社会的意識の高まりによる「自分の親は結構な毒親だったのかも」
スーザン・フォワード「毒になる親」がアメリカで出版されたのは1989年です。今でこそ「毒親」という言葉は日本でも市民権を得ていますが、当時は大バッシングが起きたそうです。「親は子供を無条件に慈しみ育てるものだ」という神話が生きていたからでもあったでしょう。
日本で翻訳・出版されたのは1999年で、それから約四半世紀が経ちました。当初は暴力を振るわれるなど、「誰の眼から見ても虐待」のケースが注目されました。その頃はまだ「虐待をする親はごく少数で、ほとんどの親は愛情をもって子供を育てるものだ」と思われていたでしょう。育ててくれた親を憎むこと自体が、タブー視されていたように思います。
その後、女性の高学歴化や社会進出が進み、またインターネットが普及し、ブログやSNSで誰でも情報を発信できるようになったことも、時代を大きく変えました。令和の日本は見えづらい貧困が広がってるとは言え、社会全体が貧しかった時代とはやはり異なります。社会意識の高まりを大なり小なり多くの人が感じていることでしょう。
ですので、あからさまな暴力や暴言がなかったとしても、「自分の親は実は結構な毒親だったのかも」と氣づけるようになったのは、社会意識の高まりによるごく自然の成り行きだと思います。それは恰も、若い人達が「自分が納得できる職業人生を送りたい」と、新卒で入った職場をある程度で見切りをつけて転職をするのと同じなのでしょう。
「支配的な母親が愛情深い母親でいられるのは子供が小さいうちだけ」
ところで、エーリッヒ・フロムは母親の愛について、以下のように述べています。
兄弟愛や異性愛は対等な者どうしの愛だが、それとは対照的に、母親と子供の関係はその本質からして、一方がひたすら助けを求め、一方がひたすら与えるという不平等の関係である。この利他的で自己犠牲的な性格のために、母性愛は、最も高尚な愛、あらゆる情動的絆の中でも最も神聖なものとみなされてきた。しかし、母性愛の真価が問われるのは、幼児に対する愛においてではなく、成長を遂げた子供に対する愛においてである。(略)
この種の母性愛には人間特有の心理的要素が働いている。その一つは母性愛の中に潜むナルシシズムの要素である。母親が子供を自分の一部と感じている限り、子供を溺愛することは自分のナルシシズムを満足させることにもなる。また別の動機として、母親の権力欲や所有欲を挙げることができよう。子供は無力で、全面的に母親の意志に従うから、所有欲の強い支配的な母親にとっては恰好の獲物なのである。(略)
しかし、子供は必ず成長する。(略)母親は子供の巣立ちを耐え忍ぶだけでなく、それを望み、後押ししなければならない。
この段階に至って初めて、母性愛は大変な難行となる。つまり、徹底した利他主義、即ち全てを与え、愛する者の幸福以外何も望まない能力が必要になる。多くの母親が母性愛という務めに失敗するのもこの段階である。ナルシシズム傾向の強い母親、支配的な母親、所有欲の強い母親が、「愛情深い」母親でいられるのは、子供が小さいうちだけである。
エーリッヒ・フロム「愛するということ」下線は足立による
子供が小さいうちは、我が子の成長を喜べても、思春期以降、子供の体格、体力、知力、容姿が自分を上回る兆しを見せ始め、そしてまた子供独自の世界を作り、その中へ「去って行こうとする」と、それを脅威と捉えてしまう親は、実は珍しくありません。
フロムの引用は母性愛、母親についての言及ですが、父親でも同じことは起こりえます。父親の場合は、無関心になって子供の存在自体を意識の外に追いやろうとする傾向が強いでしょう。
この「愛するということ」は1956年にアメリカで出版されました。既に70年前に、「母性神話は偽りである」とフロムは喝破していたのです。
家族の均衡を保とうとして自分の価値を下げてしまう子供
何があっても自分を愛し庇護してくれるはずの、全能の神のような親が、思春期を迎えた子供の壁となって立ちはだかるように感じると、それは反抗という形で現れます。これは健全な自我の成長の証でもあります。
心が健全な親なら、「親を全能の神のような完璧な存在ではなく、愛情はあっても欠点もある、普通のおじさん、おばさんと子供が捉えられるようになること」に安堵するのではないでしょうか・・?「親に向かってその口の利き方は何だ!」とその時は怒って見せはしても。
それは子供が幼児的な依存心を脱却するための前提となるからです。他の大人にも応用され、「自分にとって常に都合の良い存在はこの世にいない」と過度な期待を抱かなくなっていきます。対人関係スキルの基礎となる考え方になるでしょう。
しかし親の方が、ナルシシズムが打ち砕かれていないと、即ち自分が家庭の中の全能の神でいたいと、子供の反抗を潰そうとしがちです。やり方はかまい過ぎだったり、相も変わらず「神のようにふるまう」だったり、事あるごとに子供の言い分や選択を腐したり、様々です。
そして子供の方は反射的に、家族の均衡を保とうとして、
親を全能の神のままにする⇒
自分を無力な存在にする、
をまさに無意識でやってしまいます。
その一方で、子供には成長欲求や達成意欲も当然あります。向上心や自立心の強い子供ほど、努力し成長するごとに心が引き裂かれそうになっても無理はありません。
また親の方があからさまに過干渉・過保護だったり、高圧的だったりすれば、苦しみながらも「うちの親はおかしい」とある時期に氣づくこともできるでしょう。
しかし親が口では勉強しろ、良い成績を取れ、自立しろと言い、またそのために学費と稼いでいるんだと言われると、「親は自分の自立を応援してくれているはず(しかし自尊心は巧妙に踏みにじられる)」という二重拘束、ダブルバインドが続いてしまうのです。これでは子供は「自分はそのままで愛され、誰とも比べられる必要はない、かけがえのない存在だ」と思えるわけがなく、非常に混乱してしまいます。
成人した後も、親に会うと反射的に「親よりも無力な存在」であるかのように、ふるまっていないかどうか、或いは親がそれを暗に求めていないかを、機が熟した折に、静かに振り返って頂ければと思います。
親が子供を支配し続けたいかは、親に質問や反対意見が許されているかどうかで見極めるのがわかりやすいかもしれません。意見の相違があって良い、ニュースの話題などが好例に挙げられます。
「どうしてそう思うの?」と背景に興味を示そうとしたり、
「お父さん(お母さん)はそうは思わないけど・・でもあなたがそう考えてることはわかった」などと理解を示してくれたかどうかです。
何が何でも親の意見に従わさせなければ氣が済まなかったり、或いは「お前が意見するのか」とスルーしたり。それは子供を成熟した一個の人格として受け入れられない心の現れと考えられます。
自分の損得を超えないと、愛を実現できない
では何故、このようなことが起きるのでしょうか・・?子供の自尊心を踏みにじる親であっても、世間的には常識的な、ごく普通の社会人であることがほとんどです。
生まれ持った脳の器質的な問題や、幼少期の育てられ方にも原因は考えられます。しかしそれ以上に、自分の損得を超えた生き方になっているかが問われるでしょう。
先のフロムの文章の続きを引用します。
本当に愛情深い女性、即ち取るよりも与えることにより大きな幸せを感じ、自分の存在にしっかり根を下ろしている女性だけが、子供が離れてゆく段階になっても愛情深い母親でいられるのである。
成長しつつある子供に対する母性愛のような、自分のためには何も望まない愛は、恐らく実現するのが最も難しい愛の形である。ところが、母親が幼児を愛するのは簡単このうえないために、その難しさは中々理解されない。しかし、それほど難しいからこそ、本当に愛情深い母親になれるのは、愛することができる女性、即ち夫、他人の子供、見知らぬ他人、そして人類全体を愛することができる女性だけなのである。
前掲書 下線・太字は足立による
これは母親に限らず、万人に言えることだと思います。
他人の子供、見知らぬ他人をも愛するとは、損得勘定を超えないとできません。
我が子のことは心配しても、コロナワクチン薬害で亡くなったり、学校に行けなくなった子供、親を亡くした子供たちのことは他人事、
「私や私の家族でなくて良かった」
「そのような人達のことは、国や行政がどうにかすること。私は言われた通りにしただけだから、関係ない」
では、やはり愛がある人とは言えないのではと、私は思います。
譬え具体的な何かを、私たちに今すぐにはできなかったとしても、
「このようなことは間違っている」
「二度と繰り返してはならない」と心に決めることはできます。
この決意があればこそ、次の一歩を踏み出すことができるのだと思います。
非利己的も利己的も、根は同じ
では自己犠牲的に頑張ってしまうのが良いのか、と言えばそれもまた違います。非利己的な態度について、それは利己主義と変わらないとフロムは批判しています。非利己的な母親に育てられた子供について、フロムは以下のように述べています。
「非利己的な」人は「自分のためには何も欲しがらず」、「他人のために生き」、自分自身を重要視していないことを誇りにしている。ところが、非利己的であるにもかかわらず幸福になれず、またごく親しい人々との関係にも満足できないので、当惑している。(略)
(非利己的な母親に育てられた)子供たちは、愛されていると確信している人間が見せるような幸福な表情を見せない。彼らは不安におびえ、緊張し、母親に叱られることを恐れ、何とか彼女の期待に沿おうとする。普通子供たちは、人生に対する母親の隠された憎悪を、はっきり認識できるわけではないが、敏感に察知し、それに影響され、ついにはそれにたっぷり染まってしまう。(略)
母親が非利己的なので、子供たちは母親を批判することができない。子供たちは、母親を失望させてはならないという重荷を科せられ、美徳という仮面のもとに、人生への嫌悪を教え込まれる。
前掲書 下線は足立による
所謂「いい子」で育ってしまった人ほど、もしかすると思い当たる節があるかもしれません。
こうした非利己的な母親も、つまるところ人生を嫌悪している、フロムの言葉は人間の様相を浮き彫りにしているかのようです。
全ての人は尊重されるとは、この世に他人事はないということ
親から「自分には愛される価値がない」と誤ったメッセージを受け取ってしまった子供は、成人後も、様々な方法で不全感を埋め合わせようとしてしまいがちです。
それは「私がどうにかしなくっちゃ!」の過剰な責任感であったり、
いつの間にか親と同じように周囲や自分をコントロールしたくなったり、
面倒なことは「なかったことにする」で逃げてしまったり、
権威ありそうなものに依存したり、
氣散じの憂さ晴らしばかりして真剣に生きようとしない等、
ありとあらゆる形を取ります。
よくよく考えればわかるように、我が子に起きてはならないことは、見ず知らずのよそのお子さんにも起きてはならないのです。「この世に他人事はない」とは、どんな人も等しく尊重されなければならない、ということとも言い換えられるでしょう。
そしてそれは、自分自身も同じなのです。
大人が自分を癒し、幸せになる意味とは
人の三大悩みはお金と健康と人間関係と言われます。この辛い状況を何とかしたい、それは当たり前の心情であり、だからこそ私たちはそれらの悩みを解消するスキルを身に着け、努力しようとします。また前もって避けられるものは避けるのは、賢明な判断選択と言えます。
しかしこの悩みが「取り除かれれば」、私は幸せになれると思っていると、死ぬまで幸せになれなくなってしまいます。何故なら、生きている限り、どんな人にも必ずついて回るからです。「これらの悩みのせいで」私は不幸だと思っていれば、幸不幸は外側の条件次第という、反応的に振り回される人生になってしまいかねません。
そしてまた、もし仮に、これらの悩みが消えてなくなれば、私たちは途端に退屈し、退屈するのを恐れて自分から、不幸の種を探し求めるかもしれません。
幸福は時として退屈で、不幸は刺激的です。また幸福は自分の心がけという、かなり地道な習慣があればこそですが、不幸でい続けるには何の努力も、心がけも要りません。
支配欲に囚われた親は、「幸福は外側から与えられる僥倖、プレゼント」と勘違いしていたために、遂に幸せになれなかったのかもしれません。その埋め合わせとして、子供を支配して、留飲を下げたような氣分になっていたのかもしれません。
親が、即ち大人が、幸せでないと、子供は「生まれてすみません」になってしまいかねません。もしくは「親の親」をやってしまい、とても悲しいことに、「やってもやっても不十分」の不全感に苛まれてしまいます。
「やってもやっても不十分」「早く大人にならなければ」の焦燥感ワーカホリック(仕事中毒)や、何事も根を詰めすぎ、肩や背中の凝りが慢性化している場合、もしかするとそれは焦燥感が原因かもしれません。心因的な症状は、心の奥底の原因を取り除[…]
エーリッヒ・フロムによれば、愛とは責任・尊重・配慮・知(関心、理解)の4条件が満たされていることです。
自分の幼少期の痛みに向き合うのは、時として惨めで悲しかった自分を再体験することでもあり、それを避けようとして、外側に活路を求めようとする、それが人間のデフォルトモードなのかもしれません。しかし、親から受けてしまった心の傷を、大人の自分が癒すことなしに、人生が好転することはやはりない、多くのクライアント様、そして自分自身を振り返っても、そのような感慨を私は抱いています。

