映画「ヒポクラテスの盲点」10月10日から全国上映
ドキュメンタリー映画「ヒポクラテスの盲点」が、2025年10月10日から全国で上映されます。
福島名誉教授が厚労省で「こんなものは氷山の一角だ」と訴えたのは2022年11月末でした。あれから3年近くなり、私には「遂にここまで来た」と感慨深いです。
「mRNAワクチンの罪と罰 有害な遺伝子製剤の即時中止を求める理由」
そして時を同じくして、mRNAワクチン中止を求める国民連合著、 村上康文東京理科大名誉教授編集の「mRNAワクチンの罪と罰 有害な遺伝子製剤の即時中止を求める理由」が出版されました。発売日前に第二版の増刷が決定し、関心の高さが伺えます。
Amazonレビューより
【ワクチンを推進した専門家とメディアは厳しく断罪されるべきである】
この『罪と罰』というタイトルは、実に正鵠を射ていると思う。
新型コロナワクチン接種を推進してきた連中、すなわち″製薬企業から手厚い研究費をもらっている専門家″、厚労省、政府、そしてそのお先棒を担いできた全てのメディアは、本書の内容に反論すべきだろう。
もし反論できないのなら、すぐさま過ちを認めて真実を伝え、そののち厳しく断罪されるべきだ。危険性を知っていて、または気づいていながら看過・推進したとなれば、罪はさらに重い。万死に値する。
罪を負ったものは相応に罰されるべきだ。その仕組みがなければ、弱者だけが命と幸福を失う。
本書は、mRNAワクチンが、「原理的なレベル=分子生物学的な設計思想」、「製造技術の限界=工業製品としての精度や安定性」の両面から成立しえないことを、極めて論理的に証明している。対談形式が主体だが、免疫学や分子生物学の最先端とも言うべきレベルの議論を、これほど平易に示した本が他にあるだろうか?
mRNAワクチンが、数十年前から構想されていたにもかかわらず、なぜただの一度も作成に成功しなかったのかがよくわかる。それは間違っているから成功しなかったのだし、作られるべきではなかったのだ。
①ワクチンを細胞に取り込ませるための容器(脂質ナノ粒子)自体が猛毒であること
②抗体を作らせる抗原として選んだスパイクタンパクそのものも猛毒であること
③mRNAを体内で壊れにくくするための加工によって、逆に体内で持続的に猛毒を作り続ける仕組みになったこと
④その過程で、ワクチンにmRNAだけでなく、分解できなかったDNAが必然的に許容限度を超えて混入してしまったこと
⑤(偶然かどうか不明だが、ファイザー製には)ガンの発生を誘発するプロモーター遺伝子のDNAも混入していること
⑥自分の細胞を感染させることは、自分自身を排除されるべき「外敵」にすること。免疫は外敵を排除・攻撃するのだから、自分に自分を殺させる仕組みを作ったことになる。これを自己免疫疾患と言う
⑦免疫によって「外敵を殺す正しい免疫反応」が機能すれば、自分が死ぬ。免疫がそのことに気づくと、「免疫抑制」が始まり、それはガンを含めたすべての疾患を強力に誘発してしまう本書は、mRNAワクチンという「殺人的な遺伝子製剤」が、どうして突然緊急承認されたのかというグローバルな政治的側面にこそ深く踏み込んではいないが、前例のない人類史上最悪の時限的なジェノサイド計画について、分子生物学と薬学、臨床医学の現場の立場から明確に示した本と言えるだろう。
やはり、自然発生的なパンデミックではなく、意図的に計画されたプランデミックだったとしか考えられないというのが、ゲノムレベルでの解析を終えた免疫学者たちの意見だ。
そして現在、アメリカからそのリアリズムは広がりつつある。どこまで真の病根を追えるかはわからないが。
免疫学のトップレベルの研究者であっても、マウスや小動物による研究だけをしている人は、ヒトを含めた一部の霊長類にしか現れないIgG4という免疫抑制抗体のことは全く知らないという指摘には驚いた。
専門性が高まれば高まるほど、「人間」や「命」が見えなくなる。「人間のための科学を取り戻さなくてはいけない」という著者たちの声に深く共感する。
そして「自分が動けば世界を変えられる」との声に、大いなる勇気をもらった。
一人でも多くの医師や医療関係者、ワクチンを勧める立場にある人に本書を読んでもらいたい。
事実を知り、自分や家族、子どもたちのために、日本と世界の未来のためにどう行動すべきか、自分で判断してもらいたいと思う。mRNAワクチンを放置すれば、孫の世代くらいに人類はいなくなってしまうだろう。
「情報統制されている」この一事ですべてを悟れないと生き延びられない
これらの情報は、TVや新聞の既存メディアだけに情報源を頼っている人には届きません。即ち、情報統制されています。
「情報統制されている」とは、私たちの自由な判断選択を侵されているということです。つまり自由と尊厳を奪われる。人間ではなく、家畜にされるということです。これを直観でわからなければなりません。人から説明されてわかるようでは遅いのです。
自分が選択責任を負いたくない、即ち「だって」で生きていたい、結果は誰でもなく自分しか負えないのだということから眼をそらしておきたい人は、一発でやられてしまいます。それまでの生きてきた姿勢を問われた、正に最後の審判でした。
盲従と従順は全くの別物です。盲従とは、「自分が選んだことなのだ」と思いたくない態度の現れです。何かを教わる際に、「最初はともかく言われた通りにやってみる。やりながら出てきた疑問はその都度質問する」のは従順です。イエスマンになるのが盲従、自分のスキルを育てるために、謙虚に教わるのが従順と区別をしても良いでしょう。
ところでメディアの嘘とは、「事実と違うことを言う」以上に、「肝心なことは知らせない」です。それは何者かが意図をもってやっています。それは何のため?行きつく先はどこ?その疑問を持たなければ、「ワクチンは危ないから打つな」と言っても頭の中に入りません。
ネット検索で情報をかき集めれば情強(?)だというわけではないのです。
くどくど説明されなくても、直観ですべてを悟れる。次の瞬間から「こっちだ」とわかって死に物狂いで走り出す。それには自分をごまかしては、直観は働きません。自分に嘘をつきながら、本質をつかみ取るのは矛盾しています。即ち言行一致していないと、心の力がつかず、ここぞと言う時に踏ん張れず、「No」が言えなくなります。
心理的防衛の中でも、最も原始的で強力な防衛は「否認」です。事実を認めない。要はごまかしです。無関心や無責任も否認がその根幹にあります。つまり、否認をしている限り、真人間になれません。人として成熟できず、自分から家畜になります。どんなに社会的地位や年収があり、偉そうに立派そうにしていても関係ありません。裏から言えば、人間でありたければ言行一致することです。
自我という「心のダム」様々な心理的な問題は、自我という「心のダム」が未熟で脆く、弱いか、大きくて強く、しなやかで成熟しているかに帰結します。この「心のダム」を様々なストレスから守ろうとして、ほぼ無意識的に行うのが心理的防衛[…]
「何もかも知っているのに、マスクをして出歩く。保身と体裁のために未だマスクを外さない」では、目先の自分が傷つかない代わりに、「死に物狂いで走り出す」直観が働かなくなる一方です。美味しいとこどりは本当はありません。そしてそれを、他人はどうにもすることができないのです。