減点主義より頭を使う加点主義・「ここは外さない」の見極め

人は放っておくと減点主義になる理由

人は誰でも、放っておくと減点主義になります。それは自分に厳しいようで、「こうでなければ、私は満足できない」になっているためです。どんなに知性が高い人であっても、寧ろ勉強熱心な人ほど意外と陥りやすいかもしれません。

理想の状態が実現しなければ満足しない、しかしその理想はあくまで「今の自分の理想」に過ぎないことが、どこかに吹っ飛んでいます。「今の自分の理想」が百点満点で、それから減点していく考え方です。

そのことと、時として目をそらせておきたい問題をなかったことにしない、無関心にならないことは別物です。

自分にとっての理想が実現すれば、それは楽ですし、安心できます。人は無意識の内に、楽で、快適で、安心であることを求めます。それが正しく、重要であるかの検証は中々しません。

しかし万人が満足できる理想郷などどこにもありません。すぐに「総論賛成、各論反対」になります。ですから、家庭や個人や、職場にしろ、社会全体にしろ、「ここさえ外さなければ、まあ良しとする。その後は優先順位を付けて積み上げて行く」のが、現実解になります。そうでなければ「私に良きにはからえ」の文句だけを言っている人に、すぐになってしまいます。

コロナ騒動・ワクチン薬害は「この程度で済んでよかった」だった

ところで以前の記事にも書きましたが、2020年からのコロナ騒動、コロナワクチン薬害は、そもそもが2016年のアメリカ大統領選挙で、ヒラリー・クリントンが勝っていたら、第三次世界大戦・全面核戦争になっていた、その代替えです。私も、今この記事を読んで下さっている貴方も、今頃は死んでいたかもしれません。

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また、コロナ騒動はそもそもが全世界ホロコースト化が目的でした。5年間ロックダウンして、人々を家に閉じ込めておき、反対する人には学校教育も医療も受けさせず、収容所にぶち込んでしまう計画でした。私は確実に、収容所にぶち込まれて殺されていたでしょう。

日本ではコロナワクチン接種開始以降、超過死亡が70万人を超えました。厚労省がしぶしぶ認定しただけで、コロナワクチンによる死者は千人を超えました。治療薬とは異なり、健康な人の体に打つワクチンは、死者が一人でも出れば即中止がこれまでの鉄則です。

前代未聞の薬害事件であり、政府、厚労省、医師会、メディアは死刑一択の外患誘致罪に相当するでしょう。今日本では民事裁判が行われていますが、当然刑事裁判で、そして国際軍事裁判で裁かれなくてはなりません。

しかしそれでもなお、世界的規模で、或いは日本全体で見れば「この程度で済んでよかった」のもまた事実です。コロナワクチンだけ見ても、そもそも未完成品だった上に粗製乱造、輸送保管が杜撰であり、打ち手の手技の巧拙にも差がありました。これが完成されたワクチンが、満を持して周到に配られたなら、被害はもっと甚大だったでしょう。大多数の人が無関心でいられる程度に社会が維持できていること自体が、奇跡としか言いようがありません。

このマクロの視点と、ワクチンで愛する家族を失った人、薬害で今も苦しんでいる人が大勢いて、それは紛れもない政府主導の自国民の虐殺だったことに目をそらさない、この二つの視点が必要です。

「この程度で済んでいるのだ」の視点がないと、「怪しからん!どうしてくれる!」の一点張りになります。

これはもっと身近な事例に置き換えれば「あの上司、嫌だけれど、まだましな方。もっと酷い人はたくさんいる」「自分の親に自尊心を傷つけられ、それは許せることではないけれど、それでも私はまあまあまともに育ってこれた。もっと人間不信になってもおかしくなかった。そして今からでも人生を取り戻す時間はある」などと視野を広げることと相似形です。これは人から言われるのではなく、自分で氣づけることが肝要です。

自分が氣に入らない、こだわっている何かは、どれくらい重要か

人間はどうしても、自分の不快の感情に囚われがちです。体の不調がどこかにあるだけで、そこに意識がどうしても行きます。ですので、体調管理も仕事の内、自分の責任の内とはこうしたことです。

自分の体調なら「確かにそうだ」と思えたとしても、他人の振る舞いだと「許せない!」になり、被害者意識を募らせてしまうものでしょう。それが自分にはどうにもできないことだと尚更です。

例えば私は、未だにこの暑さの中でもマスクをして出歩く人を見るのが苦痛でなりません。それは自ら人間牧場の家畜だ、と言って回っているようなものだからです。中には、シェディング被害の軽減のため、本当にやむなくの人もいるでしょう。しかし、ごく一部だと思います。「人間牧場の家畜なんかに、誰がなるものか!」と叫ばない限り、いいようにされて殺されるだけです。自尊どころの話ではありません。

「私はいつまでこの苦痛に耐えなければならないのか」と思うとイライラもし、暗澹たる氣分になります。ただそれに自分が囚われてしまうと、本当に私がやるべきことにエネルギーを注げず、責任を果たせません。

ここで上述した「今の日本の社会はこの程度の被害で済んでいる。相変わらずメディアを鵜呑みにし、現実とのギャップに疑問を感じないため、自分で調べないお花畑さんが、平和ボケしていられる状況なのだ」を考えあわせます。その上で「今の自分が何を優先するべきか。こだわっていることは、本当に重要なのか」の質問を自分にします。俯瞰した状況判断と、優先順位付け、そして自分の責任とは何かの質問です。

大切なのは、自分の正直な氣持ちは一旦そのまま受け止める、ということです。「こんなことでイライラする私は心が狭い」をいきなりやるのではありません。それをすると自己否定になります。

何かに自分がこだわっている、その何かはどれくらい重要なのか、この質問は自分の責任を自覚するためのものです。責任の自覚は、実は私たちを勇氣づけ、自分ではどうにもできないこだわりから解放してくれます。

「最低限ここは外さない」のポイントの見極め

減点主義は、100点から引いていきます。「あれもできていない。これもダメだ」

加点主義は積み上げです。ただそれも、「ここは外さない」ポイントを見極めればこそです。いいよ、いいよ、よくできたね、と相手を赤ちゃんみたいに何でも甘やかすことではありません。だからこそ、常日頃の経験から「何は外してはならないのか」を自分の目と耳と心で、見抜いていく姿勢が不可欠です。

例えば仕事において、「お客様に迷惑をかけない」は誰でも思います。そしてそれ以上に、「お客様を大切にしたい。喜んでもらいたい」とどれくらいのメンバーが思えているか。掃除一つとっても、ただルーティンでこなすのと、お客様に良い時間を過ごしていただくためにするのでは、氣づけることが変わります。職場の上級者は、その動機を見抜くのが「これは外さない」ということです。上級者の責任とは、「ここは外さない」ポイントを自分が見誤っていないかどうかです。

ですから加点主義の方が、実は頭を使います。真剣に物事に取り組めばこそ「これは外さない」がわかってきます。誰かや何かに教えてもらうことではありません。だからこそ、人は減点主義に流れます。ただやってみればわかりますが、加点主義の方が心の状態はずっと楽になり、また意欲もわいてきます。

減点主義の隠された動機は「嫌なことを取り除いて欲しい」です。それが生きる動機になると、毎日が苦痛に満ちたものにすぐになってしまいます。

加点主義とは「大難を小難に」の現実的な責任を果たす態度

世の中には腹黒く、人の心を踏みにじってまるで恥じない人が想像以上に多いです。或いは「言われたことだけ皆と同じように、世間並にしておけば、義務と責任を果たしたような氣分になる」いつまでも大人になれない人達も。そしてそれが如何に社会に、特に立場の弱い、国の将来を担う子供たちに弊害をもたらすかを、言っても通じない人達も。

子供のマスク姿に心を痛めず、ワクチンで人が死んでも驚くことすらしない、ごく普通の市井の人達がこんなにもあっさりと人間であることをやめる、そしてそれはコロナ騒動に限ったことではありません。

真面目で心優しく、人を信じたい人ほど受け入れるのが辛い現実でしょう。氣持ちは優しくても、現実に立ち向かう勇氣に欠けていると、真っ先にやるのが「なかったことにする、見て見ぬふりをする」無関心です。無関心は楽であると同時に良心の呵責がないので、いつまででも続きます。優しい善意の人だけでは、お利口さんの子供のままです。

一方で、大人としての責任に目覚めると、その受け入れがたい現実を、否が応でも受け入れて行くようにもなります。私たちは一生の間に何度も何度も、「大人として目覚める」のを重ねて行くものかもしれません。そしてそれを全くやらずに、責任とはただ嫌なものとして逃げ回り、或いは「人間牧場の中の椅子取りゲーム」の処世術を責任と履き違えたまま年老いていく人と、道は分かれて行くのでしょう。

われわれが常に心しておかなければならないことは、どうすればより実害が少なくてすむか、ということである。
そして、とりうる方策のうち、より害の少ない方策を選んで実行すべきなのだ。
なぜなら、この世の中に、完全無欠なことなど一つとしてありえないからである。

マキャベリ「政略論」

マキャベリストと言うと、策略家、策謀家として余り良いイメージは持たれていないでしょう。私も若い頃はマキャベリを好きになれませんでした。しかし、中年を過ぎて、マキャベリが言っていたことが正しかったと痛感します。マキャベリは策謀家というより、徹底した現実主義者なのです。

引用した言葉は正に「大難を小難に」です。どんなに知恵を絞っても、小難は残るものです。自分が理想とする、或いは万人にとっての100点満点はあり得ません。全ての人が人間牧場の家畜のまま殺されたくないと、心が叫ぶわけではありません。2025年の日本の様相はまさにそれを現しています。

どんなに心を整理しても、一点の曇りなく心が晴れ渡る日は来ないのです。真剣に生きれば生きるほど、この苦さ、割り切れなさを受け入れざるを得ない、これが大人として、現実に対処していく責任を果たすことだと思います。

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