友達が多い=人氣者、という意味づけをしていると
友達が多い=人気者、と思い込んでいると、友達が少ない=人氣がない=友達が少ない自分はダメだ、になりかねません。口下手だったり、社交が苦手で、そうした思い込みがあると、とても苦しくなってしまいます。ですが実際には、その人が信頼に足る人物かどうかは、口が上手下手、人当たりの良しあしなどとは無関係です。詐欺師は口が上手で人当たりが良いですし、顔が広いことと人望があることとは必ずしもイコールではありません。
自分の価値観や信念を明確にして生きれば生きるほど、次第に「腹を割って話せる人」が逆に減ってくることも起こります。大した信念も持たず、決められたことだけをこなして、いわゆる「世間並」でいられたらそれで充分という生き方をしてる人とは、話が噛み合わなくて当然です。
そんな時、他人から「あんた変わってるね」とか「お前はへんこ(大阪弁で頑固で偏屈という意味)やなあ」などと言われると、「私がおかしいのかな・・・」と気になる人もいるでしょう。
結論から言えば、「変わっている」ことで何か迷惑をかけているのでさえなければ、氣にする必要は全くありません。
誠実に人や事に向き合い、至らないところは反省し改善する、この姿勢を続けてさえいれば、過剰に人の評価に敏感にならなくていいのです。
「あんた変わってるね」は、実は言っている方も氣がつかないやっかみの場合があります。人は皆、当たり前ですが自分が理解できることしか、理解できません。理解しがたいことに「これはどういうことだろう?」と興味を持つより、「あの人は変わってる」とレッテル貼りして思考停止する方が楽なのです。
人は孤独を恐れる気持から、信念を貫くことに及び腰にままなるものです。
価値観や信念を貫くと、批判にさらされることもあります。つまり勇氣が要ります。その勇氣がないと、「寄らば大樹の陰」「長い物には自分から巻かれろ」をやってしまいます。しかし心のうんと奥底で、そんな自分を恥じている、納得できない、信じていないというねじれが起きます。
自分の信じる道を突き進んでいる人を見ると、自分の心の奥底のねじれが刺激されます。それは本来は自分自身の問題なのに、「何であんたが刺激するんだ。あんたがそんな風でなければ、私は自分のねじれに知らんぷりできたのに」と言いがかりを付けたくて、「あんた変わってる」になり、またそれを言うだけにとどまらず、誹謗中傷や、いじめになることもあります。
自分の価値観や信念に沿って生きれば生きるほど、見ている世界が高まる
価値観や信念は自己認識(アイデンティティ、自己評価、自分が何者であるか)の土台です。

能力や評価によって自信がつくのではなく、価値観や信念に沿って生きている実感によって、人は本当の自信を得ています。
そして価値観や信念に沿って生きれば生きるほど、その価値観・信念はより深まり、精度が高くなっていきます。
人は自分の価値観や信念で、世界を「切り取って」見ています。高い価値観・信念を持てば高い世界を、低い価値観・信念であれば低い世界を「切り取って」見ています。
以前は話が合って仲良くしていた友達でも、見ている世界が変わってくると、「何か話が噛み合わない」ようになります。これは致し方ないことです。
その時、互いに自立していればそれとなく自然に離れられますが、そうでない場合が厄介です。
「敵は恐るるに足らず。甘言を弄する友を恐れよ」(アルバロ・オブレゴン メキシコの将軍・大統領)
自尊感情が高まると、自分でも氣づかないうちに存在感が増します。自分からは目立とうとはしない、例えばリア充自慢などしませんが、逆説的に「自ずから目立つ」ようになります。
これは望ましいことではありますが、好事魔多し、世の中そう生きようと努力している人ばかりではありません。
意識的な努力は、かなりエネルギーを使います。それを面倒に思うけれど、「他人の褌で相撲を取りたい」「おこぼれに預かりたい」美味しい思いはしたい人は枚挙にいとまがありません。
上記のように「あんた変わってる」とやっかんだり妬んだりして、足を引っ張ろうとする人も現れます。
やっかみや妬みを、そのままむき出しにする人は、不愉快ではありますが、或る意味「わかりやすい」人です。「こんな人だと思わなかった!」と傷つき、残念にも思いますが、それ以上刺激せずにさっさと離れる決意をつけやすい、という利点もあります。
こんな時は、「自分が本当に価値観や信念を貫く生き方がしたいのか」を自分に問う時です。やっかみや妬みに屈してしまうようでは、自分がその程度の覚悟だったのです。
寧ろ厄介なのは、おべんちゃらを言って取り巻きになろうとする人です。こうした人たちは、いつの間にかこちらのエネルギーを奪って行きます。つまり操作して利用しているに過ぎないのですが、やはり人は共感を欲するものなので、ころりと騙されることも起きます。
心からの賞賛かおべんちゃらかは、最初から見分けがつきにくいので厄介です。
しかし、以下のような「○○の割には△△」という一貫性の無さが、違和感として感じられるでしょう。
- 「(信頼できるのは・こんなことを打ち明けられるのは)あなただけよ!」を連発する。
その割には「誰それさんから何々をもらった」「誰それさんからこんな風にほめてもらった」と、自分はこんなに人から評価されている、という話を自分からする。 - やたらおべんちゃら言う(「好きだよ」「可愛いね」「さすがだわ~」など)割には、こちらのニーズには応えない。本当に聴いてもらいたい話をすると、スマホやタブレットをいじりだす、など。異性の場合、ちやほやはするけれど自分からはデートに誘わない。「責任のある関係性づくり」をしようとしない。デートに誘ってくる場合も、間際に誘ってくる。
- 「人は素晴らしい!」「自分の周りはみんないい人」と言う割には、人の悪口を言う。或いは「誰それさんってどんな人?」などと探りを入れようとする。
- こちらが求めていない過剰な世話焼き。お節介。その割には断られると怒ったり、自分が望むような反応を相手がしないことに愚痴を言ったりする。
これらは一例に過ぎません。自分自身の「何か変な感じ・・・」「また会いたいとは思えない」などの違和感・不一致感をキャッチしておくことが大切です。
取り巻きにさせて「味をしめさせない」のも愛
自分を本当に大事にして生きている人は、取り巻きを求めません。
上述したように、取り巻きも結局は、相手を利用しているのに過ぎないからです。ジャイアンに媚びへつらうスネ夫が、ジャイアンを心から尊敬したり大切に思っているわけではありません。自分にとって損な状況になれば手のひらを返して去っていく、より有利な「取り巻きたい相手」が現れればさっさと乗り換えるのが、この取り巻きの特徴です。
自分を大切にしている人は、縁は大事にするけれど、群れることは嫌う傾向にあります。
取り巻きにさせて「味をしめさせない」のも愛であり、本当の意味での親切です。
「この人、変におべんちゃらを言って取り入ろうとしているな」と感じたら、少し距離を開けて観察することをお勧めします。観察は客観視の一環です。
勿論一回だけでは判断できないこともあります。互いの緊張を解きほぐしたいなどの理由で、「その服、素敵ね」程度の軽いお世辞を言うこともあるからです。
例えば、「嘘をつかれる」「聴いてほしい話をした時にスマホをいじりだす」が二回なり三回なり重なったら距離を置く、など自分でルールを決めておくと判断しやすいでしょう。
どんなに正論を言っても聞く耳持たずの人・利己主義者とは
向こうから絡んでくるのをどうにかしたい、だけが人間関係の悩みではありません。
自分の方が聞く耳持たずの相手に「いい加減わかれ!」をやり続けてしまい、疲弊してしまい、そして恨みが溜まる一方ということも起こります。
正義感が強く、全体のことを考えられる人、勉強熱心で能動的に動く人ほど「そんなことじゃあなたは良くても、将来の社会が困るんだけど。しっかりしてよ!」と思う氣持ちを捨てられないのも無理はありません。
利己主義者は読んで字のごとく自分の利益しか考えていない人のことです。そうした人たちは見るからに我がままとか、横柄な人とは限りません。常識的で、人当たりは優しく、一見いい人のようにも見えます。「言われたことはきちんとする」人も多いです。
しかしちょっと面倒なこととか、自分が損をすることや傷つくことにはすぐに逃げてしまう、それを何とも思わない人に、誰しも多かれ少なかれ出会っているでしょう。
利己主義者の世界観は「自分が世界から何を得られるか」になっています。極論すれば「世界は無条件に自分を守ってくれ、自分は何もしなくても与えられる」胎児の状態から脱していないのです。精神的に「生まれていない」のです。
ですから自分が好きなことや、「それをしなければ自分が損をする。人から非難される」ことはやっても、何の見返りも求めず、自分が傷つき損をしてでも、他人や社会全体に対して働きかけることは基本的にしません。共感性が低く、根本的には無責任です。「そんなことじゃあなたは良くても、将来の社会が困るんだけど」の人とは、全く話が噛み合わないのです。
この場合「この人とこれ以上関わって、未来があるだろうか?」と自分に質問します。自分の意見がどんなに正しかったとしても、「未来はない」が答えでしょう。その時腹は立っても、情けなく思っても、引き下がるのもまた勇氣です。
家族や職場の人など、関わらざるを得ない人の場合は、現実的な着地点を探します。ある人が人付き合いの濃淡を、家に例えて「門の外/玄関先/1階のリビング/2階の自室」とランク分けしていると話してくださいました。血縁者・家族であっても、皆が皆2階の自室へ招ける人ではありません。現実にはリビングで話をしていたとしても、心の中では「門の外での立ち話」にこちらがとどめておくなどです。
そして少しでも話がわかりそうな人と縁を繋ぐ、つまり未来がある方へエネルギーを注ぐ、これも当たり前のようで中々当たり前にはできません。しかし俯瞰して見れば、それこそ「どちらが将来の社会のためになるか」です。
その人自身に未来がある/ない、というよりも、自分とその人との関りに未来があるかどうか、この質問も意外と意識しないとやりません。
浅い付き合いの深い意味
友達が少ないことを悩む人、或いは、人付き合いを選ぶことに躊躇する人は、深い付き合い=良い、浅い付き合い=悪いと意味づけしていることがあります。「親密」は良いこと、「疎遠」は寂しいこと、と思っているかもしれません。
しかし、浅い付き合いだから意味がないわけではありません。
接客業の方だとよくわかると思いますが、ほとんどのお客様はその時限りの、浅いお付き合いになります。お互い顔も名前も覚えていなくて当然です。しかし、その無数のお客様との接客が、その人を作ってきました。もしお客様が一人欠けていたら、今のその人とは少し何かが違っています。
他にも、ほんの行きずりの、どこのどなたともわからない人だけれど、ふとした立派な態度に心を打たれることもあります。
それもまた、浅くはあるけれどかけがえのない人生の一こまです。
意識的に生きると「付き合う人を選ばざるを得ない」
自分が付き合っている人の平均の年収が自分の年収になるとか、付き合っている人は未来の自分像だとか言われます。
人は世界のすべてを意識することはできません。前述した通り「切り取った」世界を見ています。
そして「切り取った」世界の中にしか進むことはできません。
むやみに行動の量を増やすより先に、自分がどんな世界を「切り取って」いるかを振り返り、そしてそれを高め続ける努力をした方が、望む未来を手に入れられます。山あり谷ありはやはりあるにせよ。
こうやって、どんな世界を「切り取りたいか」を明確に精緻にすればするほど、それと共感し合える相手はそう多くなくなります。言葉を尽くして説明したとしてもわからない人も増えます。
お互いにうんとかけ離れた人同士であれば、最初から噛み合わないのでそれほど問題は起こりにくいです。むしろ、今まで仲良くしていた人に対して、信頼や尊敬の念を抱いていたのに、「何か違う・・・」と感じ始める時の方が、実は厄介です。
誰だって好き好んで仲違いがしたいわけではありません。情が絡んで離れるのが辛いと感じるのも、もっともなことです。
しかしそういう時ほど、孤独に耐え、事実を客観視する力が求められます。そして、「自分は今後、どんな世界に進んでいきたいのか」と自分に問いかけることも。
「違う」相手と無理に深くは付き合わない、「浅い」関係にとどめておくのも、お高くとまっているわけではなく、そうせざるを得ないためです。
友達は少なくても一向に構わず、それもまた意識的に生きればこその成り行きです。