諦めの見極め・何か一つを諦めると道は開ける

完璧を目指して頑張ることの落とし穴

完璧を目指して頑張ろうとすると、「完璧でないこと」を許せなかったり、逆に最初から「どうせやっても無駄」で何もしないになりがちです。「取り合えず、やれることはやってみる。やりながら修正を重ねていく」くらいの柔軟性がある人の方が、結果的に何かを残せます。

理想通りにできることは、誰にもありません。理想通りにできれば、それは理想とは言わないからです。自分がある程度納得できれば、「これで良し」と手打ちにできます。そして次の段階へと、自ずと人は進みます。

しかしそうならなかった場合、「何で上手くいかないの⁉」の執着や、引いては「こんなにやったのに!何でわからないの⁉わかってくれないの⁉」の恨みに転じることがあります。そしてこの恨みに出口はなく、自分で自分の首を絞めてしまいます。自分の見方を変えない限り、いつまででも続いてしまう苦しみの一つです。

そもそも実現不可能なことを望んでいないか?

ところで、自分の住まいを決める際、社宅や学生寮でない限り、不動産屋さんに仲介してもらって物件を決めます。その際、「自分の要望が全て叶う」物件はどんな人にもなかったでしょう。

必ず何かを諦めたはずです。そして何を諦めるかは、その人によって異なります。そして何かを諦めない限り、どこにも住めません。

また結婚相談所で、「自分の理想ばかりこだわる人は、何年経っても結婚できない。現実を見られる人が結婚できる」のだそうです。これも物件探しと同じ原理です。

物件や結婚相手探しなら「そりゃそうだよね」と思えることでも、他のことでは気づかぬうちに同じことをやっている、行き詰った時はその可能性があります。つまり、そもそも実現不可能なことに執着している、ということです。

恋人に振られたが、どうしても復縁したい。自分を苦しめた親に反省して謝罪してほしい、変わってほしい。わがままで横柄なお客さんに店に来てほしくない、等々。

このようなことを願い、どうにもならなかったことに苦しんだことのない人はいないでしょう。

「どうせ」の諦めと「これは私のエゴだった」の諦め

諦めには大きく二通りがあります。最初から「どうせ」で諦めること。そしてやってみた上で、現実を「明らかにして」諦める、の二通りです。最初の諦めは簡単ですが、後者はかなり難しいものです。進軍は勢い任せでやれたとしても、撤退は状況の見極めと勇気が要ります。人は「見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じる」ので、「現実の状況を見極める」のは言葉で言うほど簡単ではありません。

殊に人間の認知にはサンクコスト、埋没費用効果が働くので「もう少し頑張れば、どうにかなるんじゃないか。ここまでやってきたんだし」と思いたがります。誰しも「やった甲斐があった」「自分の努力は報われた」と思いたい、そうでないことを認めるのが辛いのです。損切りは本能が抵抗するので、どんな人も相当に訓練しないと中々できません。

人間関係の場合は、物件探しと異なり感情が絡むので、更に損切りは難しくなります。身近な、思い入れのある相手なら尚更です。

どうすれば状況を見極めた諦めが上手くいくか、「わがままで横柄なお客さんに店に来てほしくない」のケースで考えてみましょう。この心情はもっともですが、わがままなお客さんの来店を全くゼロにするのは、やはり非現実的です。

マーケティングの基本は、ターゲットとする顧客像を絞り込むこと、その絞り込んだ顧客に「自分たちを選んでもらう」努力をすることです。その顧客像に「わがままで横柄」は入っていないでしょう。

ですが、その顧客が「わがままで横柄なお客さんに、お店の人がどう対応するのか」その対応力を評価してこちらを選んでいる、その視点を持つと、ただただ「横柄なお客さんは来ないで!私の望むお客さんだけが来て!」という子供っぽい願望から、物の見方の枠を広げられます。

実現不可能なことに執着している時、自分でも気づいてない子供っぽいエゴに、自分が支配されていることがあります。「どうせこんなこと無理」と最初から放り出す諦めではなく、「これは私のエゴだったんだな」の諦めは、自分で自分を解放するものです。

諦めるしかないことを諦めきれない時、人は後ろを向いている

諦めるしかないことを諦めきれない時、人は過去に執着し、前を向けていません。振られた恋人に執着してしまうのは最たる例でしょう。恋愛は「恋愛感情」と言われるほど、感情そのものなので、仕事のようには割り切れません。

例えば、恋人が浮気の挙句、相手が妊娠してしまい、別れを切り出されたケースです。道義的にどう考えてもおかしい、こちらは悪くないことだと、相手を正したくなる気持ちが中々収まらないものです。今までのことは何だったんだと、自分の人生を否定されたようにも思うでしょう。相手が誠意ある態度を取らなければ、それを見届けるまで矛を収められなくても当然です。

上手に諦めるためには、その怒りもまた自分の大事な個性だと、まず否定せずに認め、受け入れることです。それをすっ飛ばすと、自分で自分を否定し、それに抵抗する自分が現れて堂々巡りになります。

つまり感情的な執着が中々取れない時は、「私のこの怒りをどうしてくれる!?」と、怒りや恨みを厄介者扱いしています。「だからあなたがこの怒りをどうにかするべきだ」「どうにかするには私と復縁するしかない」と、よくよく考えれば非常におかしな、愛でも何でもない動機で相手に執着してしまいます。

怒りや恨みや憎しみを、厄介者扱いせず、大事な自分の一部と受け入れた上で、「こんな人とうっかり結婚しなくて良かった。悔しくはあるけど、結婚して子供ができた後でなくて良かった」などと、自分で自分の気持ちを整理するプロセスを踏むことが肝要です。他人が横から言っても納得できません。自分でそう思えるために、時間をかけていいのです。

大切なことは、前を向くために時間をかけているか、後ろを向いている時間が長くなりすぎていないかです。行きつ戻りつするのが人の心なので、段々と後ろから前へ向く時間が増えて行けば、それで充分でしょう。

決して諦めてはいけないこと・諦めざるを得ないこと

ところで、実現不可能なことは全て諦めるべきだ、というわけでは決してありません。道義上、実現可能か不可能かは関わりなく、決して諦めるべきではないことも存在します。

今、自民党の憲法改正案では、基本的人権の尊重が丸々削除され、緊急事態条項を創設しようとする動きがあります。これを通してしまったら、日本はもう終わり、中国と同じ全体主義国家になってしまいます。人権も自由もない、市井にいながら囚人と同じ扱いです。

無理とか無理じゃないとかに関わりなく、これは絶対に阻止しなければなりません。憲法改悪のためのコロナ騒動であり、度重なる緊急事態宣言や、蔓延防止措置なのです。このからくりに気づいた人たちは、日々声を挙げています。

また、どんなに止めても家族がコロナワクチンを打ってしまった場合、それで全てを諦めきれず、何とか解毒の努力をするのも同じでしょう。解毒は本人がその気になることが一番ですが、同居家族の場合は、解毒に効きそうな飲み物、食べ物を供することができます。

今の段階では、解毒の方法は皆手探りです。根治療法はなく、対症療法を死ぬまで続ける必要があります。しかし決して諦めずに、「体内に仕掛けられた時限爆弾の針を押し戻し続ける」努力は、人として当然のことです。

また一方で、お子さんと「ワクチンを打たない」約束をしていたのに、お子さんが親御さんに内緒で打ってしまった、そんなケースもあります。老親が打ってしまった場合だと、「もう歳に不足はないから」とある意味諦めも付きやすいですが、まだ歳若いお子さんだと、親御さんの心痛は察して余りあります。

つい「私の子育てが悪かったのでは」と自分を責めがちになるかもしれません。「もっとああすれば、防げたのではないか」そうした思いがよぎるのも無理からぬことです。

ただ、人の選択決断は、多くの無数の要因が絡み合っています。今このページに辿り着き、読んでくださっているのも、ご自分でも数えきれない無数の要因の結果です。

お子さんの選択の要因の一つに、親御さんの子育てがあったかもしれないし、そうでないかもしれない。誰にも断言はできません。しかしそのやり方が違っていたら、別の結果になっていたかは、また誰にもわかりません。この「わからなさ」を受け入れるのも、決してたやすくはない諦めの一つです。

諦めがたいことを諦める場合、オール・オア・ナッシングだと、「こんな人生、生きていても意味がない」になりかねません。全てを諦めるのではなく、何か一つを諦めてみる、そうすると道が開けることがままあります。

前向きに生きている人は、わくわくルンルンとか、嫌なことは考えないなどの、本当はただの現実逃避をやっているのではなく、諦めの見極め方に長けています。それが成熟した大人、ということでしょう。

諦めがたいことを諦める痛み・運命への恭順

頑張り屋ほど、実は諦めが悪いです。どんなことも長所は短所であり、短所は長所になり得ます。私たちは子供の頃、努力することは教わっても、これまで書いてきたような諦め方は教わっていません。教える大人の方も、それを上手にできる人の方が少ないからです。

諦めがたいことを諦める時、痛みが伴います。自分にとって大事なことであればあるほど、痛みが激しくなります。その痛みを抱えながら生きる力を養うことも、成熟した諦めのために必須ですが、これを教えてくれる人もまた中々いません。

その受け入れがたい痛みを受け入れつつ、諦める、それが誰にとってもたやすくはない運命への恭順であり、その運命への恭順が、私たちをしてこの世的なものを超えさせ、真の意味で謙虚にさせます。この世的なものとは、「今だけ・金だけ・自分だけ」「自分の会社や業界、自分や家族だけが滞りなく、かつ誰からも非難されずに生きられれば後は知らない」といった、非常に狭い世界観です。ただの善意の人では、うっかりするとこの狭い世界観に埋没し、子孫にひどい社会を残してしまいかねません。

私は、最後は「天に通ずる」生き方ができるかだと思います。天とは「今だけ・金だけ・自分だけ」とは正反対のものです。勿論それは、必ずしも特定の宗教を信仰することではありません。非常に狭いこの世的なものを超え、天に通ずる生き方が自分のものになった時、何を大事にするべきかを本当の意味で悟り、そして困難に際して怯まない勇気が湧いてくるのだと思います。

【音声版・自尊感情を高める習慣・6回コース】

1回約20分、6回コースの音声教材です。

第1回 自尊感情とは何か。何故大事か
第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
第6回 人生が変わるのは知識ではなく氣づき

第1回目は無料で提供しています。まず一週間、毎日聴き、ワークに取り組んでみて下さい。その後更に日常の中で実践してみたくなったら、6回分の音声教材(税込5500円)をご購入下さい。

🔗第1回・要約・氣づきメモ

6回分ご購入をご希望の方は、以下のフォームよりお申し込み下さい。

    弊社よりメールにて、振込先口座をご連絡します。振込み手数料はお客様負担になります。入金確認後、6回分の音声教材とPDFが表示される限定公開のURLとパスワードをメールにてお送りします。

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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。