば自動的に予約を入れる。ここに何の迷いや疑問も起こりません。雨の日に自転車に乗ってマスクをしていても「そのマスク、雨に濡れたら却って汚いし、不衛生だし、別にマスクしないで自転車に乗ってたってそれを咎める人なんかいないでしょ?」という思考が働きません。
無思考で流されやすいのが第一層の最大の特徴です。指示待ち人間が典型で、仕事でトラブルが起きても「私は言われていません」で済ませてしまう。そこまで無責任でなくても、「会社が決めたことだから」に疑問を持たずに従う、従っているという自覚すら持たない層です。
コロナ騒動を「あれは何だったんだ」とすら思わず、すっかり「過去の出来事」として処理しているかもしれません。自分や家族が無事でさえあれば、ワクチン薬害も無反応・無関心、「よその世界の出来事」になりやすいです。
時折、妻に「あなたは親や会社の言いなりじゃないの!自分ってものがないの!」と叱られた夫が、「妻に言われてセッションを申し込みました」という笑えないコントのような話があります。本人にとっては「妻の言う通りにした」ことが誠実さであり、責任を果たしたと思っています。しかし、この状態ではセッションは奏功せず、途中離脱になりやすい例の一つです。
第二層:外側の「正義」に乗る
第二層の中でも先鋭化する層は、外側から与えられた正義、秩序、制度、所謂「常識」に乗っかり、それを振りかざします。「マスク警察」など、「○○警察」になりやすいのがこの層です。自分に問うて選んだ正しさではありません。自分の不安を外側の「正義」で覆い隠し、他人に要求することで安心しようとします。ですので、矛盾が露呈すると逃げるか攻撃するかになりやすいです。
ある時「マスク警察」のおばあさんが、ノーマスクを貫いていた女性に「あなたたがマスクしなかったら飛沫が飛ぶじゃない」と言ったそうですが、その女性が「黙っていたら、飛沫は飛びませんよね?あなたが今こうして話しかけるから、飛沫が飛びますけど?」と言ったら、そのおばあさんは黙ってどこかへ行ってしまったそうです。自分の矛盾が露呈すると、もう不安になってその場にはいられなくなったのでしょう。
「アタオカの反ワク」と中傷したり、ワクチン接種のプレッシャーをかけたり、「ワクチン接種しました!」とわざわざアピールをしたのも、この「外側の正義に乗る」動機の結果と言えるでしょう。しかし、世の中の風潮が終わるとその正義はどこかへ行ってしまい、新たな次の正義に乗り換えます。自分に問うた結果ではない浅さがそこに露呈しています。
第二層の中でも良心的で穏やかな人は、そこまで攻撃的にはなりません。ワクチン薬害に「氣の毒だ」と同情はします。第一層ほど全くの無関心でもなさそうです。しかし「自分の問題ではない」と責任を外在化することにより、「攻撃はしないが、矛盾に葛藤もしない」と自分を安全な位置に置こうとする、そうした傾向があるようです。
この良心的で穏やかな第二層は、役割責任をきちんと果たす、所謂「ちゃんとしたいい人」が多いのですが、では、自分の悩みを打ち明けたいかと問われれば、「うーん、ちょっと違う・・」になる、そうイメージできるとわかりやすいかもしれません。
第二層は全体の1~2割程度だと思われます。
第三層:世界の矛盾による痛みに耐えられない
第一層・第二層は「自分に問う」ことをしないのが、第三層との最大の分岐です。「自分に問う」のがデフォルトになっているのが第三層です。ですから「え?これおかしいでしょ?」が真っ先に浮かびます。
ある若いお母さんが、暑い盛りに、小学校一年生の我が子がマスクをして下校する姿を見て「うちの子、マスクして顔真っ赤にして帰って来るんですよね~」とサラーっと言いました。その話を聴いた女性は「え?おかしいでしょ?熱中症になったらどうするの?」と大変ショックを受けたそうです。そのお母さんは、明るくて優しい人だったからこそ「え?何で?こんなに優しい人なのに!?」に余計なったそうです。
そのお母さんは、恐らく第一層だったのでしょう。
「学校からマスクするように言われた」
⇒「我が子にそうさせる」
⇒「従ったから私は無罪」
⇒「安心してしまう」
⇒「子供の苦しみが『従ったから安心』に隠れてしまう。現実から消えてしまう」
こういう構造だったのかもしれません。
第三層は、「子供が苦しそう」なのをそのままにはしておけません。「あの子がマスクで苦しんでいるから可哀そう」の同情ではなく、「あの子が苦しんでいるこの世界に自分がいるのが耐えられない」なのです。自他不二の境地、「自分以外の他人が救われなければ、自分もまた救われない」を直観してしまう。子供の痛みが自分の内側で鳴り響いてしまう。それは我が子や知り合いの子ではない、見ず知らずの子供であっても同じです。だから「何としても止めなきゃ!」に自然になる、それは自分の問題だからです。
第三層は「頑張ってノーマスクを貫く」というより、「マスクをすると自分の魂が傷つく」「マスクなんかできたものではない」が実態により近いでしょう。
「自分に問う」からこそ、葛藤懊悩が激しいのが第三層ですが、その葛藤懊悩の中身は、第三層同士でないとわからない、そうした孤独を抱えやすいです。全体の2%から、「わかってはいるけど、勇氣を出せずにめげてしまった」葛藤している予備軍まで含めて、せいぜい3%程度だろうと私は観察しています。
「従う⇔従わせる」による社会の安定という歴史
「従う⇔従わせる」の構造から抜けられないのが第一層・第二層と考えて良いでしょう。人間は文明社会を発達させてから今日に至るまで、どの民族、国、社会においても「従う⇔従わせる」の構造で発展してきました。民主制は人類の歴史においてつい最近の制度です。従うことが安心、従わせることが安心と感じる人が大多数であることにより、社会を安定させてきた、それが人類の生存戦略だったとの仮説が成り立ちます。
「そんなのおかしいでしょ!ダメじゃない!」と叫ぶ第三層が多数派だと、社会が不安定になりっぱなしで、却って人類が存続できなかったかもしれません。しかし、「従う⇔従わせる」だけでは、人間は人間らしさを失います。その歯止めとして、どの民族、どの国、いつの時代にも、極少数の第三層が現れたのではと推測しています。
それでもなお、平時はそれで社会が安定したとしても、危機になるとこの「従う⇔従わせる」の構造が、誤った方向へ社会全体を暴走させる。それを何度も繰り返したのが人間の歴史であり、今もなお本質的には終わってはいないコロナ騒動なのでしょう。
「従う=責任を果たす=安心」という牢獄
「私は従っただけだ」「そのことで生じた問題は、命じた人間の責任だ」「だから私には関係がない」「何で私に言ってくるんだ」が、第一層・第二層の言い分なのかもしれません。しかしそれをされれば、傷ついた人は益々孤立し、追い詰められます。こうした態度が道義的にやはり良いとは言えないこと以上に、本人を心理的牢獄に閉じ込めてしまいます。
この「従う=責任を果たす=安心」という構造は、本人にとっては、「正しい」「安心」「安全」「社会的に褒められる」「役割を果たしている」と感じられるため、抜け出す必要性を感じません。だからこそ強固で、”洗脳”というよりも自分で鍵を閉めてしまう牢獄になります。
そして、牢獄の中が心地よいとすら感じます。 なぜ心地よいのか、理由はとてもシンプルで、「自分に問わなくていい」「影(シャドー)を見なくていい」「責任を外側に置ける」「多数に合わせれば安心」「失敗しても『指示に従っただけ』で済む」つまり、内的責任を持たなくていい世界だから。これは“楽”なのです。この楽さに甘んじれば、失敗や挫折はその時限りのくやしさや、せいぜい経験則にはなっても、内面の成長には結び付きません。
「従う=責任を果たす=安心」の構造は、人を“成熟から遠ざける牢獄”とも言えるでしょう。葛藤懊悩がデフォルトの第三層とは分岐が益々激しくなり、益々「話が噛み合わなくなる」。それが今、目に見えない精神の世界で起きていることのように思います。
そして第一層は「従わされていることの自覚すらない」、第二層は「従うことを“自分の判断”と錯覚している」このような違いがあります。第三層も勿論社会のルールに従いますが、それが自分や他人の尊厳や魂を傷つけるのなら従えない。「その世界に自分がいることが耐えられない」という内的責任から動きます。
「歩み寄り不可能」を受け入れるのは第三層の最大の試練
ここまで読まれて「確かにそうしたことが起きていたかも」と薄々とでも実感されているのなら、貴方は第三層の可能性が高いです。そしてもしかすると、「説明すればわかる筈!」を様々な手段で頑張った人かもしれません。
コロナワクチンがどのようなものか、何故、何の意図でこのようなワクチン接種圧力を国を挙げてかけたのか、調べ上げていた人は「とても看過していられない」だったでしょう。そして説得しようとした相手は、愛する家族、大切な友人、お世話になった人。彼らもそんなにバカじゃない、経験豊富で視野も広いはず、だから何とか止めようとした。しかし伝わらなかった。この無念は真剣に抗った人でないとわからないでしょう。
そして見出しの通り、「歩み寄り不可能」を受け入れるのは、「命と尊厳を守りたい」第三層の最大の試練と言って良いと思います。層が違うと、そこで起きている構造、即ち事実の法則が異なるので、同じ言葉を話していても伝わらなくなるのです。
世の大多数の人々は「何事もなかったかのように」日常に戻っていく。コロナワクチンは元々が未完成品の上に粗製乱造、輸送保管の取り扱いも杜撰、ロットによるばらつきが大きい。これらのロシアンルーレットを潜り抜けているから、今は無事に済んでいるかのように見える。しかし、2025年にも「死ぬような年齢じゃない人」の急死が相次ぎました。
今もなお薬害や、過剰な感染対策のために窮地に立たされた人の苦しみは置き去りにされています。この虚しさを訴えようもありません。しかしそれでも、残酷なまでに人生は続きます。この失望と無念をどう整理し、抱え直すか。今現時点での私の探求が、同じような感慨を抱いている方への何かのヒントになれば幸いです。
