贅沢をしなくてもお金は日々出ていくものだから
ごく普通の生活をしている人で、お金の心配を全くしたことのない人はいないでしょう。
贅沢をせず、質素に暮らしていても日々お金は出て行きます。
売り上げやお給料が中々増えないと、先行きが不安になるのも当然です。
しかしまた、「お金にくよくよしたり執着するとお金は入ってこない」とか、「『もうお金は充分にある』と先に思えばこそ、充分なお金が入ってくる」(引き寄せの法則ですね)などと聞いたことがあるかもしれません。
確かに「お金がない、ない」と思えば思うほど、「お金のない」状況に突き進んでしまいます。
私たちは世界の全てに意識を向けているわけではありません。自分の意識が「切り取った」世界を見ています。そして「切り取った世界」の中にしか進んで行けません。「お金がない」世界を意識が切り取ると、望まないのにその世界に突き進んでしまいます。
でも現実には、貯金通帳の残高がたくさんあるわけではなく、お給料が上がるあてもないのに、どのようにして「お金は充分にある」と思えるようになるのでしょう・・・?
「お金は充分にある」とは「エネルギーはなくならない」
この気づきは「お金は充分にある」と思っている人が、必ずしもいわゆるリッチではないな、と気がつくところからスタートしました。
いいお洋服や持ち物や、車を持っていても、子供がすでに成人していて、そんなにお金が必要ではなさそうでも、「お金がない、ない」と言っている人もいます。
そしてお金に執着している人の中には、少なからぬ割合で、人間を信頼していない人もいます。
いつ何時、人に裏切られるかもしれないと思っていたら、少しでもお金を得ることに躍起になるのも自然の成り行きでしょう。
お金で全てが解決できるわけではありませんが、一方で、お金があればなんとかなることも多いからです。また悲しいことですが、「お金で人心が買える」と思う人もこの世にはいます。
しかし、人間不信のためにお金に執着している人が、「これで充分」になることはありません。
「お金は充分にある」とは「世界はエネルギーに満ちていて、常に循環し、なくなることはない」がベースになっています。
貯金通帳の残高や、お財布の中のお金がなくなることはあります。
しかし、世界からエネルギーが消えてなくなることはありません。お金もエネルギーですから、世界から消えてなくなることもありません。
空気がこの世界から消えてなくなることはないのと同じです。私たちは誰も「空気がなくなったらどうしよう」とは考えません。
世界の全てはエネルギーが形になっている、お金も
例えば、一枚の綿のタオルを例にとります。最初はこれは、一個の小さな種子でした。その種子が、太陽の光や水や土の養分を得て、そのエネルギーを変換して育ち、綿になりました。
この綿から糸が紡がれ、布になるのもエネルギーがかかっています。そしてパッケージされ、運ばれ、売られて今手元にあります。これらも全て、エネルギーが変換されています。
自然素材の物だとイメージしやすいので、綿のタオルを例にあげましたが、化学物質からなる物も同じです。
物体は静止していますので、普段は私たちは余り意識していませんが、全てエネルギーが形になったものです。
つまり世界の全てはエネルギーで成り立っています。
お金もそうです。紙幣や硬貨は、実際にはただの紙や金属です。私たちはこれらに1万円札なら1万円分のエネルギーを見ています。
そして私たち人間も尚更、エネルギーそのものです。そしてタオルや紙幣や硬貨と違って、意志や感情、行動力などのエネルギーがあります。
エネルギーはまた、そこにとどまっていては役目を果たせません。石油も燃やされなければただの油です。タオルもタンスの中にしまいっぱなしでは、ただの布切れです。
紙幣や硬貨も、物やサービスに変えなければ、ただの紙や金属です。
お金に執着してはいけない、流れを止めたら入ってこないとは、このエネルギーの性質のことを言っています。エネルギーは流し、循環してこそのものだからです。
まずは自分から質の良いエネルギーを放つ=心を込める
放たれたエネルギーはなくなりません。
高校の物理の時間に、「エネルギー保存の法則」を習った人もいるでしょう。エネルギーの形態、つまり形は変わっても、その量全体は変わりません。
一枚のタオルが手元に来るまでに、膨大な、そして様々なエネルギーが変換されています。一つ一つの形が違うから、エネルギーだとわからないだけです。
エネルギーは世界を循環しています。このエネルギーの形の一つがお金です。
ある人が「本来なら10万円の価値のあるセミナーを、敢えて無料でする。10万円以上の価値があったと参加者に思ってもらえる内容にする」と有言実行しました。
「10万円の価値があるセミナーを、ただでやるなんて、なんてお人好しな」と思う人もいるかもしれません。
しかし、そうではないのです。
10万円はものの例えでしかありません。10万円分の、或いはそれ以上の何かが、必ずその人に巡って返ってきます。それはお金かもしれないし、別の何かかもしれません。お金以外の何かで返ってくれば、それは「お金では買えない、お金以上に価値あるもの」でしょう。
このことが直観的にわかるかどうかで、無闇にお金の心配をしなくて済む、でも何もしなくても棚から牡丹餅的にお金が降ってくるわけではない、その原理原則を生きられるようになるでしょう。
「10万円の価値のあるセミナーを開催する」と言い切るまでに、その人が日々、どれほどの研鑽を積んできたか。そしてそれを敢えて無料で、しかも「10万円以上の価値があった」と参加者に思ってもらえる、その自信たるや並々ならぬものです。通常は、無料だったり安かったりすれば、「まあ、こんなものか」と参加者が内心思っても言い訳が立ちます。その言い訳を自分に許さない覚悟があればこそです。
何となくふわふわと流された生き方をしていては、こうした真剣なエネルギーを仕事に込めることはできません。
「そうは言っても、今の仕事は生活のためにやむなくついた職で、そんな情熱を傾けられない。その人は自分が好きな仕事をしているんでしょう?」と思うかもしれません。仮にそうであったとしても、折角やるのならただ漫然とやるのではなく、一期一会の心で今日やるべきことをやると、風景が変わってくるはずです。これは何でも全力投球ということではなく、優先順位/劣位順位を付けて、より大事なことにエネルギーを注ぐあり方です。
お金の心配をしない人は、このことが直観的にわかっています。
江戸時代末期の僧侶・良寛さんの逸話に、このようなものがあります。
或る藩のお殿様が良寛さんの評判を聞き、是非自分の城下の寺の住職になって、藩政を支えてほしいと懇願しました。
良寛さんは五合庵という大変貧しげな庵に住んでいたので、そのお殿様は「立派な寺を用意するから、こんな貧しい暮らしではなく、もっといい暮らしが出来ますよ」と誘いました。その時、良寛さんは「焚くほどは風がもてくる落葉かな」という俳句を殿様に贈り、その申し出を断りました。
並のセールスマンと優秀なセールスマンの違いとは
目的(子供の学費や老後の資金など)があっての貯金や、不意の出費に備えてのある程度の貯金は必要でしょう。その貯金額も、立場やライフステージによって変わってきます。自由業で収入が不安定な人ほど、サラリーマンよりも多めの貯金があった方が安心です。
しかし「恐れのために貯め込まずにはいられない」はまた別のことです。これは上記の「放ったものが返ってくる」エネルギー保存の法則に反してしまいます。エネルギーは滞り、滞ったエネルギーとは「死んでいる」ということです。
私たちは何にせよ、生きたエネルギーを込めなくてはなりません。それをしない、ということは、死んだように生きるということです。
並みのセールスマンは「どうやったらこの商品が売れるだろう」と考え、
優秀なセールスマンは「どうやったらこの商品はお客様の役に立つだろう」を考える、と言われます。
優秀なセールスマンの方が、お客様のために、お客様に向かって、邪心のないエネルギーが放たれているように感じないでしょうか・・・?そのエネルギーに恐れはあるでしょうか・・・?売り上げや、結果としての収入は、そのエネルギーが返ってきたものです。
このセールスマンの差は、スキルや知能の高さの差ではありません。それは結果として身につくものです。
ここまで読んで、もし「そうは言ってもなあ・・・、やっぱりお金の心配をしてしまうなあ」と思われたら、「裏表のないきれいな心を仕事に込めて、お金の心配をせず、それでいてお金を得ている人」を探してみましょう。直接・間接、有名無名は関係ありません。逆に「人を欺いて、短期的にはお金を儲けても、長い目で見たら人心が離れ、さみしい人生になった人」を探してみるのも良いでしょう。
一期一会の心を込めて、人様の役に立とうとし、独りよがりにならぬよう研鑽を積み、そのことに喜びを感じて生きている人が、大金持ちにはならなかったとしても、世間の誰からも見捨てられ、路頭に迷って飢えて死ぬことは起きません。
「豊かさ=お金」になっているうちは、世界を恐れというフィルターで眺めています。人間の動機は二つしかない、それは愛か恐れかだ、と言われます。恐れは生き延びるための本能であり、愛は後天的に養い育てるものです。本能なので恐れをなくすことはできません。津波が来たら走って逃げるのも、恐れという本能が生きていればこそです。
ですから、恐れ以上に、愛が上回っているかが問われます。お金に執着してしまう時は、愛が恐れを上回っていませんよ、というサインなのかもしれません。