人が人を信頼するのはちやほやではなく責任感
人が人を真に信頼するのは、ちやほやしてくれたり、甘やかしたりではなく、責任を持ってくれるかどうかです。
部下を叱れない上司が真に信頼を得ることはありません。嫌なことは言わない代わり、痛みを伴うことからは逃げる人が、信頼されはしません。
責任を持てる人は、例えばボランティア活動など無給の仕事であっても、責任が伴うことを自ら買って出て、人の役に立てることを喜びとします。
責任感の有無は、氣持ちがやさしいなどの持って生まれた性格とは無関係です。ある程度の経験があれば、「人当たりは柔らかくても、面倒なことからは逃げる人」の一人や二人に出会っているでしょう。
何故、責任を持つことから逃げる人と逃げない人とがいるのでしょう・・・?この違いはどこにあるのでしょう・・・?
「それをやらなければ罰せられるから」の義務感は恐れ
ところで、勉強にしろ仕事にしろ、「嫌々やっている」「それをやらなければ罰せられるから。上司や先生に怒られるから」の義務感は、恐れからきています。「従っておけば怒られない。面倒がない」も恐れです。
ですので、うるさく言う人がいなくなった途端に、やらなくなってしまいます。
ただ、義務感の全てが悪いというわけではありません。
例えば、学生時代にテストがあればこそ、苦手な科目でも何とか勉強しようとします。テストがなければ私たちの学力はうんと低くなってしまったでしょう。苦手だからといって逃げてばかりいては、私たちは成長できません。
納税や社会保険料の納付なども、ほとんどの人は義務感でやっているでしょう。或る程度のことは、義務感で縛られなければ私たちはやらないものです。
それでもやはり、動機のほとんどがこの恐れから来る義務感であれば、人生が苦痛に満ちたものになってしまいます。
「嫌々、しぶしぶ」なのか「愛情や愛着」からなのか
また例えば、終業時間を過ぎたけれどいくらか仕事が残っている時、多くの人は残業代がつかなくても残って仕事を仕上げます。
「それをしなければ仕事が滞るから」「周りに迷惑がかかるから」などの動機のためでしょう。
更に深掘りした動機が、「やらなかったら誰それさんに怒られるから」などの嫌々、しぶしぶなのか、誰が何を言っても言わなくても、「これが仕事だから。仕事が大事だから」の愛着からかでは、外側からはわからなくても、その人のあり方は大きく変わります。
嫌々、しぶしぶは恐れから来る義務感であり、「仕事が大事だから」は愛着であり責任感です。愛着があればこそ、人は少々のことで投げ出すこと自体が嫌になります。
真の意味で自分を愛している人は、仕事にも愛情を持てます。責任感の有無は、自分を大切にする愛に比例しています。
逆から言えば、責任から逃げて回る人はそれだけ自分を愛していません。我が身かわいさのために逃げているようですが、本当のところは自分を信じていないからです。「だってどうせ、自分にはできっこない」「あの人は特別だから、私とは違うから」「どうせ上手くいかないに決まってる」と、誰でもなく自分で自分を貶めているから逃げるのです。「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」の丸投げ依存も同じです。楽をしているようですが、自分はお客さんのまま、与えられるのを待っているのは自由ではありません。
無責任さは「自分を応援しない」自己虐待です。
挑戦できるのは自分を信じ、愛しているから。だから困難や責任から逃げない
挑戦とは必ずしも、難しいことに挑むばかりではありません。「どうやったらもっと上手くいくかな?」「このやり方のままでいいのかな?」「もう少し手を入れてみよう」等、小さな創意工夫も挑戦です。その創意工夫も、やっていることに愛着を感じればこそです。嫌で嫌でたまらないことには、こうした小さな創意工夫をしようとはしません。言われたことをこなすだけになってしまいます。
実際、何かをやり遂げるとは、この小さな創意工夫の積み重ねに尽きます。人間は昨日と今日とでは、そう大きくがらりと変われません。仕事や学業のみならず、心のあり方も、ティッシュペーパーを一日一枚積み重ねる、この地道な作業をやるか、やらないかです。
そしてこの地道な創意工夫を常日頃積み重ねている人が、大きな困難が来ても受けて立つことができます。言われたことだけこなしている人にはできません。「こなし仕事」になっている人が、自分が泥をかぶってでも困難を乗り越えようとはしないのです。
人はしばしば、「頑張ってこういう自分になったら(ダイエットに成功したら、試験に受かったら、素敵な恋人や配偶者を得たら)自分を認め、愛し、自信が持てる」と考えがちです。その発想だと「こうするべき、こうしなければ」の「べき・ねば」、恐れから来る義務感で自分を鞭打とうとしてしまいます。
しかし真実は順序が逆です。「自分を認め、愛し、自信を持っているから、責任から逃げず、挑戦し、困難を乗り越えることができる」のです。
経営者であれスポーツ選手であれ、第一線で活躍し続けている人たちは、常人にはなかなかできない努力をし、困難を乗り越え続けていても、どこか楽しそうで、また感謝の境地に至っています。それも心から自分を大切しているから「より高い世界に自分を連れて行ってあげたくなる」のです。ですから困難に際して、安易に投げ出すことをしません。それをする自分に耐えられないからです。
そして、困難を自分の意志で乗り越えた実感がまた、自信を深め、矜持を持たせます。この好循環が自尊感情を高めます。
責任と愛は表裏一体です。無責任さに愛はない、と考えると、よりわかりやすいでしょう。
どんなにちやほやしてきたり、プレゼントや差し入れをくれたり、或いは口先で「いいこと」を言っていても、自分が置かれた立場を理解せず、責任や困難から逃げる人には愛はありません。
そしてまた、自分の限界をわきまえることも責任の内です。SNSなどでの「過労自慢」は全く自慢になっていません。
責任は一度果たせばいいものではなく、果たし続けるものです。闇雲に抱え込んで倒れてしまうのは、本人は責任感のつもりかもしれませんが、実は「ほれぼれとする完璧な自分でなければ愛せない」のナルシシズムがあります。このナルシシズムと、自分の限界をわきまえる姿勢は相反するものです。
その時々の自分の限界を客観視し、責任を果たし続けられる環境を整える努力が、真の愛です。
心理セラピーにおいても、「ここに来れば何とかしてもらえる」の間は、決して結果が出ないのは、それは自分への愛がないから、自分の人生に責任を持たないことが、そのまま自己虐待だからです。
使命感は自分を超えた次元への愛
自分の使命を知りたい、と思う人は多いでしょう。
ただ、責任や困難から逃げ続ける人に、天から使命が下りてくることはありません。物事には順序があります。
愛に裏打ちされた責任を果たし続ける人が、さらにその愛をより高い次元のものに向けた時に、自分の使命がわかります。
使命感とは、自分や、自分の家族さえ無事に暮らせればいいという狭い意識とは相反するものです。
そして責任感から使命感に昇華する際、時として心の深いところから揺さぶられるような、辛い経験を経ることも少なくありません。
心の傷には癒せるものと、生涯残るものが心の傷には、学びや気づきに変えられるものと、やはりそうは言っても、生涯その痛みは残ってしまうものとがあります。多くの場合は、対処方法を身に着け、事実の受容(「どこに行ったってわがままなお客さんはお[…]
そして使命感が動機になると「宝くじが一億円当たったら、やめてしまう」ことはなくなります。まして「ライバルに先を越されたからやめてしまう」などと言うことも。
また「あいつがやれるなら俺だって、私だって」という発奮材料にするねたみは抱くかもしれませんが、「足を引っ張ってやれ」という低い次元のねたみはありません。これらの段階ではまだ、使命を生きているとは言えません。
使命を生きると、ライバルはむしろ同志だと、リスペクトするようになります。そのライバルが至った境地の裏側には、並々ならぬプロセスがあるのを、具体的に知らなくとも直観できるからです。これも自分を超えたものへの愛の発露です。
自分が生きている間に、少しでも世の中を良いものにしたい。その具体的な中身は様々ですが、このことを切々とした感情を伴って感じていることが使命感です。
仕事であれば、売り上げや利益が気になるのは当然のことです。
しかし売り上げ、利益、収入を上げることに、何か疲れを感じているなら、それは使命感が動機になっていないというサインかもしれません。
上述したように「宝くじが一億円あたったら、やめてしまう」のなら、仮に好きな仕事であっても、やはりお金のために働いている、ということです。良識ある人なら、お金のためだけには、そう長く頑張り続けられないようです。
「好きを仕事に!」は結構ですが、「好きだけを仕事に!」はありません。嫌なこと、辛いこと、面倒なことを乗り越え続けるには、好きだけでは足りず、使命感が動機になればこそでしょう。
「禍福はあざなえる縄のごとし」あざなえる縄にするのはその人
使命を得ていても、崖っぷちに立たされることはやはり起こります。
その際「ピンチはチャンス」と思えるかが、その人が使命を得ている証です。
今までのやり方や、心の持ち方では通用しないからこそのピンチです。今まで通りでやりこなせることはピンチとは言いません。これまでの自分の殻を破るには、コツコツとした習慣的な努力だけでは間に合わず、ショック療法が必要なことも、長い人生には幾たびか起きます。このショック療法がピンチとして私たちに現れます。挫折や困難、出口が見えない辛さとしても現れます。
残念ながら事業を畳まざるを得ないこともあるでしょう。時折、地方の百貨店が営業不振のため閉店を決断し、最後の営業日の閉店の様子がニュースになることがあります。閉店のシャッターが下りていく、その際販売員や顧客担当の女性が涙ながらにお客様に頭を下げているのを見ると、私も百貨店に長く勤めていたので胸が詰まります。情熱と愛情、様々な努力や苦労を捧げた店だからこそ、他では埋め合わせきれない悲しみと寂しさなのです。
しかし、お店はなくなっても、そこで働いていた人達の人生はまだ続きます。
これをただの挫折、不運と取るか、そうした経験でさえ、他では得難い何かに変えていくかで、また道は分かれます。
「禍福はあざなえる縄のごとし」二本の縄が撚り合わさってこそ、より強く太い縄になります。片方だけでは「あざなえる縄」にはなりません。
ピンチをただの災難、嫌なことと捉えているのは、まだ「恐れから来る義務感」の段階です。嫌だ、怖いと感じても当然ですが、「取り除かれることをひたすらこいねがう」ではあざなえる縄になりません。こうした挫折、逆境、不運を、あざなえる縄にするかどうかは、その人だけが決められることです。
自分を大事にしているからあざなえる縄にし、またあざなえる縄にするからまた自尊感情が高まっていくのです。