「私はまあまあいい人に囲まれ、守られているから安全な筈だ」
人は知らず知らずの内に、自分の尺度で世界を推し量っています。「こういう時は、こうするものだ」「これが当然でしょ、普通でしょ」
そして無意識のうちにでも、自分自身を「天使ではないにせよ、まあまあいい人」だと思っていると、「私の周りにいる人も、まあまあいい人」だと思っていることがあります。「私は『まあまあいい人』に囲まれ、守られているから安全だ」そして、一旦このかりそめの安心感を得てしまうと、それを手放すのは容易ではありません。
犯罪の報道を見聞きしたり、或いはクレーマーや「困ったお客さん」に接しても、なんとなく「自分とは切り離された世界にいる人」であるかのように思ってしまいます。あたかも、TVの中にいる人が、自分とは切り離された別世界の人であるかのように。
「私の周りはみんないい人」「私はいい人に囲まれて、守られてるから安全だ」には落とし穴があります。現実の世界はそうではないからです。そして「私の周りはみんないい人」と信じておきたい誘惑が、知らぬが仏、心理学用語でいう認知的不協和を引き起こし、結果現実を見て見ぬふりをし続けます。
私たち大人は、現実を見なければ正しい判断を下せず、責任を果たしていけません。
「自分は善人で、正義の側にいる」と思いたいナルシシズムと恐れ
自分の良心・倫理観に照らして「良いこと」をなそうとするのは、人として大切なことです。
良心や倫理観をいつのまにか曇らせ、失い、周囲の人を著しく傷つけ、そして自分は全く反省しない・・・こうしたことはかなり頻繁に起きています。セッションでクライアント様の苦しみを聴きながら痛感しています。良心や倫理観は磨き続けないと、私たちは簡単にエゴに乗っ取られ、歯止めを失ってしまいます。
ただ、「良いこと」をした結果、他人から「あの人はいい人ね」と思われることと、自分が意図的に「いい人」であろうとする、「いい人」と思われたいのは全く異なります。
自分が「いい人」であろうとする、「いい人」と思われたい、裏から言えば「悪く思われたくない」から「良いこと」をするのは、相手への愛ではありません。「ほれぼれとする自分でなければ愛せない」ナルシシズムであり、また「『いい人』でいなければ、周囲からつまはじきにされるかもしれない」恐れです。
どんな人も程度の差はあれ、このナルシシズムと恐れを持っています。
どんな人にも「自分は善人で、正義の側にいる」「私は悪くない」と思っておきたい誘惑はあるものなのだ、という前提に立つことが非常に大切です。
犯罪を犯す人でさえ、「自分は悪いことをしている」とは思っていません。人間の脳はどんな理屈をつけてでも、自己正当化します。自分も決して例外ではない、と何度でも立ち返ることが真の誠実さでしょう。
そしてその上で、ナルシシズムを少しずつ脱し、また本能としての恐れは保ちつつ、別の選択肢、別の引き出しを増やす努力、これが人間としての成熟を促し、幅を広げていきます。
「真っ白か真っ黒か」「善か悪か」「0か100か」の「分裂」
ところで、自我という心の器が未熟でもろく、不快に耐える力が弱いと、人は物事を「真っ白か真っ黒か」「善か悪か」「0か100か」などの二つに分裂させて捉えてしまいがちです。
幼い子供たちが好むアニメや童話の世界には「いい人」と「悪い人」しか登場しません。世界には正義の味方と悪者しかいない、白雪姫は何から何までいい人、継母は何から何まで悪い人、そのように人間や物事を捉えています。
そして幼い子供たちは、白雪姫に感情移入し、自分も白雪姫の側にいる、と思っています。自分が継母だとは思いません。
「自分にも他人にも、良いところもあればそうでないところもあるよね」といった複雑な物の見方はまだできません。幼いうちはそれが当然です。
通常人は成長するにつれ、特に思春期の自我の目覚めと葛藤を乗り越えることを通して、「真っ白か真っ黒か」ではなく物事にはグレーの部分がかなり多いことを学びます。またこのグレーも、きれいなグラデーションではなくマーブル状になっています。
人間の成熟とは、私たちが生きている世界が非常に複雑であること、白黒すっぱりと別れるものではなく、マーブル状なのだということを、経験を通じて学んでいくことでもあります。そしてこれには、多面的に物事を見る鍛練と、複雑さに耐える忍耐力が要ります。
そしてこの鍛練と忍耐は、自我がしなやかで強くないとできません。白雪姫の世界のように、善と悪とがすっぱりと割り切れていると捉えた方が、ずっと楽なのです。また逆に、この鍛練と忍耐をすればこそ、自我が強くなっていきます。
善と悪をすっぱりと割り切り、多面的で複雑な物の見方をするという忍耐を避けること、これを心理学用語での「分裂」と言います。
この「分裂」にとどまるのは楽ですが、思春期以前の物の見方のまま、私たちの自我は成熟できず、複雑な現実世界に対応することができません。結果的に様々な、主に人間関係の諸問題を引き起こしてしまいます。
「ろくでもなく」そして「そう捨てたものでもない」自分を両方持つ
上記のように、「自分は善人で、正義の側にいる」と思っておきたいナルシシズムの誘惑は、どんな人にも起こります。そして自我という心の器が未熟でもろいと、「分裂」によりこのナルシシズムを強化してしまいます。
過剰に自分を責めたり、自己否定から抜け出せないのも、実はこのナルシシズムの裏返しです。
「分裂」により自分を善人に仕立て上げることもあれば、他人から反撃されるのが怖いため、自分を「悪い方」「ダメな方」に位置付けて、自分を攻撃し続けることもあります。これは出方が違うだけで、根は同じです。
この「真っ白か真っ黒か」「善か悪か」の「分裂」ではなく、多面的で複雑な物の見方ができるために、まずは自分の内面が「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」両方あるのだ、と頭ではなく心で感じきっている必要があります。
「誰か私の代わりにあいつに毒を盛ってくれないだろうか。そして私は絶対に手を汚したくない・・・!」こんなことを考えてしまう「ろくでもない自分」が内側にある、そしてそれには良い悪いはなく、ただそうだ、ということです。
心の中に渦巻く「自分をとてもいい人だとは思えないこと」と、どのような態度・行動に移すのかは別の次元です。
ところで、高橋たか子の小説に「誘惑者」があります。戦後まもなく、二人の同級生の自殺幇助をした女子大生の内面を描いたもので、実話を元にしています。高橋はこの事件の記事を読んだ時、「この女は私だ」と強く思い、その思いが小説を書く原動力になりました。
そして「このようなことを考えるのは自分だけではないか」と思っていたところ、多くの読者から同じ感想の手紙が殺到しました。「誘惑者」は1976年に書き下ろされました。当時は、自分の中の悪をそのまま見て、なかったことにしない日本人がたくさんいたのです。
自分をあるがままに見て、なかったことにはせず、かつ外側に出す態度は自制する。これをやっている人が「自分は善人であるはずだ」とは思いません。結果「私の周りはみんないい人」もなくなります。成熟とはこうしたことです。
この「ろくでもない自分」が内面にいながら、それでもまあまあ、社会の中で何とかやっていっているのであれば「そう捨てたものでもない」、この二つの自分を両方同時に持つこと、これがナルシシズムを脱しつつ、自分を信頼する出発点になります。
割り切れなさが葛藤を生み、葛藤を乗り越えることで自我が成熟する
自我が成熟するとは、この世界も人間も「割り切れない」ものだということを、何度も何度も受け入れ続け、そして自分は神ならざる身であり、何者でもないという、誇大感を打ち砕いていくことでもあります。
葛藤を乗り越え続けることで私たちの自我は成熟します。葛藤がなければ、私たちは今の自分を変えようとはしません。本人が葛藤していなければ、誰かが連れてきても心理セラピーはできないのと同じです。そして筋肉と同じで、脳にも現状維持はありません。
「葛藤はあるべきではない」になると、人は「逃げるか/戦うか」反応に頼ります。「逃げるか/戦うか」反応は、恐れと同じく生き延びるための本能なので、なくせません。逃げることも戦うことも、必要な時もたくさんあります。ただ、これだけに頼ると、互いの言い分をすり合わせて交渉するといった、高度な対人関係能力や問題解決能力は育ちません。
自分は「まあまあいい人」であり、自分の周りもみんないい人と思っておきたい、現実がそうであれば葛藤という不快は避けられます。しかし現実は、大多数の人は「ろくでもなさ」を抱えつつ、同時に「そう捨てたものでもない」のです。
自尊感情豊かに生きるとは、ルンルンで楽しい人生を送れることではありません。葛藤はあって当然、葛藤が自分を押し上げ成熟させることを知っている、そうした人生を生きることなのです。