慢性的な意欲の低下を招く「都合の悪い自分」の追い出し
特に思い当たる節がないのに、慢性的にやる気が起きない、意欲が低下している場合、「あるがままの自分で良いと思えていない」が原因になっているかもしれません。
(尚、意欲の低下には様々な原因が考えられます。貧血や更年期障害、タンパク質やビタミン・ミネラルなどの「脳の栄養不足」、スマホの見過ぎで脳の海馬という記憶メモリーがパンク気味になっているケースや、減塩のし過ぎも原因になり得ます。精製塩ではない、天日塩を一日の合間に時々少量舐めるとシャキッとします。)
自分の中にはたくさんの自分がいます。誰だって家から追い出されれば生きていけないように、どんな自分も「自分という家」から追い出されれば生きていけません。一方で、適宜家の外の世界に触れなくては、これもまた息が詰まって死んでしまいます。
「都合の悪い自分」を自分の外に追い出そうとする、いじめてなかったことにしようとする、追い出された自分は家の外から何度も戸を叩いたり、窓を破って侵入しようします。これが体の症状や、不適切な行動化として現れます。
また、追い出された自分がやがて疲れ果て、ドアにもたれかかります。そうすると今度は、その他のたくさんの自分が家の中に閉じ込められてしまいます。追い出された自分も、その他の自分も「何もできない」、これが意欲の低下に繋がります。
何かが上手くいかなかった時、「次はこうしよう」と未来につなげる考え方をしたり、「これは残念だけど受け入れるしかないね」と自分に寄り添うのではなく、ただただ「都合の悪い自分」に対して「あんた出ていけ」をやり続けて、意欲が湧くはずがないのです。
「欠けた丸を埋めなくちゃ」だと自分にダメ出しをやめられない
「都合の悪い自分」を追い出したいとは、「ほれぼれとする自分でないと認めたくない」のナルシシズムが根本原因です。そしてこれは、一見自分に厳しい完璧主義のように見えます。周囲も自分もそう思っているかもしれません。しかし実は「この世のどこかに『完璧な自分』が存在する筈だ」という、途方もない思い上がりなのです。それは自分が神になれると思っているのとほぼ同義です。その自覚はなくても。
そして今現在の自分は「完璧ではない」⇒「欠けた丸だから、その欠けを埋めなくてはならない」に取りつかれてしまいます。そうなると自分にダメ出しをやめられません。
自分にダメ出しをするに留まらず、他人を支配したり或いは依存したりして、振り回し屈服させて「自分の欠けを埋める」ことに使うことも大変多いです。「かまってちゃん」や「察してちゃん」はその典型です。
学習とは小さな丸の上に、大きな丸を重ねること
「自分は『都合の悪い自分』も含めて、丸なんだ」というのが「あるがままの自分を大切にする」ということです。そのことと、その時の状況にふさわしい判断選択をする責任は、大人である以上ついて回りますし、目先の損得や安心だけに飛びつくと必ず将来に禍根を残すので、常に視野を広げ続ける勉強が必要なのは別のことです。そしてまた、百発百中で正しく判断できる人はこの世にいません。
自分の成長とは、「欠けを埋める」ではなく、「丸を大きくする」即ち木の年輪を重ねていくようなものというのが、意欲の低下を招かない向上心の持ち方です。
生まれたての赤ちゃんは完全な丸ですが、小さな小さな丸です。赤ちゃんは私たち大人と違って、「こんな何もできない自分じゃ恥ずかしい」「よちよちとしか歩けない自分はかっこ悪い」などの虚栄心は抱きません。だからこそ、赤ちゃんはこの小さな丸の上に次々と学習を重ねて、大人とは比べ物にならないスピードでぐんぐん大きな丸になっていきます。
そして学習とは、全く初めてのことを学ぶようでも、実は以前に学習したことの応用を私たちは行っています。例えば、英語の学習を始めた時、英語そのものは初めてでも、「言葉を学ぶ」ことは以前に習得しています。英語の学習もその応用です。海外旅行は初めてでも、国内旅行はしたことがあるでしょうし、国内旅行が初めての時も、知らない土地に行ったことはあるでしょう。
学習とは、同じパターンに違うコンテンツを重ねていくこと、つまり木の年輪を重ねるように、丸を大きくすることなのです。
失敗を恐れない人は「過去の経験の応用」を考える
失敗を恐れない、困難に怯まない人は、性格が特別勇敢というより、「新たなことに取り組むとは過去の経験を応用すること」と心のどこかで知っています。以前困難を乗り越えたパターンを引き出して、違うコンテンツを重ねています。ですから、新たなチャンレンジは「違うコンテンツを重ねて丸を大きくできる」またとない機会だと捉えています。
「行き詰った時に相談するのはどのような人が良いか」「受けたアドバイスをどのように自分の日常で実践するか」等の過去のパターンを脳内で検索して、新たな実践を重ねる、これが生きた学習です。実践を伴わない知識だけのお勉強では、年輪は大きくならず、人生は変わらず、「勉強した気分」だけが残るのはこうした理由です。
「あの時、あんなことを言ったりしたりするんじゃなかった」と思えてこそ
勿論上の図のように、いつも綺麗に丸が重なるわけはなく、歪んだりずれたり、それこそ試行錯誤しながら人は丸を重ねます。試行錯誤とは「成功するまで失敗する」ことです。そして上手な人はいきなり大きな丸を重ねるのではなく、少しずつ、修正可能な小さな丸を重ねます。つまり「小さく始める」「転んでも回復可能なかすり傷で済むことから始める」これが失敗を恐れないコツの一つです。
そしてまた、失敗にはすぐに「しまった!」とわかることと、時には数年経ってから「あんなことを言ったりしたりするんじゃなかった」と氣づくことがあります。後者の方が時すでに遅しで、その相手に謝ることもできず、後悔するものでしょう。
前者の「しまった!」は、うっかりミスだったり、ついカッとなってだったり、念入りに下調べをしなかったりが原因になっているでしょう。問題があることが問題ではなく、問題視するべきことを問題としているかが大事です。
ですから、この「しまった!失敗した!」は、「そうする/しないべきだとわかっていたこと」となります。だからこそ悔しいものですし、言い訳したりヘラヘラ笑いでごまかしたりせず、心から悔しがるべきなのです。それが自分に正直に、忠実に生きることです。
そして後者の「あんなことを言ったりしたりするんじゃなかった」の方が、心にとっては根の深い事柄になります。もしタイムマシーンに乗って、当時の自分に「そんなこと言ったりしたりするものじゃないよ」と言ったところでわからなかったでしょう。つまり「何故、それをしてはならないのか」が腑落ちしていなかったからこそやってしまったのです。
人生が変わるのは知識ではなく氣づきです。そして氣づきは、言葉にしてしまえば当たり前のことがほとんどで、誰もが「知ってるつもりになっている」事柄です。当たり前のこと、或いは知識として見聞きしていたことの意義、「何故それが大事か」がわかる、それが本当の「自分だけの学び」です。他人と比べるものではありません。
「何故それが大事か」の意義目的は、大脳辺縁系という脳の内側の部分が担います。大脳辺縁系は情動や本能をつかさどります。時間が経てば忘れてしまう知識ではなく、感情や本能が動く氣づきにならなければ、いざという時に「いちいち頭で考えずに」使うことはできません。
この本の内容そのものについては、以下に貼付したTEDのプレゼンテーション動画が、非常に端的にまとめています。素晴らしいプレゼンテーションなので、ぜひ一度ご覧頂ければと思います。[blogcard url=https://www.ted.[…]
そして私たちは時折でも、「あの時、あんなことを言ったりしたりするんじゃなかった」と思える必要があります。そうでなければ、心の成長が止まったただのロボットでしかないからです。
何故基礎が大事なのかを繰り返し知る意義
「一杯のお茶によるもてなしが、一人前にできるようになれば何でもできる」という中国のことわざがあるそうです。勿論お茶に限らず、何でもそうです。
お茶の作法でも、初心者の間は言われた通り、形から入るものですが、繰り返す内、そして時には失敗も重ねながら、「何故それが大事か」の意義目的がわかる。その理解が深まる。そうすると同じ作法であっても、お茶のもてなしに込める心が変わっていきます。
どんな分野でも、一流の人ほど「ここまで徹底するのか!」と驚嘆する程、基礎を大事にしているのはこのためです。基礎の質が低いまま、より高度な応用はできません。上記の外国語学習の例で言えば「その人が習得した母語以上の外国語は話せない」のです。
「欠けた丸を埋めなくちゃ」から、「小さな丸に大きな丸を重ねていく」「小さな丸が何故大事かの意義目的の理解が深まる」へ。そしてこの道筋は、誰と比べるものでもありません。