「べき・ねば」だけで自分を鞭打ち続けると
「きちんとしている」「ちゃんとしている」と自他ともに認められている人は、自分勝手なことは決してしないし、常識やマナーをきちんと守り、周囲からの信頼が厚いでしょう。
しかしその「きちんとした」行動や態度が、「こうするべき」「こうしなければ」「これはするべきではない」などの「べき・ねば」ばかりで自分を縛っていると、やがて疲れてしまいます。
そして「べき・ねば」ばかりが動機になっていると、以下のような「のにのに」が増えてしまうことがあります。
「こんなに私は頑張ってるのに、どうして他の人は頑張ろうとしないの?」
「私はちゃんとやってるのに、悪くないのに、どうしてわかってくれないの?」
「こんなに我慢してるのに」
「こんなに犠牲にしてるのに」
そしてまた、「こんなことを感じたり思ったりするべきではない!」とまた「べき・ねば」で抑えつけると、やがて「のにのに」ちゃんが進撃の巨人のように膨れ上がり、暴走したり、爆発してしまうことがあります。
「何で私ばっかり!」
「どいつもこいつも!」
「私が(この世で)一番大変な思いをしている!!」
・・・ともすると、被害者意識が爆発してしまいかねません。他人から見ると「勝手に恨みがましくなって、爆発してる」になるかもしれません。
爆発することが何がなんでも悪いわけでもありません。相手や状況によっては「雨降って地固まる」にもなりえます。しかし、必ずしもいつも上手くいくとは限りません。やはり「のにのに」ちゃんが暴走しないに越したことはないでしょう。
では、どのようにしたら「のにのに」ちゃんが暴走しないですむのでしょう・・・?
やるべきことは、誰でも、やる必要があります。やるべきことはやりながら、上記のような「のにのに」が溜まらないためには、どうしたらいいのでしょうか・・・?
自尊感情を支える自我という心の器
ところで、人間の意識には大きく分けて三つの分野があります。
一つはイド(もしくはエス)と言って「したい!やりたい!やりたくない!」という欲動をつかさどるものです。「宿題はしたくない!ゲームがしたい!」「野菜は食べたくない!お菓子が食べたい!」
二つ目は超自我と言い、「べき・ねば」はここから来ます。「ゲームは宿題が終わってから!一日一時間まで!」「お菓子ばっかり食べちゃダメ!野菜も食べなさい!」命令や禁止をつかさどります。
三つ目は自我と言って、イドと超自我の調整弁になるものです。心の器とも例えられます。「まあ、そんなこともあるか」「そうしたものだよね」と思えるのは、自我の働きによります。
「宿題がやりたくないってことも、まああるよね。でもやった方が、後々のためにはいいよね」「お菓子が食べたいのはわかるけど、野菜も食べられた方がいいよね」
自分をなだめたり励ましたりしながら、最後まで投げ出さず、結果的に「より良い方向へ」自分で自分を導けるのは、自我という心の器がどれだけ大きく、そしてしなやかであるかに左右されます。
自我が十分に成熟しないと、人の意識はイドと超自我に左右から引っ張られ、引き裂かれそうになります。
イドも超自我も、なくすことはできません。自我を成熟させて「良い加減」の調整弁を育てる、こうすると「べき・ねば」ちゃんと「のにのに」ちゃんに、大岡裁きのように両腕を引っ張られて引き裂かれることはなくなります。
良い加減ができるためには
無責任の「いい加減」ではなく、「良い加減」ができるのが、成熟した懐の深い大人のあり方でしょう。「良い加減」を「良い塩梅」と言い換えても構いません。
「良い加減」には「こういう時にはこうする」と言った、あらかじめ決まったマニュアルはありません。マニュアルがないと動けない、何でも「これってどうしたらいいんですか」の指示待ちでは、「良い加減」は育てられません。
「最低限、これをクリアできれば良しとする」根拠が伴った優先順位付けと、「これは後から挽回するべきものか。『まあ、そんなもの』で済ませられるものか」などの判断選択が伴っての「良い加減」です。
同じ失敗でも、新人なら注意はしても、余りきつくは叱らず、寛容に見守って委縮させないようにするべき状況と、「ベテランがそれでは困る」「あなたがそんな失敗をするなんて、一体どうしたの?」と深く問題視するべき状況があります。この状況判断の使い分けができるのが「良い加減」です。
また子育て中の親御さんは、「ま、いっか」がないとやっていけないことを日々経験なさっているでしょう。「この靴下、昨日履いたじゃないの」「やだー、これがいい!」(靴下で揉めてる時間なんてないし、どうせ誰も昨日も履いてた靴下だなんて氣づかないだろうし、いっか)この時自ずと優先順付けをしています。ただ、余り意識はしていないかもしれません。
この時「他のお母さんたちに『まあ、○○ちゃんたら、昨日と同じ靴下履いてるわ』と思われたらどうしよう」の、自分の評価評判を超えたところに意識を向けられるかもまた、大事な要素です。
万が一、そのようなことを思われたとしても「私はもっと大事なことを大事にしている」自負があれば、「そうなんですよ。今朝揉めてねー、ははは」と笑ってやり過ごせるでしょう。つまり「どうでもいいことに振り回されていない」境地が「良い加減」です。
「べき・ねば」に囚われている時は「これしかない」になっている
「のにのに」ちゃんが爆発するのは、それは恨みが溜まっているサインです。恨みが溜まってしまう前に、自分の限界設定をして適切に「No」を言うことの方が、もしかしたらずっと大事で、それこそ「するべきこと」ではなかったかのかを、改めて振り返ってみます。
「べき・ねば」に囚われている時、「これしかない」と選択肢を自分から狭めています。親が実家に来るように言う、或いは暗にほのめかす。自分は本音では行きたくない。「行かなかったら何が起きるか」を考えた時、「また嫌味を言われる。何か嫌な思いをする」だから行ってしまう、これだと同じことは何度でも繰り返されます。親はそれをわかっていて、脅迫しています。
親から嫌味を言われて傷つかない子供はいません。上司やわがままなお客さんなら「この人はそういう人」とスルー出来たとしてもです。自分の傷つきのみならず、親への失望に自分が耐えられない、だから折れてしまうことも起きるでしょう。
この時「親が嫌味を言って私を傷つけるのは、親の人間性の問題。私が悪いのではない。そして親への失望に耐える力を養うのは、私がやるべきこと」と境界線の内側外側を考えられたら、どう変わってくるでしょうか・・・?
「親への失望に耐える力を養うのは、私がやるべきこと」・・勿論、この力を養うのは右から左にできることではありません。しかし、この「べき・ねば」には、自分なりの納得と、「そうした方が、より良い人生を生きられる。より強く賢い自分になれる」と希望が持てないでしょうか・・・?
「のにのに」ちゃんが爆発する「べき・ねば」は、本音のところでは自分が納得できていない、自分の人生が良い方向へは行っていない、それを教えてくれているのかもしれません。
「ちゃんとやれている(はずの)自分を自分が見たい」になっていないか
上記の例は「親からそうするように仕向けられる」でした。親であっても他人なら、付き合いをやめればなくなることです。
しかし他人がどう言う、どう思うではなく、「自分がちゃんとやれている(はず)!」と思いたくて「べき・ねば」で自分を縛っていることも少なくありません。これは真面目に頑張っているつもりで、実際には誰のことも見ていないナルシシズムなのです。
或るレディス・コミックで、海外からのクライアントのアテンドを上司に命じられたOLの話があります。おもてなしの計画を立て、その計画通りにクライアントをあちらのレストラン、こちらの景勝地へ連れて行こうとしますが、そのクライアントは計画外のところに行きたがります。「もうそろそろ、そこは切り上げて次のところに行かないと・・」とクライアントをなだめようとする主人公のOLに、上司はこう叱ります。「君は相手を見ていない」
「君は自分の思い通りに事が進まなければ、満足しないのか。それは自己満足であって、仕事ではない。君は一体何を見ているんだ?」
・・・こうしたことは、うっかりすると誰でもやってしまいます。ナルシシズムは、小さくなることはあっても消えてはなくならないからです。「ちゃんとやれている自分を自分が見なければ、自分が安心できない」これは実際には誰のことも見ていません。そして厄介なことに、それに自分で氣づけません。
何でもクライアントの言いなりになって、迎合すればよいのではありません。この上司はこうも言っています。「ホスピタリティとは相手の願いを読み解く能力だ」このホスピタリティがなかったことを叱っていたのです。相手の願いを読み解きつつ、こちらの限界設定を提示して、すり合わせればwin-winになります。
このOLは、上司がこのように叱ってくれたから、その時は泣く思いをしましたが、彼女の氣づきと成長になりました。現実には「私がこんなに一生懸命考えて、アテンドしようとしているのに!」の方が、起きがちかもしれません。
誰の何のための「べき・ねば」か
その「べき・ねば」は誰の何のためになっているのか。私たちは「べき・ねば」で頑張っているつもりに満足してしまい、誰のことも見ていない、その罠に嵌ったことのない人もまた、いないでしょう。「相手の願いを読み解こうとする」これは当たり前のようで、「ちゃんとやれている自分を見たい」打算があると決してできません。
そしてまた、上述した「良い加減」こそ、こうした時に大切な役割を果たします。「予約した店へのキャンセル料を払ってでも、長い目で見れば自社の業績UPになり、目先の損失は充分取り戻せる」「後でキャンセル料のことを上司に言われても、『より大事なことを、私は大事にした』と言える」
アテンドのような少々大きな事柄だけでなく、上記の靴下のような小さなことから「より大事なことを、大事にする」その不断の心がけが、「べき・ねば」ちゃんと「のにのに」ちゃんをなだめてくれる、「良い加減」を育ててくれるのです。