毒になる親の辞書にはない「老いては子に従え」
いわゆる聞き分けの良い子とは、「親や大人にとっての都合の良い子」になりがちです。
素晴らしいと思うものに、心を開いて吸収していく真っ直ぐな感性や、技術の習得の際には「まず教わった通りにやってみる」素直さと、盲従する「都合の良い子」は、混同されがちかもしれません。
こうした「自分を成長させる素直さ」を持ち合わせてる人ほど、うっかりすると「都合の良い子」になってしまうこともあるでしょう。どんなことにも一長一短があり、諸刃の剣です。
威圧的な親も、かまい過ぎの親も、自覚はなくても「事あるごとに子供の自尊心を打ち砕き、子供を永遠に非力で自分に従う存在でいさせようとする。それ以外は認めない」という動機は実は同じです。
子供が中年以後、社会の中核としての役割を果たすようになる一方、自分は反比例して衰えて行くと、ますますその傾向を強めることもあります。「老いては子に従え」という言葉は、毒になる親の辞書にはないと言っても過言ではありません。子供の自由意志は、親の都合と好みに合う範囲内でしか認めない、これほど子供の自尊心と自発性を打ち砕くものはないかもしれません。
自分を成長させる素直さは生かしつつ、「聞き分けの良い、親にとっての都合の良い子」をやめたい人へのいくつかの考えるヒントです。
大人になった今でも、疑問や反論が許されないか
自分の親が、子供である自分の自由意志を尊重しない、その現実をあっさりと認められる子供もまたそうそういません。「そうあって欲しくない」子供の切ない願いが、見て見ぬふりをさせてしまうものでしょう。
しかし、長年積もり積もった違和感と、それによる自身の生きづらさに、心が悲鳴を上げる、それは主に、仕事でも家庭でも責任が問われるようになる中年以後に現れやすいです。自分が氣づけなくても、配偶者や子供たちからのSOSとして発せられることも大変多いです。
「信じたくない。でもやっぱり・・」の葛藤が生じているのなら、「大人になった今でも、親に対する疑問や反論が許されないか」を、機が熟した時に、静かに振り返るのも良いかもしれません。
些細なことで構いません。TVニュースの感想など「賛成でも反対でもかまわないこと。『そんな考えもあるのね』でその場はやり過ごしていいこと」「意見があるのは当然だけれど、今の自分が選ぶことではないこと(例えば自民党の次期総裁選びなど)」がわかりやすいかもしれません。
疑問や反論自体がが許されないのは、その中身が信念として譲れないのとは異なります。疑問や反論そのものが、自分自身を否定されるかのように取っている、自我の脆弱さの現れなのです。
この記事を読まれている方の中には、親御さんにコロナワクチン接種に反対し、止められなかった方もいらっしゃるかもしれません。その際の親御さんの態度はどうだったでしょうか。自分の言い分を説明して、子供である貴方の納得を得ようとしたか、或いは「お前が何を言うか。お前に指図される筋合いはない」という態度ではなかったかどうかです。
そしてこの態度は、貴方が子供の頃には尚更やっている、その可能性があります。子供の頃は判断力が未熟なので「そうしたものか」と信じ込んでしまい、氣づけないままであっても全く不思議ではありません。
また思春期の頃に「うるせえ!クソジジイ!クソババア!」と言えなかった人は、もしそれを言ったらどうなるか、シュミレーションしてみるのも良いかもしれません。親の反応はわからなくてもかまいません。自分自身が「息が止まりそうになる」「体がこわばる」「恐ろしくてそんなことはとても言えない」と感じたら、それが答えです。「親に背くことは恐ろしいこと」と潜在意識が感じ取っている証拠と考えることができます。
それは本当に心配して「やめなさい」と言っているのか
心が健全な親でも、「いくつになっても子供は子供」です。そして心配性な親ほど「そんなことをして、大丈夫なの?」が先に立つものかもしれません。子供のチャンレンジを親に反対された時、周囲の人は通常「心配して言ってるんだよ」と反応します。「あなたの自立の芽を潰そうとしてるんだ」とは言いません。
自分でも「心配して言ってるのかな・・」と思いながらも、何かモヤモヤが残っていたら、やはり正直に向き合った方が、精神衛生に良いかもしれません。
ある人が20年ほど勤めた会社を辞め、独立起業することにしました。もう決めてはいたものの、やはり親には言っておこうと報告したところ、母親は猛反対しました。ですが親に反対されたらやめる程度の覚悟で、起業する人などいません。周囲の友人たちは、やはり「心配してるのよ」と言った反応でした。
起業当初は仕事を軌道に乗せるので精一杯で、その時の親の態度を顧みる余裕はありませんでした。しかし数年後、あれだけ反対していた母親が、我が子の会社のサイトを見もせず、まして母親の友人たちに「うちの子がこのような仕事を始めまして・・。もし、何かつてがあったらご紹介していただけますでしょうか?」などと頭を下げることなどは、もっとしないことに氣づきました。
開業の際に、ちょっとした装飾品などを贈ることもしませんでした。子供の方は、誰に対しても、そうした祝いの品を期待してなかったので、すぐには氣づけませんでした。
もし母親が我が子の仕事の成功を願っているのなら、「一度は反対したけど、やると決めた以上は頑張りなさい」と励ますものでしょう。その心を何か形にして贈り、「お母さんは応援してくれてるんだな」と時折にでも思い出してほしいと考えるのが自然です。また父親はその土地では顔の広い人でしたが、父親の人脈を辿って「何かあったらこの人に相談しなさい」と紹介するなどもなかったそうです。
起業の件だけでなく、他の事柄も併せて考えると「子供である自分が親をしのぐことは許されない」ではなかったかと思い当たりました。前に勤めていた会社で中間管理職だった時にも、母親に「あんたの仕事はクレーム処理係か」と見下されたような言い方をされたそうです。クレーム処理は中間管理職の大事な仕事の一つではありますが、中核ではありません。
我が子が起業独立して成功するなど、親にとっては妬ましいことだった、そのように結論づけても不自然ではありませんでした。
心配を装って「我が子が自分をしのぐことは許さない」と真綿で首を締めるようなことは、残念ながら珍しくはありません。
人心操作の典型は「罪悪感で動かす」こと
ところで、人心操作の典型は「飴と鞭」です。飴だけでは人はすぐに慣れてしまうので、操作したい側は鞭をより多く使います。その際、鞭だけだと逃げられるので、逃げられない程度に飴もぶら下げます。DVをする人が、暴力を振るった後に優しくなる、まだ付き合いが浅いうちから妙に持ち上げる、SNSで普段はこちらの投稿に何の関心も示さないのに、誕生日のメッセージだけは送って来るなどが典型です。
そして鞭は恐怖と罪悪感を使います。恐怖は脅しを使いますが、これも再々脅してばかりだと、相手が嫌氣が差して、また逃げられてしまいます。なので良心の呵責と見分けがつきにくい罪悪感で動かすのが常套手段と言って良いでしょう。
良心は自分のものなので、良心に従ってやったことは、誰にも評価されなくても「やって良かった」と思えます。罪悪感で動かされたことは、不本意感が残ります。何かモヤモヤが残るのは、自分の自由意志ではなかった証拠、そのように区別をつけることができます。
コロナワクチン接種における「思いやりワクチン」が典型中の典型です。毎年1000万人が罹患し、関連死も含めれば1万人が亡くなる季節性インフルエンザで、このようなことは聞いたことがありません。人から説明されなくても「これは人心操作の典型だ。だから乗ってはいけない」と直観できてこそ、「絶対に乗ってはいけない」と心を固めることができます。これが直観でわからないと、「○○さんが打つのをやめろと言ったから打たなかったけど、やっぱり打っといた方が良かったかな」と判断がぶれまくってしまう、まさに「鉄の直観、鉄の意志」が問われた局面でした。
罪悪感による操作だと人から説明されなくてもわかり、それを嫌悪し瞬時に退けられる自分になるためには、日々日々、自分の良心に基づいた判断選択をし、「結果どうだったか」の検証を積み重ねる⇒自己決定能力を磨くという、多くの人が中々やりたがらない習慣を身に着けることだと思います。「人から悪く思われたくないから○○する」「皆がそうしてるから」の、自分の責任を放棄する打算があると、操作される隙を自分から与えてしまいかねません。
「操作する人に嫌われてみる」のも悪くない
心優しく、人のために一生懸命尽くす、行動力のある人ほど操作されやすいものかもしれません。一から十まで「私に良きにはからえ」で、指一本動かそうとはしない人は、操作する側も期待しないのでしょう。つまり「聞き分けの良い頑張り屋さん」ほど、残念ながらカモにされやすい、そうした面があるのかもしれません。
衝動強迫「慣れ親しんだパターンを繰り返す」「今度はうまくやれるに違いない」
毒になる親にとって、子供は自分の所有物です。勿論、表面上はそのようなことは自覚していないでしょう。「我が子に自立してほしい」と口では言っているかもしれません。しかしそれは「経済的に自分たちに依存されて、困窮するのは困る。でも自分たちを超えた存在になるのはもっと嫌」が本音のところではないかと、多くのクライアント様のお話から推測しています。
「親の望む通りにしなければ、ならなければ、自分が悪いような氣がする」
「親を超えた存在になることは、親に対する裏切りだ」
「どんなことであっても、親を傷つけたり、不機嫌にさせることはやってはならない」
言葉にしてしまうと、「そんな馬鹿な」と思うことばかりかもしれません。しかし「親に背くことは恐ろしいこと」と刷り込まれてしまうと、この親の無言のルールに操られてしまいます。
罪悪感で操作されるとは、自分が他人の操り人形になってしまうことです。
この自滅的なパターンを分別盛りになった子供が繰り返してしまうのは、一つは「慣れ親しんだパターンを無意識の内に繰り返す」、そして「きっと今度はうまくやれるに違いない」とこれも無意識の内に選んでしまう衝動強迫のためです。人間の脳には「どんな破滅的なことであっても、慣れたことを繰り返したい」かなり強力な特性が万人にあります。
そして操作する側は、これもまた無意識の内に、このパターンを繰り返す相手を嗅ぎ取り、近寄ってくるのです。
親との関わりを断っていても、他で操作されていたら「墓に入った後も支配されている」
仮に親が死んでいても、他で操作されていたら「親が墓に入った後も操作され、支配されている」のと同じと言えます。親との間で繰り返されたドラマを、他人とも再現してしまう、まずこれに氣づけるだけでも、そのドラマをやめるための大きな一歩を踏み出しています。
ある女性は、知人から「ねえ○○さん、※※のこと、△△さんにもう聞いた?」と言われるのがとても嫌だったそうです。その女性が「※※のことを△△さんに聞いてみる」話はしたこともなかったのにです。要はその知人が、自分で尋ねるのが面倒なのか嫌なのか、その女性を使って尋ねさせようとしてきたのです。
一二度はつい反射的に自分で動いてしまいましたが、三度目からは短く「聞いてないよ」とだけ答え、それ以上取り合わないようにしました。そうすると何のことはなく、その知人は自分で聞きに行きました。
操作する側にとっては、操作できる相手は実のところ誰でも良いのです。ナンパ師が、ナンパの相手は自分の虚栄心が満たされる程度の可愛い子ちゃんなら、誰でも良いのと同じようなものです。たまたま「操作しやすい人リスト」の一番上に、失礼なことに、自分の名前が書かれていたに過ぎません。
これは実際の成功体験を積むのが一番です。「相手にとって自分はその程度の便利屋さん」「こんな失礼な扱いをする人に、真面目に関わって悩む方が時間の無駄」と思えると、それまで感じていた罪悪感が全く無用なものだったと実感できるかもしれません。これが良心と罪悪感の違いと言えます。
操作する人に嫌われてみる、もしくは「利用価値がない」と判断される、それは自分が恐れていたほどには悪くはない、そう氣づけるかもしれません。
「私は操り人形ではない」自分を操っていた糸を断ち切る
「自分は長い間、親からの操作と支配を受けてきた」と氣づくとは、自分の手足に操り人形の糸が付いていたと知ることでもあります。
度々引用しているスーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」、ダン・ニューハース「不幸にする親 人生を奪われる子供」、或いは他の書籍は、自分の手足についていた糸がどのようなものかを知るために役立つでしょう。
そして「いつの間にか親の操り人形にさせられていた」と認めるのもまた、一筋縄ではいかない葛藤が生じるものだと思います。ですがそれでもなお、その事実を認めるだけでは、自分の人生を取り戻す、その折り返し地点には立ってはいても、ゴールではまだありません。
自分の手足を操っていた糸を断ち切ってこそ、「毒になる家系」の系譜を断ち切れます。
この糸を断ち切るのは、まずはご自身の人生のため、お子さんがいればお子さんに連鎖させないためでもあるでしょう。そしてまた「子供が自分をしのぐことは許さない」親の身勝手が埋め込まれてしまった大人が大多数を占めれば、社会は衰退する一方です。日本の国際競争力が落ちている一因かもしれない、と個人的には思います。
人が自分の人生で悩むのは、心底「私の人生こんなもの」とは諦めきっていない、そのためもあるでしょう。何か不本意感が拭えていないのは、仕事であれ家庭生活であれ、人間関係であれ、本来ならもっと自由にポテンシャルを発揮できる筈だと心のどこかで知っているからではないでしょうか・・?手足に操り人形の糸がついたまま、どんなに努力をしても「自由にポテンシャルを発揮する」のは無理が生じます。
自分を操っていた糸を断ち切るには、知識のお勉強だけではやはり足りない、正解を知って安心した氣分になってしまう危険性もやはりある、とよく思います。「もうこんなことで、自分の人生を無駄にしたくない!」叫ぶような強い思いが何よりも大事です。その機が熟し、一人では何から手を付けて良いのかわからない時は、いつでも共にあり、共に歩むために、私はいつでも待っています。

