他人の失敗を許せないのは自分の失敗を受け入れられないから

失敗した後、反省を促すのではなく責める人

私たち人間には、必ず大なり小なり失敗はあります。

失敗をした後、例えば上司が「次からはどうするの?」と再発防止のための反省を促すのは、上司として当然の仕事です。仮に厳しい言い方をしても、愛情があればこそ成長を促そうとします。まあまあ、なあなあで甘やかす方が、その時は楽で自分は憎まれないかもしれませんが、仕事にも部下にも自分自身にも不誠実です。

しかし、もし上司が反省を促すのではなく、ねちねちと責める場合、それは上司自身が自分に失敗をすることを許せていません。後述しますが、失敗=悪、くらいに考えています。それは「失敗なんかしない、ほれぼれとする自分しか愛せない」ナルシシズムが打ち砕かれていないためです。「自分にダメ出し」と実は根は同じです。

もしかすると自分の失敗は見て見ぬふりをしたり、ごまかしたり、誰かに尻拭いを押しつけて、自分は知らん顔をするかもしれません。これは一見自分に甘く、自分の失敗を許しているようですが、真実は異なります。失敗した自分に耐えられないから、その自分を直視できないから、失敗という事実から逃げ出しているのです。

自分に対しても、他人に対しても、「失敗は成功の元」とは考えられず、失敗を許せず、責める人、そしてまた失敗を恐れない人の心理とはどのようなものでしょうか・・・?

「失敗=悪」は「成功か/失敗か」の二択になっている

どんなことでも最初から上手くいきません。練習はそのためにあります。全ての新商品がヒットするわけがなく、「3割バッターなら首位打者」です。裏から言えば「7割お蔵入りなら上出来」です。

上述した「失敗=悪」は、「成功か/失敗か」の二択になっています。これは「0か100か」思考、もしくは「0か1か」のデジタル思考と同根です。

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ですので、成功/失敗に関して、以下の図のような世界観になっているでしょう。

ですから、失敗⇒自分がもう終わり、といった過度に単純化された思考になっています。本来、全ての物事はプロセスの上に成り立っています。それも一本の線ではなく、複数の線が交錯して走っています。恰も種子が芽吹いて草木になるのも、複数の要素(水、土壌、日光、温度、虫や鳥や微生物などの存在等)が絡み合って成長しているようなものです。その複数の交錯したプロセスに思いを巡らせず、表面に現れた事象だけで、損か得か、快か不快かで反応しています。

余談めきますが、私はスマホが「大人のおしゃぶり」と化しているのは良くないと考えています。浅い情報で頭が一杯になり、自分の頭で「思いを巡らせる」ことをせず、「0か100か」「0か1か」の単純化された思考になりやすいからです。「スマホをポチれば翌日には欲しい物が自宅に届く」のが当たり前になってしまいました。物にせよ事にせよ、その背景にある多くのプロセスに思いを馳せることを、21世紀の日本人はすっかり忘れているようです。「頂きます」「ご馳走様でした」「お陰様で」「ありがとうございます」「お疲れ様でした」これらは全て、物事の背後にある無数の尽力、プロセスに思いを馳せる姿勢です。

「成功とは失敗込みのもの」試行錯誤というプロセス

失敗を恐れない人は、「自分は失敗しない」と思っているわけではありません。上述した「成功か/失敗か」の二択になっていないのです。「失敗込みでの成功」「成功するまで失敗する、それが試行錯誤」と思っています。そしてただ闇雲にやり続けるのではなく、その中でPDCA(Plan-Do-Check-Action)サイクルを回しています。

例えば野球のピッチングの練習は、ただ漫然と投球数を稼げば上達するわけではありません。一回一回「今の投球はどうだったか」を振り返りながら、「次はどうする」の改善を積み重ねてこそ上達します。売れるセールスマンも、ただ「売れた/売れなかった」だけで終わらせません。「何が良かったか。何が良くなかったか」の振り返りを積み重ねているのも同様です。

また仕事のミスは基本が徹底されていないことから生じます。そして基本をメンバー全員に徹底することほど、エネルギーが要り、難しいものはありません。真剣に仕事をすればこそ、当たり前のことを当たり前にやる難しさがわかります。それは難しいのだとわかっている人ほど、「基本が常に徹底されるのは、人間がやることである以上、絵空事。ねちねち責めても仕方がない」とある種の諦観があります。ミスをしたその時に反省を促し、仕組みの改善はしてもです。

「成功とは失敗込みのもの」と捉えている人は、成功/失敗を以下の図のようにイメージしているでしょう。

「失敗はするもの」という前提に立たなければ、最初からPDCAサイクルを回そうとしません。「自分は完璧ではない」と思えているから、小さなほころびの内に修正しようとします。達人とは凡人の目には留まらない極々小さなほころびを見逃さず、すぐに修正してしまえる人のことです。それが凡人の目には恰も「失敗していないかのように見える」だけなのです。そして達人が恐れていることは「失敗すること」ではなく、「小さなほころびを自分が見逃してしまうこと」でしょう。

もしくは、「『会心の出来』はあっても、物事に『完璧』という究極的な成功はない」と考えている人は、以下の図のようにイメージしているかもしれません。

人は誰も皆、道半ばで倒れて死んでいきます。そのこと自体が素晴らしいこと、神ならざる人間の生きる姿です。もしそう思えていないのなら、それは「自分は神と同等だ」と思っておきたい幼児的万能感が抜けきっていないためかもしれません。

「俺に迷惑をかけるな」OR「自分も迷惑をかけてきた」

また失敗を責める人は「俺に迷惑をかけるな」になっているかもしれません。子供の頃、他人様にご迷惑を掛けて、親が代わりに頭を下げた時、或いは家の中で何か粗相をした時、「やってはならないこと、他人様に迷惑を掛けてしまったこと」を叱られたのではなく、「俺に迷惑をかけるな。俺に恥をかかせやがって」と親に怒られていたのなら、それは子供の成長を願った叱責ではありません。自分に迷惑がかかったことを不快に感じている、ただの自分の都合です。

そのように「失敗⇒俺に迷惑をかけるな」のパターンを、自分が大人になってからも、何の疑問も持たずに繰り返しているのかもしれません。

私たちはしばしば、子供の頃に誤った洗脳をされてしまい、そして無意識の内に繰り返してしまいます。その洗脳の中身が良くても悪くても、洗脳されてしまうことそのものは誰にも避けられません。しかしそれでもなお、私たちはいつまでも親や教師の影響下のみで生きているわけではありません。様々な人に出会う中で、失敗したからと言って「俺に迷惑をかけるな」という態度を取る人ばかりではないことを、自ずと経験していきます。これが経験から学ぶことです。つまり「俺に迷惑をかけるな」の人は、この意味における学習をしていません。

若い頃、或いは経験が浅い頃は、自分の失敗の尻拭いを上司や先輩にしてもらい、「穴があったら入りたい」恥ずかしさ、自分への悔しさを何度も経験します。これも若さの特権であり、若い頃の失敗は本人が思うほど恥ではありません。そして迷惑をかけ続け、だからと言って簡単に見放されなかったからこそ、今の自分があります。

「自分も迷惑をかけてきた。だから今度は自分の番。順繰りだ」と思えていれば、失敗をして反省の弁を述べている部下や後輩には「次からは氣をつけてね。そしてあなたが私の立場に立った時は、部下や後輩に同じように接してね」と言えます。余りに同じミスを再々繰り返されれば、そのことには「もう!なんぼほど同じ間違いをすればわかるの!」と業を煮やして叫ぶことはあっても。

失敗をねちねちと責める人は、「自分も迷惑をかけてきた」ことはどこかに吹っ飛び、今の自分の面子だけで腹を立てているのかもしれません。本来ならそうした人は、人の上に立つ器ではありません。ですが「仕事ができて人望がある人」が出世するわけではないのは、この記事を読まれている方には百も承知でしょう。

人の真価が問われる時

人の真価が問われるのは、平時ではなく危機の時です。順境ではなく逆境に置かれた時です。成功した時ではなく、失敗した時です。

ナポレオンがウォーターローで敗れ、イギリスの海軍に捕虜として捕らえられた時、数万のイギリス人が一目ナポレオンの姿を見ようと波止場に連日詰めかけました。
ナポレオンにより20年間も辛酸をなめ続けたイギリス人にとって、彼は不倶戴天の敵でした。
その憎い敵がついに捕らえられたのですから、イギリス人がどんなに驚喜したか想像に難くありません。

あの有名なナポレオン帽を被った彼がついに船の甲板に姿を現した時、それまで騒ぎ立っていた数万のイギリス人達は、一斉に沈黙し、波止場は水を打ったように静まり返りました。
そして、誰からともなく、一斉に帽子を取り、無言で彼に敬意を表しました。

囚われの身になったナポレオンは、意気阻喪した惨めな姿を晒してはいませんでした。
敗れてもなお、王者の誇りを失わず、敢然として自分が招いた運命を引き受けていました。
その氣迫が、数万の敵方の人々の心を打って、自然に頭を下げさせたのです。

吉野源三郎「君たちはどう生きるか」より要約

真の反省や謝罪は、実は難しく、誰もが当たり前にやれることではありません。「謝っておかなければ後が面倒だから」「自分が悪く思われたくないから」は本当の謝罪ではなく、打算です。こうした態度を全く取ったことがない人もまたいないでしょう。謝罪の前に言い訳が出たこともあるでしょう。人は皆弱く、ナポレオンのような強い人格にはそう簡単にはなれません。「あるがままの自分」とは、弱い自分を「なかったこと」にしないことです。

「敢然として自分が招いた運命を引き受ける」これは言い訳や責任転嫁や自己保身が微塵もない態度です。これらを潔しとしない高潔さを平時の内から養うのは、「日々、自分にどんな質問をしているか」に尽きます。そしてそれは「本当に大事にするべきことを、私は大事にしているか」に支えられてこそ、質の高い質問になります。そしてこの質問は、ナポレオンではなくても、誰でもやれます。ただ自分がやるかやらないかだけです。

裏から言えば、責任転嫁が如何に誰でもない自分を腐らせてしまうか。失敗に真摯に向き合う、或いは向き合わせるのではなく、ただねちねちと自分や他人を責めるのなら、滅ぶのはその人なのです。

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第2回 全ての感情を受け止め、否定しないことの重要性
第3回 「何が嫌だったか」を自分に質問する。目的語を補う
第4回 期待通りに成らない現実を受け入れざるを得ない時
第5回 小さな一歩を踏み出す・最低限のラインを決める
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    生きづらい貴方へ

    自尊感情(self-esteem)とは「かけがえのなさ」。そのままの自分で、かけがえがないと思えてこそ、自分も他人も大切にできます。自尊感情を高め、人と比べない、自分にダメ出ししない、依存も支配も執着も、しない、させない、されない自分に。