おチバこと千葉鷹志の青春
おチバの愛称の千葉鷹志は、藤堂の同級生で、藤堂と同じく岡に心ひそかに思いを寄せていました。千葉はテニスはせず、カメラと空手を得意とする新聞記者志望の青年でした。千葉は岡のテニス中のフォームを撮影することで、岡の役に立とうとします。
そんな千葉でしたが、自分の気持ちを誰にも口外しませんでした。親友である藤堂の気持ち、そしてやがて世界に出ていく岡を支えられるのは、自分ではなく藤堂しかいないことがわかっていたのでしょう。
そしてかと言って、藤堂と比べて自分を卑下していじけることもしませんでした。
千葉の気持ちは、次のような美しいモノローグに表されています。
コートの君は まるで白いカモシカのよう
君が誰を好きでもいい それは君の自由
僕も自由に君が好き君が流した血と汗は この手で正確に記録していく
そして幸か不幸か、岡も藤堂も、千葉の気持ちには気づかないままでした。
「美とはある種の衝撃」
千葉はテニスとは違う分野で、自分なりの研鑽を積んでいきます。
宗方の死後、桂からコーチを受けるようになった岡は、ある時桂から、岡の高校の後輩の神谷裕介という少年に「宗方仁から教わったものを 全部この神谷に渡してやんなさい」と告げられます。
神谷は天性の資質を持ちながら、「暴れ馬」と評されるような荒々しいプレイで、中々一皮むけずにいました。
ある日千葉は、岡と神谷のプレイをビデオに録り、二人に見せながら解説します。
「いいかい?画家やカメラマンの目は並の目と違うんだ
ほらここだ! この(岡の)オーバー・ヘッド・スマッシュだよ岡さんはだいぶネットぎわにつめてた そこへ君がロブを上げた
とっさにバックして だけど間に合わなくてジャンプして打ってる
普通じゃこの後 スッころんでるよ 腹筋が強いから立て直せるんだそれからここだ
君がうまく逆を突いて フォアへ打球を返した
それを追いかけて 思いっきり体を伸ばしてインパクト(打点)!ここでも普通じゃ このあと踏みとどまれずに転倒だ
そうでなくても 岡さんはギリギリで返球してる
これは君がリードする絶好のチャンスだところが君は追いつけないだろうと 油断して一瞬気を抜いた
その結果がこのパスだここまで見ただけでも 重大なことがわかる
ひとつは君が決めたつもりの球が 岡さんに対して決まってないこと
つまり君の目算が甘いこと」
普通なら転倒するところを、転倒しない。その背景には「腹筋が強いから立て直せる」地道な基礎の積み重ねがあることが、わかっていなければ見抜けません。そしてそれは自分も、分野は違えど地道な基礎の積み重ねをしてきてこそです。
神谷が「追いつけないだろうと油断して気を抜いた」のは、自分の粗い物差しで状況を推し量っているからです。その目の粗さを、千葉は「目算が甘い」と指摘しました。
千葉はさらに続けます。
「もうひとつは 君にはまだ美しさの意味がわかっていないこと」
「?」
「『テニスとバレエの違いは 前もって振付がしてあるかないかだ』と言われるんだが 知ってるかい?
美の極致であるバレエのポーズと テニスのフォームは同じだって言うんだ
では美とは何か?
『それはある種の衝撃だ』という見る者が呆然とする あるいは度肝を抜かれる
そういう非凡な要素がないと 人は美しさを感じない美しいだろう?岡さんのフォーム」
「はい!」
「だったら本来ならその美しさに対して君は
首がへし折れるほどのショックを受けなきゃいけない!」
PDCAのDだけやってると「頑張っている『つもり』」に
テニスに限ったことではありませんが、問題があることが問題なのではなく、問題を問題だと気づけないことが一番の問題です。
そして「美は細部に宿る」の言葉通り、どんな分野でも達人の技はさりげないものです。そのさりげなく、見過ごしてしまいそうな美に感動する心がなければ、達人にはなれません。
神谷は頑張っているつもり、上達しているつもりでした。PDCAサイクルのDばかりやっていた状態だったのでしょう。何に心を向けて、Dをするのかが肝心です。PDCAサイクルは、テニスのプレイ中であっても回していくこと。それができていれば、「リードする絶好のチャンス」を逃さずにすんだはずです。
この会話の後、千葉は神谷に空手の瓦割を披露します。「この一瞬の技から 君なら何かを学び取ると思う」千葉の神谷への信頼の証だったでしょう。15枚の瓦を一瞬で割った千葉の気合と、先の千葉の話に、神谷は深く心を揺さぶられました。
その様子を千葉は藤堂に電話で話すと、藤堂は「あいつもただ者じゃない いずれ必ずテニスの中に生かすだろう」と答えました。
望むものが得られなかった時にこそ
千葉は飄々とした雰囲気を湛えながら、藤堂やお蝶夫人らとは違う角度から、さりげなく岡を支え、見返りを求めない愛を注いでいきます。
岡と藤堂が宗方に交際を認められたずっと後に、二人がカフェテラスで寄り添うように向き合っているのを、千葉が偶然見てしまうシーンがあります。
千葉は一瞬ショックを受けるものの、やがてほっとしたような、でも少し寂しそうな笑顔を浮かべ、遠くから二人をみつめていました。
望んだものや、人からの評価を得ることだけが、人生にとっての価値ではなく、望むものが得られなかった時にこそ、その人の品位が現れます。誰にも気づかれなかったかもしれない、でも千葉の青春も素晴らしいものだったと思います。