「虐待されたわけではないのに愛された実感がない」
「親から虐待されたわけでもない、ちゃんと学校には行かせてくれたし、お小遣いももらったのに愛された実感がない」こうした悩みは意外と多いようです。あからさまな暴力・暴言があったわけではないからこそ、人には理解されにくい悩みになるかもしれません。
Yahoo知恵袋に示唆深い例がありましたので、以下に引用します。
母からの愛情を感じられません。
大学まで出してもらいましたし、ご飯もちゃんと作ったり、家事では面倒を見てもらいましたし、普通の親だったと思います。だから、「どこが」と説明する事は出来ないんですが、なんとなく感覚的に、昔から愛情が感じられないんです。
子供の頃からどこか「寂しい」と感じていて、友達のお母さんが羨ましくてしかたなかったです。悩みがあっても母親には相談する気は起きませんでした。
(略)
私が子供を産んだときに、実母からも姑からもお世話になりました。姑からは、「息子と孫が可愛い。嫁はおまけ。」という雰囲気は勿論感じますが、それでもお世話をしてもらっている時にそれなりに愛情を感じます。
でも、母からはやっぱり感じられないんです。
子供の行事ではご馳走を作って用意してくれるし、お祝い金もくれるし、親として色々してもらっていて、それでも母親に不満を感じる自分に罪悪感を感じます。これだけしてもらっても、恩は感じますが、愛情からくる安心感は伝わって来ないんです。
だから、色々してもらっても、ずっと息苦しく、甘えられず、母親といても居心地が悪いんです。
帰省も、義実家に行くときよりも、実家に帰る時の方が気がおもく、義務感だけで帰省している感じです。
先日、母に軽く伝えたところ、母は怒っていました。でも、その怒り方や、その後の私への態度を見ても、やっぱり愛情は感じられないんです。
祖母からは愛情が感じられました。母からだけ感じられません。この感覚、わかる方いらっしゃいますか?
ベストアンサー
愛情ってのは『相手を喜ばせたい、笑顔に変えたいという気持ちや行動』です。相手を笑顔にするにはこちらは笑顔でなければ難しい。つまり、愛情を注ぐとき、人は『優しい笑顔で接する』ものです。
子供にお小遣いあげるときも、ニッコリ笑ってあげるのと、無表情で嫌々あげるのでは愛情に雲泥の差があります。
育児養育したから愛したとは言えないのです。育てながら、『喜ばせたい』って思ってたかどうかが肝心。
それと『自分の力で相手を喜ばせる(笑顔に変える)事ができた時に、自分がとっても嬉しくなる気持ち』を『幸せ』といいます。もし育児において親が幸せを感じれていなければ、それは『愛情を注いでいない証拠』でもあります。愛情を注がないから幸せになれないんです。
親に聞いてみればわかります「私たちを育ててる時幸せだった?」ってね
質問者からのお礼コメント
長年の疑問でしたが、初めて納得出来ました。確かに母はいつも笑顔がない人です。昔からずっと。母の友人や動物には笑顔でしたが、家族には滅多に笑顔を見せませんでした。
母の性格や、両親の不仲が原因かと思っていましたが、可愛い我が子に笑顔になれないって、やはり違いますね…。母の私に対する行動に「義務感」しか感じられませんでしたが、やはりそうだったんだなと納得できました。ありがとうございます。
Yahoo知恵袋
母からの愛情を感じられません。 大学まで出してもらいましたし、ご飯もちゃんと作ったり、家事では面倒を見てもらいましたし、…
子が親を愛し慕うのは哺乳類の本能
お礼コメントにあるように、親からの態度に義務感しか感じられないのは、子供にとって辛く、切ないものです。つまり「私は親に歓迎されていない」と、質問者は幼少の頃から薄々感じ取っていたのでしょう。
子が親を愛し慕うのは本能で、特に哺乳類に見られる傾向です。親との葛藤が、他人とのそれとは違い、大変苦しいのは本能に逆らうことだからです。
猫動画で、寝転んでいる飼い主の脇腹を、子猫が前足で交互に踏む仕草を時々見かけます。母猫のおっぱいを出そうとして、子猫はこのような行動をします。子猫も母猫が恋しいのです。
哺乳類の子供は、他の卵生動物と違い、母親から乳を貰い、天敵や寒さから守って貰わなければ生きていけません。子供が母親を慕わなければ、それは死を意味します。
そして子供が無垢な愛情と信頼を寄せればこそ、母親はその愛に感激し、また庇護欲を刺激されて子供を慈しみ育てる、それが多くの人が信じている「母性神話」です。
しかし悲しいかな、全ての母親がこの母性神話を生きているわけではなく、上記の知恵袋にあったように、愛ではなく義務感で子育てをしている親は、そう珍しくはありません。
「良い子」に育った人ほど親を理想化する傾向
幼い時から親を憎み嫌う子供など、そうそういません。どの子も親、特に母親を好きで、愛していたいのです。そして真面目で素直な良い子に育った人ほど、親を理想化します。自分は良い親に全面的に愛され、「私のお母さん(お父さん)は素晴らしい人だ」と信じたいのです。
そして自分自身も、親の期待に応える「良い子」であろうとすればするほど、またその子の向上心が「ほれぼれとする自分でなければ愛せない、認められない」ナルシシズムと結びついてしまうと、理想化した親と自分自身を重ね合わせます。
そうすると更に、自分から親の愛のなさを見て見ぬふりをし、時には「それは自分が良くないからだ」と自分を責めてまで、親を庇おうとします。そしてこのことに、かなり長い間ー多くは中年になるまでー氣づけません。
義務感は恐れ・責任感は愛・使命感は自分を超えたものへの愛
ところで、人の心は「どこを切っても金太郎」になっていて、子育ては義務感でやっているけれど、仕事は見返りを求めない奉仕の精神でやっている、ということはやはり起こりません。
ルールを守るのも、「皆のために」という動機か、「皆がそうしているから」「やれと言われたから」或いは「守らなければ自分が非難されるから」という動機かで人生は変わります。表面的には同じことをやっていてもです。世間体大事の人は、ルールを守るのも子育ても、世間体大事のためであって、結局それは虚栄心と自己保身に過ぎません。自分にしか意識が向かず、相手を見てはいないのです。
見出しに書いた通り、義務感は「それをやらなければならないから。自分が非難されるから」の恐れであり、責任感は「それが大事だから」とそのことそのものを大切にする愛であり、使命感は自分を超えた更に大きなものへの愛です。詳しくは以下のリンクの記事をご参照ください。
人が人を信頼するのはちやほやではなく責任感人が人を真に信頼するのは、ちやほやしてくれたり、甘やかしたりではなく、責任を持ってくれるかどうかです。部下を叱れない上司が真に信頼を得ることはありません。嫌なことは言わない代わり、[…]
何をするか以上に大事なことは、どんな心で、どんな動機でそれをしたか、或いはしなかったかです。
思いやり深い親だった家庭と自己中な親だった家庭と
標題の「家族は幻想」は、身も蓋もない表現かもしれません。しかし私は、それ位に思っておいた方が良いと考えています。昔のTVドラマの「大草原の小さな家」のような、厚い信頼と愛情で固く結ばれた家族の方が、現実には稀です。
家庭の中心は夫婦であり、子供にとっては親です。
その二人の大人が、共感性に満ち思いやり深く、「この世に起きることに他人事はない」と視野を広げ、子供が健全で幸福な人生を生きられるよう、TVの嘘を見抜いて自ら勉強し、また自分自身の人間性を高める努力を怠らなかったか。
或いは、子供が何を言っても聞く耳を持たず、都合の悪いことからは逃げ、或いは子供のせいにし、TVのプロパガンダに頭を乗っ取られ、「世間に、周囲に合わせて出る杭にならずに、どんなに間違ったことであっても長い物に巻かれて、損せず得をするように振舞うのが処世術」の生き方をする大人だったかで、子供の人生は変わって当然です。
そしてこの両者の間には、無限のグラデーションがあります。
結婚さえすれば、子供さえ生めば、世間に認められた一人前の大人になるわけではありません。冒頭の質問者の母親のように、子供が「問題さえ起こさず」とりあえず社会人になれば、親として、大人として立派ということでもありません。結婚すれば、心温まる巣を手に入れられるわけでも当然ありません。そんな幻想はもう終わりにするべきです。
人と人とが関わり合う中で、目に見えず終わりもない努力は必要で、それは家族であればこそ、尚のことです。
悲しみ切らないと手放せない
親が自分に無関心だったことに、傷つき、悩んでいる人はたくさんいます。結局これも、「親は自分を見ていない」「自分は親に歓迎されていない」であり、愛する喜びをもって育てられなかった悲しみでしょう。
こうした悲しみは、中々他人には理解されにくいからこそ、誰にも言えず、そして冒頭の質問者のように要らぬ罪悪感でまた苦しむかもしれません。
この悲しみは、頭で押さえつけて、理性や理屈で割り切ろうとするのではなく、しっかり悲しみ切る必要があります。悲しみ切った後で漸く、「自分が求めていたものは、親からは得られない」と自然と氣づき、諦めがつきます。
そしてそれには、失望に耐え、その失望を抱えて生きる心の強さがまた必要になります。この心の強さが身に着いてこそ、諦めがつくとも言えます。
諦めきる際に、「親が自分にしたこと、しなかったこと」だけでなく、親の他の人への態度がどうだったかを合わせて振り返ると、「あの人は元々そういう人。私だけでなく、誰に対しても、人の痛みをわかろうとしない人」などと相対化しやすくなります。こうした視野を広げる頭の体操と、悲しみを押さえつけてなかったことにしようとするのは別物です。
悲しみ切った後に手放す、この順序が大事です。また悲しむのは被害者意識にどっぷりはまり込んで、「だから私がこんなでも仕方がない」と開き直るためでは勿論ありません。どうにもできない現実への執着を手放して、心を誰にも支配されない自由を手に入れるためです。
「私は義務感で子育てをしているのかも」にまず正直に
この記事を読まれている方の中には、「ひょっとして私は義務感で子育てをしているのかも」と思い当たる親御さんもいらっしゃるかもしれません。まず、その氣持ちをごまかさず、正直に向き合うことです。それにもまた勇氣が要ります。その時点で、スタートラインには立てています。
そして上述したように、義務感は恐れです。何を恐れているのか、静かに自分に質問してみて下さい。義務感「ばかり」で生きている人は、自分自身が癒されていません。
子育て以外の場面でも、義務感で、「べき・ねば」で自分を縛り付けて、仕事なり家事なりをやっていないか、振り返ってみましょう。義務感と責任感は異なります。
或る小学生のお子さんのお母さんが「子育てって、8割はイライラするけれど、2割はやっぱり子供が可愛い」と仰っていました。冒頭のベストアンサーにあったように「子供の喜ぶ顔を見るのが幸せ」の瞬間を、時間をかけて探してみましょう。喜ぶ顔でなくても、お子さんの寝顔や、無邪氣に遊んでいる姿など、お子さんからしかもらえない喜びや愛おしさを感じた瞬間は、どのようなものがあったでしょうか・・・?
愛は「それが大事だからする」ということです。人でも物でも事でも、大切に扱うということです。多忙だとつい「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」に追いまくられるものでしょう。しかし何か一つでいいので、お弁当作りでも、掃除でも、洗濯物をたたむのでも、「大事に思う氣持ち」を込めてやってみます。
例えば洗濯物をたたむのも、義務感でやれば単なる作業になりますが、「大事に思う」氣持ちでやれば、氣づけることが変わってきます。「子供の靴下のつま先がこんなに薄くなってた。穴が開く前に買い替えなくっちゃ」など。この氣づきが、相手に関心を払うことの一環であり、愛の発露に成り得ます。
相手に無関心だと、靴下に穴が開いていても氣づけません。敏感なお子さんだと、そうしたことから「お母さんは私の靴下に穴が開いても平氣なんだ。私の存在はその程度なんだ」と感じてしまいます。
義務感の恐れから、愛が動機になる、それはささやかな日常の行動から始められます。プレゼントや外食で、「いい親ぶる」方が手っ取り早く簡単かもしれません。しかし、子供が望んでいるのは、冒頭の相談にあったように、そのようなことではないのです。