人は問題と目標はわかっても、課題がわからないことがしばしば
問題とは「今起きている困ったこと」です。これは悩みや不平不満と言う形で否が応でもわかります。
目標はその問題が解決された状態です。人は問題は散々口にしても「じゃあ、どうしたいの?」と問われてもすぐに返答できず、またぞろ不平不満を延々と繰り返します。ただ、立ち止まって考えようとすれば、自分である程度わかる性質のものです。
例:問題「上司と折り合いが悪い」⇒目標「上司と円滑なコミュニケーションを取れる」「上司の機嫌に振り回されない自分になる」等
この場合、目標は「自分が取り組むこと」でないと意味はありません。よくやりがちなのは「あの上司が早く異動になりますように!」をただただ願う、これは「望むもの」ではあっても目標とは言えません。
そして課題は「そのために自分が取り組むべきこと」です。この「自分が何を取り組むべきか」は、自分ではわからないことが往々にしてあります。ですから、人は専門家や、信頼を置ける先輩や友人に相談します。ただの愚痴吐きではない、この手の相談は大いにするべきでしょう。
例えば、腰痛は問題(腰痛)と目標(腰痛がなくなっている状態)はすぐにわかっても、「何に取り組むべきか」の課題は自分では判断できないことが多いでしょう。腰痛の原因はたくさんあり、それも自分では中々わからないからです。
腰痛の原因が「姿勢の悪さ」だった場合、姿勢を正す習慣づけと、その姿勢を支える腹筋と背筋を鍛える必要があります。これがその人が取り組む課題です。
腹筋背筋を鍛えるのは、時間がかかりますし、運動が苦手な人ほど面倒に思うものでしょう。ただ「面倒だなあ」とは思っても、「腹筋背筋を鍛えなければならない自分がダメだ」とは余り思わないでしょう。
肌のシミやしわを改善したいなどでも同じです。「何とかしよう」と思った段階で、シミやしわにがっかりはしても、「その自分がダメだ」とはもう思ってはいません。
しかし心のことは、自分の課題から目をそらしたい、なかったことにしたい、「そんなことありません!」「だって・・・」になりがちです。そして同じ問題は繰り返されます。
別の角度から言えば、目をそらしておきたい、耳の痛い、拒否反応が起きることほど、その人が真に取り組むべき課題です。ですから人は心の奥底では、何をすべきかわかっています。それを認めるのが怖く、先延ばしを続けて一生が終わることも少なくありません。
同じ問題を繰り返す「積み残し課題」とは
どんな人も、全ての成長課題を順当に達成できているわけではありません。何某かの積み残し課題があり、その積み残し課題が同じ問題を引き起こします。
積み残し課題とは、例えば小学校の算数で、分数で躓いたとしたら、その先の割合や比例や、図形の公式なども理解できなくなる、といったことです。その場合は分数まで遡って、理解し学習する必要があります。
外国語の習得も、母語を正しく豊かに使えないと、早期学習をさせても必ず躓いてしまいます。これも「母語の習得」が積み残し課題になっています。
心のことは、何が積み残し課題なのかはっきりわからないため、他責や自責をしておしまいになりかねません。
心の積み残し課題は、何故見て見ぬふりの先送りをしてしまうのか、以下に主だった要因を以下に二つ挙げます。
ナルシシズム
「ほれぼれとした自分でないと許してやらない」このナルシシズムがあると、自分の課題から目をそらします。注意されて逆切れするのも同じことです。「私はそんなはずはない!そんな自分じゃない!」自分の不完全さを受け入れられないためです。
ナルシシズムは心の問題にとって、諸悪の根源と言っても過言ではありません。「あるがままの自分」とは、ナルシシズムが打ち砕かれた状態であり、万人にとっての課題です。
人は全員死ぬまで途上であり、そしてまた、「その時にならないと取り組めない課題」があるのが当たり前です。管理職にならなければ、管理職の課題には取り組めず、ヒラのうちに先回りしてやっておくことはできません。
葛藤は「取り組むべき積み残し課題が残っている」時に生じます。不平不満をただ言いつのるのと、自分の積み残し課題に向き合い、自分自身を押し広げる原動力になる葛藤懊悩は、根本的に異なります。葛藤耐性を高めるのは、その都度積み残し課題を果たしていくエネルギーに昇華するためです。
それまでの生存戦略が裏目に出ることも
また人はそれぞれ独自の生存戦略で生きています。生存戦略とは「こうやれば自分は生き延びられる」戦略のことです。
例えば、向上心の強さは美徳ではありますが、ともすると「自分より優れた人、自分より先を行っている人、尊敬と共感を寄せられる人」ばかりに意識が向いていることがあります。そういう人たちにベクトルを向け、「自分も頑張ろう」と励みにするのは健全な在り方でしょう。
ただ一方で、世の中そんな人ばかりではなく、「とりあえず言われたことだけこなして、一日が無事に過ぎさえすればいい。誰からも叱られなければいい」「面倒で責任が伴うことは他人に押し付けて、自分は美味しいとこどりをして当然」「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」という人もたくさんいます。
頭ではわかっていても、心底腑落ちしていないと、全ての人に対して「自分と同じ向上心がある人だ」という前提で接してしまいかねません。そして思い通りにならない相手に傷つきます。その場合、まだ脳の中の世界は「自分よりも優れた人しか存在していない」になっています。ですから、脳の中の世界を現実の世界に合わせなければなりません。
どんなことも諸刃の剣です。向上心の強さはその人の性分なので、変えられませんし変える必要はありません。全ての生存戦略を変えなければならないわけではありません。
この場合の課題は「皆が皆、自分と同じような向上心のある人ばかりではないことを肝に銘じ、相手がどんな姿勢で生きているのかをまず見極める目を養う。そして『今のこの人にどこまで求められるか』を都度考える」もっと平たく言えば「『世の中そんなもの』と受け入れる」などになるでしょう。
他にも「頑張り屋ほど諦めが悪くなる」などもよく起こりがちな諸刃の剣です。私たちの人生には「投げ出さずに粘って頑張る時」と、「諦めが肝心の時」の両方があります。この二つをいつでも完璧に使い分けられる人はいないでしょう。しかし、この二つのバランスを取ること、少なくとも取ろうとすることは心がけ次第で誰でもできます。
それまでの生存戦略だけでは、裏目に出ることがある場合、このように新たな課題を「足していく」必要があります。この新たな課題を足そうとせず、自分の生存戦略だけにしがみつくと、どうにも変わらない外側の世界をただただ責め続けてどんどん時間が経ってしまいます。
「積み残し課題」から逃げ続けると「だって、どうせ」に
どんな人にもその時その時の課題はやってきて、それから逃げてしまうと「積み残し課題」になります。
それから逃げようとすると人は言い訳をします。「だって、どうせ」です。「だって、どうせ」を続けて自尊感情が高まることは決してありません。
この言い訳はいかにももっともらしいのですが、それが本当に妥当なことか、そうでないかは「それを続けたらどうなるか?」の結果予測の質問をすればわかります。
腰痛を治すための体操の時間がないとか、自分に合ってないとか。それを続けても「何も解決しない」のであれば、ただの逃げです。
人は本当に逃げるべきことから逃げる勇氣を出そうとせず、思考停止して言いなりになり、そして自分を大切にすることからは逃げようとします。「何から逃げて、何から逃げようとしていないか」を見極める目を養わなければ、健全に生き延びることはできません。
「積み残し課題」を受け入れてこそ、新たなスタートラインに
心理セラピーにおいて、クライアント様がこの積み残し課題と向き合うのがどうしても怖い、目を背けておきたい場合は、セッションは自ずと中断になります。心のどこかで「まだ大丈夫」と思っているからです。
腰痛の例のように、「どんなに運動するのが面倒でも、もうこの痛みはごめんだ!」と本人が心の底から思わなければ、湿布を貼ってその時の痛みをやり過ごしておしまいに、やはりなってしまいます。そして他人はそれをどうにもできません。
積み残し課題を受け入れるのにも勇氣が要ります。勇氣とは外側から分からないこともとても多く、そして勇氣のない愛はありません。
ただ一方で、痛みが伴いはしても積み残し課題を受け入れ、スタートラインに立った時点で、もう半分は解決しているようなものなのです。あとはプロセスの問題だけだからです。
このスタートラインに立つ決意をするまでが本当は長く、その間問題は繰り返されます。他人から説教されるのはこの時期です。「あんたわかってるの!いい加減にしなさい!」「少しは反省しろ!」説教されるのは耳が痛くても、「積み残し課題から自分が逃げようとしているのかもしれない」と思えると、また違ってくるでしょう。
自分を大事にして生きるとは、繰り返し繰り返し、このスタートラインに立ち続けることでもあるのです。