他人のことは割り切れても親のことは簡単に割り切れないもの
ご相談でもっとも多いのは、親との葛藤です。これは年齢に関係ありません。
ただ若いうちは育った家庭に疑問を持たず、色々と嫌な思いはしても「そんなものか」と思っているので、まだ表面化しないようです。社会に出て、様々な人と出会った後に「自分が育った環境はおかしかったのではないか」と氣づき始めます。
私の臨床の体感では、早くて30歳ごろ、一番多いのは40代、60代で向き合うケースもあります。これはその方の人生のタイミングなので、早いのが良いとか、遅いから良くないということでは決してありません。
クライアント様は「もっと早くに氣づいていれば、子供に違う接し方ができたのではないか」と新たな後悔が湧き上がることもあります。その後悔は当然の心情でしょう。しかし確実に言えることは、成人したお子さんとも正直に、本音で向き合えるようになるということです。
自分とも家族とも向き合うことから逃げ、自分をごまかしながら一生を終える人も残念ながら少なくありません。
譬え人生最後の日になったとしても、自分と向き合えば、それは自分をごまかしたままの人生とはやはり異なります。自分が人間として生きたいのなら、自分の心の在り方は、最期の瞬間まで放棄してはいけないのです。何が大事かを見失い、言い訳とごまかしにまみれた人生は、それはもう人としての生き方ですらありません。
親のことは簡単には割り切れない、この氣持ち自体に正直になるところから始めることが、自分の心と向き合うことです。
親と自分を同一視すればこそ「変わってほしい」と願う
私たち人間は、他の動物と比べ、大変未熟な状態で生まれてきます。馬や牛は、生後30分ほどで自力で立ち上がり、すぐに歩いたり走ったりできるようになります。人間の子供は歩けるようになるまで約一年。他の動物並みに、体が育った状態で生まれるのなら、母体は三年間妊娠しなければならない、と言われています。
そうなると誰も妊娠しなくなり、種が滅亡してしまいますので、人間は「未熟な状態で生まれ、母親の庇護の元に育つ期間が長くなる」選択をしたのでしょう。
ですから、どんな子供も、生まれてからしばらくは、母子一体の境地にいます。赤ん坊が母親の姿が見えなくなると、火が着いたように泣き出すのは「自分の一部がなくなった」と思って泣いています。つまり母親と自分を同一視しています。
成長とともに、母子分離が行われ「自分と他人の違い」を認識できるようになり、「自分とは違う他人」に共感したり、交渉したりできるようになります。
この母子分離が健全に行われないと、「自分とは違う他人」が本当のところでわからないまま、体と知能だけ育ってしまいます。特別に意地悪でもない、まじめないわゆるいい人でも、「自分とは違う他人」がわからないと、結果的に身勝手なことをし、周囲を苦しめます。「自分はそれで良くても、他人が嫌がることがある」のがわかりません。何度も浮氣を繰り返し、配偶者がその度に苦しんでいるのに一向に浮氣をやめない、或いはその度ごとに口先だけで謝って見せて、本音は全く反省などしていない、などが典型です。
また人は本能的に、肉親、特に親と自分を同一視しがちです。親は子供にとって「大人の典型」であり、良くも悪くも親を見本として育ちます。親の悪口を言われると、自分を否定されたように傷ついてしまうのはこの同一視が根底にあるからです。その人の親きょうだいの悪口は言わないのは、ごく一般的なマナーです。
親のエゴ、自己保身、思いやりのなさに傷つくのは、子供が親に無条件の愛情と承認をどうしても求めてしまうことと共に、「自分も同類ではないか」という同一視からくる潜在的な恐れや失望のため、二重に傷つくのだと思われます。「自分の親がこんな人だなんて」他人にひどいことをされた時と異なるのは、この思いが消し難いからでしょう。
子供のころ、いわゆる手のかからない「いい子」だった人ほど、そして反抗期らしい反抗期がなかった人、反抗したくても親に押さえつけられたり、親が無関心で取り合ってもらえなかったりであきらめてしまった人ほど要注意です。反抗期がない、というのは「親という壁を乗り越え切れていない」ということだからです。成人しても親に遠慮があったり、他人なら抗議できたり、関わりを断てたりできても、親だと我慢してしまったりしていないか、振り返ってみるのもいいでしょう。
親との同一視、そこから来る期待が消えないと、「辛い思いをさせて、ごめんね」の心からの謝罪と、「二度と同じことは繰り返すまい」とする努力の姿勢を、無駄とわかっていても求めてしまいます。親が自分が望むような良心的な存在であれば、「自分も良心的な存在だ」と安心できる。まるで理屈に合わないようですが、この親との同一視は理屈だけで解消できるものではありません。
「どうしてほしかったか」「そしてそれは得られない悲しみ」に正直に
親への怒りや恨みは、感じて当然です。それらを全く感じたことがないのは、余程愛情深い親だったか、きれいごとでごまかしているのかのいずれかです。
まずは怒りや恨み、憎しみの感情を否定しないところからスタートです。それらの感情に罪悪感や、自己嫌悪を感じているうちは、癒しの作業は上手くいきません。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
それらの感情にOKを出せる、ということは、「怒りや恨み、憎しみを感じる等身大の自分」を受け入れるということです。怒りや恨み、憎しみを正直に感じ切って、消化するのは、例えるなら体の症状を薬で抑え込まず、熱なら熱を出し切ってしまわないと体が治癒しないようなものです。
但し、感情にあえて埋没し続けるのは、意地悪な言い方をすれば「症状が治らない方が病人氣分を味わえて、自分の責任から逃れられ、しかも周りが優しくしてくれる」疾病利得と似たようなものです。感じ切るのは癒しの必要条件ではありますが、十分条件ではありません。大人は「お母さんの馬鹿!」を何年も何十年も言い続けるだけに留まってはいけない、ということです。
ですから、その次の段階が意外と難しい作業になります。それは、「どうしてほしかったか」に正直になる、怒りや憎しみの下に隠れていた、自分の本音に氣づくことです。
自分に対する言い訳、嘘、ごまかしがあると、この作業は簡単なようで上手くいきません。日々自分に正直に生きる、安易な言い訳をしない、言い訳しそうになったら、せめて「それは言い訳だ」ということに正直になる。言い訳したくなる弱くてずるい自分をごまかさない。この習慣がベースになってこそです。
出さなくてもいい親宛の手紙・積み残し課題を果たすために
反抗期らしい反抗期がなかった人は、人生のどこかで「積み残し課題」をやらなくてはいけない時が巡ってくるようです。ずっと「親にとっての都合のいい子」のまま、人生がうまくいくことは、やはりないのです。
しかしもうその時は、親が年老いていたり、自分も分別盛りで「今更こんなことを言ったって」と自制しがちです。また既に親が亡くなっているケースもあるでしょう。
この「積み残し課題」を果たすために、クライアント様にもお勧めしているのが、「出さなくてもいいから、親への手紙を書いてみる」ことです。
これは上記の自分の正直な氣持ちを吐露すること、「どうしてほしかったか」そして「自分の正直な感情」を、日記などの「読まれないことを前提とした文章」ではなく、「相手が読むことを前提とした文章」で書くことです。文章化すると客観視できますし、仮に出さなかったとしても「親と向き合う姿勢を取った」ことは潜在意識に残ります。
出すか出さないかは、状況や関係性によりますので、クライアント様にお任せしています。世の中には「絶対に親に自分の居場所を知られないようにしている。知られたら何をされるかわからない」そうした修羅場を抱えて生きている人もいるからです。直後は親が神妙に反省した風を装っても、後から陰湿な嫌がらせをしてくることもあります。また、自分にではなく、配偶者や子供に報復の矛先が向くこともあります。その話を聞いたきょうだいが、「家族の均衡を壊した」と言いがかりをつけてくることもあります。
ですが、「望むと望まざるとに関わらず」、正直な氣持ちを伝えざるを得ない状況がやってくることもあります。その際、「どうしよう、どうしよう」と逃げてしまったり、安易な迎合に走ったりしないための手紙書きです。
実際に手紙を出すかどうかは慎重に判断する、但し、いつでも直面化できる、逃げてしまわない自分になる、ということです。
まず最初に「出さない前提」で思い切り心情を吐露した手紙を書き、その次に「出す前提」で推敲します。「出さない前提」の手紙も、自分の正直な本音を知るために、残しておくことをお勧めします。手書きの手紙を出す場合は、コピーを残しておきましょう。
相手が逆切れしたり、過剰な泣き落としをして罪悪感を刺激してきたり、要は相手が感情的になると、論点のすり替えが起こりかねません。「痛い所を突かれる」と、巧妙に論点ずらしをするのは、自我が未熟で弱いからです。それをできるだけ避けて「本当に伝えたいこと」をきちんと伝えるように推敲します。また、余り長いと「あんな長い手紙、よう読まんわ」とそのこと自体が揚げ足取りになりかねません。ですので、できるだけ簡潔に、A4で1、2枚以内に収めます。
事情をよく知っている、信頼できる友人や配偶者に読んでもらい、客観的な感想を貰い、また推敲を重ねても良いでしょう。
そしてその手紙を親が読んでも、本当に望む「謝罪と反省」は得られないでしょう。それが得られるようなら、最初からこんなことにはなっていないからです。
しかしこれには二つの効果があります。一つは、「現実に一歩踏み出した」のはクライアント様の実績になるからです。「親の都合のいい子」ではもうない、と自己認識を改められます。もう親に遠慮したり、我慢したりしない自分なんだ、と実感できるのは今後の大きな自信につながります。
「万策尽きた」と思えてこそ「明らかにする」あきらめ
もう一つは「明らかにする」というあきらめがつきます。有体に言えば「やっぱりこの人、駄目なんだ」とあきらめがつく、ということです。上記の「自分の親がこんな人だなんて」の「なんて」が取れるには、それ相応のプロセスが必要です。
心の中だけで、ああ思ったり、こう思ったりするだけでは、人は中々あきらめきれません。どうしても「もしかしたら・・」と儚い望みをかけてしまいます。
子供の自分が命がけで書いた手紙にすら、こんな反応しかできないのかと、それを目の当たりにしてようやく「期待しても無駄」と悟る。人間はそうしたものだと思います。
このあきらめは、失敗や努力や、責任を取ることを避けるがために、最初から「どうせ」の逃げであきらめることとは全く違います。
矢折れ刀尽き、万策尽きたと思えてようやく現実を「明らかにする」あきらめがつく。それに至るまで満身創痍になるかもしれません。しかしその痛みと引き換えにしないと得られないものもまたあります。
自分が傷つかないように立ち回ることは、それをしていい場面と、それをすると自分が薄っぺらな安っぽい人格になってしまう場面と、両方がある。その見極めも自尊感情においては重要です。