「ネガティブなことに意識を向けない」が「臭い物に蓋をする」になっていないか
スピリチュアル系の人が時々言う「ネガティブなことに意識を向けるのは良くない」「ネガティブなことに意識を向けるとそれが実現する」には、解釈における注意が必要です。
本来の意図は「取り越し苦労ばかりしていては気が滅入るだけ。何の解決にもならない」とか、「怒りや恨みを客観視し、整理するのではなく、悲劇のヒロインになりっぱなしが良くない」などの当然のことであっても、受け取る方が後述する誤った楽観視や、「怒りや恨みを感じる私は心が狭い」になってしまっていれば、本末転倒です。これらが誤ったポジティブ教になってしまいかねません。
ポジティブでもネガティブでも、反応自体に良いも悪いもありません。その中身「何に対して、どのように反応しているか」が大切です。自分のエゴが通らなくて拗ねているのか、受け入れがたい人間のおぞましさ、浅ましさを目の当たりにしてショックを受けているのか、その中身を検証するのが客観視であり、自分と向き合うことです。人は悲しみを知らなければ真の思いやりを育めません。
単なる現実逃避の「ネガティブなものに意識を向けない」は、「考えたくもない恐ろしいことが存在している」という前提になっています。ですから、結果的に「臭い物に蓋をする」になり、その臭い物は取り除かれない限りずっと存在し続けます。
この態度が善人の無関心を生みます。悪を企てる者はこの善人の無関心を最大限利用します。つまり、無関心な善人は悪の共犯者であり、自覚がないのでいつまででも続いてしまうのです。この善人の無関心は、誤ったポジティブ教によってももたらされます。
勿論「もし〇〇だったらどうしよう」ばかり考えるのは、何の解決にもなりません。「もし今月の家賃が払えなかったらどうしよう」と100万回考えたところで、家賃を払えるようにはなりません。
その前に「このまま出費が重なると、家賃が払えなくなるかも」と、怖くても予測し、「どうやったら家賃を払えるだろう」を考えるのが、ネガティブな事柄に真正面から向き合う建設的な態度です。
どんどん残高が減っていく通帳を見て見ぬふりをし、「ネガティブなことを考えると実現しちゃうから」と何もしないのは、完全に誤った楽観視です。
家賃のような日常的な例なら納得しやすいのですが、例えばコロナ騒動の真の目的「グレートリセット」がどのようなものか、誰がどんな発言をしているのか、そしてまた、日本においても着々と進められようとしている現状については、「陰謀論」とレッテル貼りをし、思考停止してしまいがちです。
人は恐怖に弱く、またいい子で育った人ほど「私の周りはみんないい人」と思っておきたいがために、この世の悪を瞬間的に見て見ぬふりをして、意識の外に追いやろうとします。これが「臭い物に蓋をする」ということです。いわゆる平和ボケは「臭い物に蓋」の言い換えです。
責任ある社会人である私たちは、「臭い物に蓋」をしていては、自分達も生き延びられず、また子孫に健全な社会を残せません。そのためにこそ、不安を見て見ぬふりをしない、不安の耐性を高める習慣が必須になります。
不安を消すのではなく、耐性を高める不安を感じやすい人ほど、「不安を感じたくない、不安を消したい」と望みがちです。もっともな心情ではありますが、現実には不可能です。何故なら、不安は恐れから生じ、恐れは私たち人間が生き延びるた[…]
蓋をされていた本音とは
ところで、心理セラピーで行っていることは、クライアント様の日常のもやもやに向き合い、掘り下げることを通じて、クライアント様が気づきを得ていくことでもあります。その気づきは時として、「心の奥底ではわかっていたけれど、認めまいとしていた本音」のことがあります。
例えば、「本当は親を恨んでいた」「子供の頃、親に巧妙に嫌がらせをされていた。薄々気づいていたが『そんな筈はない』と認めまいとしていた」「元恋人を本当は大して好きではなかった。なのに『これを逃したら後はない』と執着してしまった」など。
これらはいわゆるネガティブな事柄でしょう。だからこそ人は蓋をして、認めまいとします。「ほれぼれとする自分でないと許してやらない」のナルシシズム、また特に「良い子でいなくてはならない」が強いとえてしてそうなりがちです。
しかし不思議なことに、その本音を認め、気づくと何よりも自分が解放されます。臭い物に蓋という偽のポジティブが、実は自分を縛っていたことに気づきます。ただこれも、いつでもできるわけではなく、まずは日常の「ネガティブな感情を受け止め、否定しない」習慣があってこそです。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
この認めまいとしていた本音に気づき、受け入れ、そのこと自体が自分を解放する、その経験を経て「等身大の、あるがままの自分で良い」と実感できるようになります。自分に正直に生きる、とはこうしたプロセスを経ることであって、わがまま放題をすることではありません。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
ごく普通の人の「認めたくない本音」は、例に挙げたような、他人が聞けば「世の中そういうこともあるだろうね」と思う程度のことです。そう悪魔的なことではありません。しかし、本人にとっては受け入れがたく感じている、そうした類のことです。
そして勇気を出して認めることができると、「何だ、そうだったのか」と自分も納得できる、即ち「幽霊の正体見たり枯れ尾花」です。勇気には「認めたくなかった本音を認める」もあります。そしてそれを積み重ねると、自尊感情の最大の妨げであるナルシシズムが徐々に打ち砕かれていきます。
ところで、不安が強い人ほど目的語が欠けています。「漠然とした不安」という言い回しの通り、何を不安視しているのか、不安の中身を具体化していない傾向があります。感情そのものには目的語がついていません。何となく不安、何だかわからないけれどイライラする、など。
目的語を自分で補うためには、「何が不安なのか」「何にイライラしているのか」と自分に問い、また思い通りに成らないから不安になったり、イライラするわけですから、「私は何を期待しているのだろう」と自分の期待を自分に質問する習慣が必要です。いずれも他人にはわかる筈もありません。
この頭の体操を怠ると、「枯れ尾花を幽霊だと思い込む」が起き、不安を解消したくて何かに依存したり、ただ周りにイライラをまき散らしたりしてしまいます。
ネガティブな感情にきちんと向き合い、一つ一つ処理しないと、結果的に更にネガティブな態度を取ってしまいます。そしてそれに自分では気づきません。ただ「ネガティブなことを考えてはいけない」「ポジティブであるべき」の、安易な形だけの「ポジティブ教」はこの意味においても危険なのです。
船が沈没しかかっているのに船底に閉じこもっている人にならないこと
「ネガティブなことに意識を向けない」は、野生動物が決してやらない「怖くなるから考えない」に下手をすればなりかねません。今日一日はそれでやり過ごせていても、将来的な危険を回避できず、結果的に無責任な態度になってしまいます。
つまりそれは、「船が沈没しかかっているのに船底に閉じこもったまま、何が起きたかもわからずに溺れ死ぬ」ということです。これは企業の倒産などでよく起きています。リストラをすれば、意欲と能力のある人から辞めていきます。一時的な人件費の抑制にはなっても、上も下も「しがみついてれば何とかなる」と考える人材ばかりでは、会社が立ち直るわけもありません。
リストラ以前に「いつ放り出されても、自分の力で食べていけるようになる」心構えで、日々の仕事に取り組んでいたかどうかが問われます。それは「譬え船が沈んでも、自力で泳ぎ、生き残る」その自分になっておくことです。その心構えで会社の仕事をしているのと、言われるがままこなすだけでは結果が異なります。
会社がリストラを始めた時、仮に自分はリストラ対象にならなかったにせよ、「この船は危ない」と直視できないと、「船が沈没しかかっているのに船底に閉じこもっている人」になってしまいます。船底に閉じこもっていたら、船が今どうなっているのかわかりようもありません。
これは会社のリストラだけでなく、家庭や個人の人間関係、社会全体のことも同じです。
孫子の兵法「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」は、徹底した現実主義の上に立っています。怖いから、面倒だからと、自分が考えたくないことは考えないでは、「敵を知らず己も知らない」になってしまいます。
日々の勉強とは自分と自分の大事な人たち、そして社会全体が、健全に生き延びるためにし続けるものです。単に出世がしたいからとか、楽して得して、ちやほやされるためにするものではありません。
そしてどんな優れた人の見解でも、人間である以上限界があります。誰か一人の意見を鵜呑みにするのではなく、いくつか突き合わせて整合性を取る、そして最も大事なことは「現実と照らし合わせる」ことです。どんな偉い先生が言っていることであっても、現実の重みにはかないません。これがPDCAサイクルにおけるC、チェックであり、検証です。
「誰か偉い人に判断してもらって、自分は後からついていく」「みんなが、世間が、会社が、誰それがそう言ってる、そうしているから〇〇する」といった依存的な態度では、自分でPDCAサイクルを回せず、いつまでたっても生きた知恵を自分のものにできません。
知識ではなく知恵を得るためのPDCAサイクルPDCAサイクル、昔から言われていますので、多くの方が一度は耳にしたことがあるでしょう。PDCAサイクルは、「わかったつもりで、実践しきれていない」最たるものかもしれませ[…]
結果的に建設的であることと「ポジティブであるべき」は異なる
見たくない、怖い現実を突き付けられると、足がすくみ、一瞬であれ逃げ出したくなる気持ちがわいてくるのも、人間である以上無理のないことです。あまりにショックが大きいと、寝込んでしまうことも起きます。そうした時、ただ無闇に「ポジティブであるべき」だと自分の感情を否定し、自分を追い詰めてしまいます。
繰り返しますが、人間は恐怖に弱いものです。悪い連中は人間のこの特性を知り抜き、恐怖と、そのバリエーションである罪悪感や孤独感を刺激して人心を操作しようとします。これが今のコロナ騒動や猿痘煽りです。そして世の中をこうした悪い連中が牛耳っていることを「陰謀論」とレッテル貼りして考えさせまいとするのも、人間が「怖いことは考えたくない」心の隙を突いています。
罪悪感を刺激して人心を操作するのは、親や教師が子供に対してさえ日常的に行われています。
人間は恐怖に弱い、その前提に立ちつつ、「何が一番大事か」「これが続いたらどうなるのか」「どうしたいのか、どうするのか」をその都度自分に問い、怖くても甲板に上がって船が今どうなってるのかを知ろうとする、当たり前のことのようですが、当たり前になっていません。
自尊感情の中身の一つに問題解決能力があります。この問題解決能力は、実践を通じてのみ高まります。そして恐怖を否定はしないけれど、結果的に建設的になる、そのことと最初から「ポジティブであるべき」「ネガティブなことに意識を向けない」は全く異なる態度なのです。