どんなに努力しても自分を信じ切れないのは
特に人よりも能力が劣っているわけではなく、真面目に努力しているのに、どこか自分を信じ切れず、土壇場で怯んでしまったり、困難から逃げ出してしまって結果人からの信頼を失ったり、自己嫌悪に陥ったり。或いは人から「あなたそのままじゃ勿体ないよ」と言われ、自分でも薄々そう思っているのに「私はこんなもの、この程度で良い」と自分に言い聞かせていたり。それはもしかすると「親より勝ってはいけない」の嫉妬による洗脳のためかもしれません。
子供が成人し、中年になっても「自分の方が偉くないと氣が済まない」親、子供が自分とは違う意見を言うと「それってどういうこと?」と尋ねて理解しようと代わりに、自分の方こそが正しいと言い負かさずにはいられなかったり、或いは端から無視したり。また高圧的なだけでなく、ベタベタと構い過ぎて「あなたはお母さんがいなければ何もできない」状態に留め置こうとしたり。
「子供である自分は親よりも勝ってはいけない。それは親への裏切り、反逆である」「子供はいくつになろうと、親よりも無力で、小さな存在であり続けるのがデフォルト」・・・「そんな馬鹿な。あり得ない。考えられない」という反応が湧き上がってきたら、それは子供である貴方が「親を超えて成長すること」を、親御さんが心から喜び、望んでおられたのでしょう。それはとても素晴らしく、またどこの家庭でも当たり前に実現していることではありません。
「・・・ひょっとしたら、心の奥底で今でもそう思っているかも。少なくとも子供の頃は、そう思わされていた」のなら、譬え向き合うのは苦しくても、その氣持ちに正直になり洗脳を解く、少なくともそのプロセスを歩もうとすることは可能です。
「私の世間体は満足させて欲しいが、私をしのぐことは許さない」
親に限ったことではありませんが、常に人と比べて自分の方が勝っていないと氣が済まない、その場その場でマウントを取り、自分が一番になりたがる、簡単に言えば威張りたがる人は、本心は自信がなく、心が落ち着くことがありません。
「皆のために」ボスキャラを「演じて見せて」その場を笑わせたりとか、立場上の役割でリーダーシップを発揮し、堂々と振舞うのとは異なり、「他人は自分より勝ってはいけない」の人は「周囲の人は自分のために存在している」という世界観になっています。そしてその世界観による態度振る舞いが、その場にいる人を疲れさせたり、内心うんざりさせたり、仕方なくやり過ごさせたりします。その反対に「皆のために」の人は、自分にその必要がない場面では意外と無口だったり、他の人にその役割を譲ったりが自然にできます。
ところで虚栄心とはその字のごとく、「中身は虚しいからこそ見栄を張る」心のあり方です。ですので、「子供は親である自分より勝ってはいけない」の親は、世間体を氣にしていることが大変多いです。そのため、子供の学校の成績には拘泥し、塾に通わせたり、学生の間は「もっと頑張れ、あんたはやればできる」などと言ってお尻を叩きます。子供はその言葉だけを聞くと「親は自分を応援してくれている(筈だ)」と受け取りますが、親の本音は「私の世間体は満足させて欲しいが、私をしのぐことは許さない」なので、非常に混乱します。
ダブルバインド、二重拘束と呼ばれるもので、これをされると子供は「頑張っても頑張っても、自分は何か不足している。自信が持てない」と感じたり、敏い子供は親を信用しなくなったり、或いはもっと知恵が廻る子供は「親に嫌がらせをされない程度に世間体を満足させるが、努力という面倒なことはせず親に負けておいて、家庭のバランスを取るのが自分も楽」を学習してしまいます。
いずれにせよ健全な自立心を阻害し、自尊感情を損なう一方になります。
子供に対する親の嫉妬はわかりづらい
他人の嫉妬はわかりやすくても、子供に対する親の嫉妬は非常にわかりにくいです。まず親自身に自覚がありません。どんな心ある親でも、子育ての最中は「まだ判断力が未成熟な子供を、正しく導く義務と責任」を負うがために、「自分は子供よりも正しく判断できている」という前提に立たざるを得ません。ですので、無意識の内に「自分の自信のなさ」を子供に感じ取らせまいとします。親の方がオロオロしていては、子供も不安になりますので、これはある意味当然のことです。
そして子供の方は、無条件に親を信じ、愛そうとするので「親が自分に嫉妬している」ことを、仮に薄々感づいていたとしても、認めまいとする心理が働きます。「親は自分を無償の愛で守ってくれる」願いが打ち砕かれてしまうからです。所謂いい子で育った子供、真面目で心優しい子供ほどそうなるでしょう。
お笑いタレントで小説家の又吉直樹が、あるインタビューで「『親も子供にやきもち焼くねんな』と子供の頃思った」と語ったそうですが、やはり後年芥川賞を受賞するだけあって、並々ならぬ感受性があればこそです。しかしごく普通の子供は「それを認めるのが怖い」ので、本能的に見て見ぬふりをするものでしょう。
しかしその見て見ぬふりは、いつまでも自分を守ってくれるわけではありません。
「親より勝ってはいけない」の洗脳を解かない限り、自分のポテンシャルを存分に発揮し、人生を肯定して生きることは難しくなります。困難に際して勇氣を出せず、結果的に自己保身に走り、思いやりのない行動になりかねません。どんなに氣持ちが優しくても、勇氣のない愛、思いやりは本物ではなく、愛の遂行のためにはただの善意の人では全く足りないのです。
エクササイズ「大門未知子が父/母の娘だったら」
「自分の親が『子供は自分より勝ってはいけない』だったのか」は、親に尋ねても正直に答える筈はありません。もしその答えに迷うのなら、以下のエクササイズに取り組んでみましょう。
「自分の姉妹が『ドクターX』の大門未知子だったら、自分の親はどう反応するか」を想像してみます。大門未知子は一つの例で、要は「有能で自信満々で、容姿も非の打ち所がない」人を仮定します。
2021年10月14日(木)スタート!【毎週木曜】よる9時放送!どんな困難の中でも「私、失敗しないので」『ドクターX』誕…
もし「子供は自分より勝ってはいけない」であれば、以下のような反応が想像できます。
- 存在自体、或いは活躍を無視する。なかったことにする。色々と理由をつけて、実家に近寄らせないようにする。(現実を受け入れたくない)
- 些細な弱点を探し出して、あげつらう。特に何もなくても「調子に乗るんじゃない」「世の中にはあんたよりも凄い人がいる」などと言う。(マウント取り)
- 逆に媚びへつらって、機嫌を取ろうとする。(勝った負けたの世界観になっているので、「白旗を挙げて降伏した方が自分が反撃されない」という計算)
次に「子供が親を超えた存在になること」を喜ぶ親なら、どう振舞うかを想像してみます。
- 面と向かって言うのは照れくさくても「お父さん(お母さん)があなたの活躍を喜んでいたわよ」などと間接的に伝える。
- 他人から「お宅の未知子ちゃん、凄いわね、大活躍ね」と言われた際に「お陰様で、皆さまのお役に立てているようで冥利に尽きます。親孝行な自慢の娘です」などと答える。
- 「皆さまのお役に立てるよう、益々精進なさい」と信頼を込めた励ましを言う。
自分のことだと人は中々わからないものです。ですので、敢えて「極端な例」を仮定して想像すると、自分の親がどちら寄りかがわかりやすいかと思います。
大門未知子ではピンと来ない、やりづらい場合は、「この人凄いなあ。心ある親御さんなら自慢に思うだろうな」と思える人を、芸能人でもスポーツ選手でも歴史上の人物でも、実際の知り合いでも架空の人でも良いので仮定してやってみて頂ければと思います。ご自分と同性で、近い年代の人の方がわかりやすいでしょう。
「『親よりも無力な』自己像」を上書きする
「親より勝ってはいけない」と洗脳されると、実際の自分よりも無力な自己像になって当然です。潜在意識に刷り込まれたイメージを人は実現しようとするので、冒頭に書いた通り「努力しているにも関わらず、土壇場で自分を信じ切れず、能力を発揮できない」「最初から『自分はこの程度』と諦めてしまう」が起きてしまいます。
ですので、不要かつ有害な洗脳をされていた、と氣づくだけでは足りません。「親よりも無力だ」と歪んでしまった自己像を、本来の正しい自己像に上書きする必要があります。
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「本当の自信がある人」の生き方・態度から学ぶ
まず、「空威張りしてマウントを取りたがる、本当は自信がなくビクビクしている人」ではなく、「本当に自信がある人」とはどのような存在かを、自分の感性と知性を磨いてキャッチし、学んでいきます。
ここで大切なのは、例えば「皆を楽しませるために目立って、結果自分も楽しむ」エンターテイナーや、「堂々と振舞うことが必要とされている場面、立場」とはまず分けて考えることです。上述した通り、これらは「皆のため」に取っている態度で、自分の虚栄心を満たしたいがためではありません。
また「目立とうとはしていないのに、自ずから目立つ」人とも分けて考えます。本当に自信がある人は、自分から目立とうとはしませんが、その存在感が「自然と人目を引く」ことはあります。「人よりも勝っていなくてはならない」と汲々としている人と、「自ずから人目を引く」人との佇まいの差は、感性で受け取るしかありませんが、その差がわかると「勝ってなくてはならない」人に、自分がビクビクしたり、圧迫感を感じることが減ってくるでしょう。
そして本当に優れた態度ほど目立ちません。
「あなたもあたくしもテニスが好きで 青春の情熱をテニス一筋にかけてきました
でも緑川さん・・あのすばらしい宗方コーチの愛弟子といえるのは 結局岡ひろみただ一人だったと思いませんか」
「ええ・・その通りです!」
「エースをねらえ!」山本鈴美香
物語の最終盤、お蝶夫人(竜崎麗香)はお蘭(緑川蘭子)にこう語りかけます。
このような態度は、力のない人には決して取れません。
親の「自分より勝ってはいけない」洗脳に怒り、嫌悪したとしても、自分がその反対の道筋とは何かを真剣に考えようとはせず、安易な方にただ流されていれば、結局は親と同じ道を歩んでしまいます。「本当に自信がある人」の態度・境地から学び、自分は今すぐには同じようにはなれないけれども、一日一日「そちらに向かって」歩んでいく、少なくともその心がけを持って、「本当の自信がある自分像」を自分に刷り込んでいくことができます。
「自分を育てたのは自分」の自己承認
「自分より勝ってはいけない」の洗脳をされるとは、親に自信や自尊心を事あるごとに打ち砕かれることでもあります。しかしそれでもなお、自分が培ってきた多くのものがある筈です。素直で人を疑わない子供ほど、「親が自分に嫉妬している」とは露ほども疑わなかったでしょう。だからこそ洗脳が続いてしまったわけですが、その反面、心ある賢い諸先輩方から様々なことを教えられ、励まされ、可愛がられた過去もあったのではないでしょうか。そしてそれらを受け取り、学んだのは他ならぬ自分自身です。
直接的な出会いではなくとも、読書や動画視聴などで「優れた人の考え・態度」を学ぶことはできますし、どんな親であろうとそれを止めることはできません。
私たちの人生はつまるところ、瞬間瞬間の判断選択の積み重ねです。そしてこの判断力は、自分しか磨けません。いつまでもメディアのでたらめぶりに氣づかず、TV洗脳されっぱなしで脳を乗っ取られているのは、ほぼ全員スマホやパソコンを持ち、海外からの情報も機械翻訳で読める昨今、大人であればやはり自分自身の責任です。
「親よりも勝ってはいけない」の無言のメッセージに全て屈してしまったわけではない、少なくとも判断力を磨こうとしたその自負はあると自己承認できると、「『親よりも無力な』自己像」を上書きできるでしょう。こうしたこともまた、自分が意識して取り組まないと人は中々やりません。
このような自己承認は、上記のお蝶夫人のような「謙虚で慎みある態度」の下支えになります。それ以上誰かに認めて欲しい、ちやほやされたい、「凄いですね」と言われたいとは思わなくなるからです。
自分が納得できる生き方の目標
親の「自分より勝ってはいけない」の中身は、社会的地位だったり、年収だったり、家庭の幸福だったりするでしょう。しかし本当のところは、子供である自分にはわかりませんし、わかる必要もありません。
大事なことは、親や他人と競い比べるのではなく、自分自身が心から納得できる生き方とはどのようなものかを考えることです。それが「自分だけの目標」です。健康であること、困窮しない程度には収入があること、やりがいのある仕事、共感しあえる仲間、こうしたことは誰でもすぐに思い当たるでしょう。更にそれを超えて、「人生は生きるに値する」と言いきれる生き方とはどのようなものか、それは自分の心だけが見つけられるものです。そしてその探求心は一生養い続けるものでしょう。
「自分が納得した生き方ができた」のなら、少なくともその道筋を歩もうとした自負を持てれば、その時すでに「親より勝ってはいけない」の洗脳が如何に馬鹿らしく虚しいものであったか、そして子供の自分にも、親自身の呪縛を「解いてあげる」ことはできないのだと思い当たるでしょう。これもまた、分離・自立の一つの形態なのです。