脳は「自分に都合の良いように」現実を単純化する
総カロリーの20%を消費する脳
成人の大脳の重さは、男性では1350~1500g、女性は1200~1250gです。体重のわずか2%程度ですが、一日の摂取カロリーの20%を消費します。一日の摂取カロリーが大体2000kcalとすると400kcal、ご飯約2膳分を脳だけで消費する計算です。
ノーベル賞を取るような学者さんで、肥満体の人を少なくとも私は知りません。頭脳労働は、体を動かさなくても疲れるのはこうした理由だからです。
省エネモードは「飢餓に備える」ため
一方で、人間を含めた動物の体は、飢餓に備えるために省エネモードになっています。現代日本のような飽食の社会はつい最近のことで、人間も他の野生動物と同じく「いつ、次の食べ物にありつけるかわからない」生活の方がずっと長かったのです。
そのために「使わないもの」はエネルギーを回さなくて済むように、筋肉だろうと脳の神経細胞だろうと、どんどん「刈り込んで」衰えさせてしまいます。
滅多に書かない漢字が「読めても書けない」のは、その漢字の書き順をつかさどる脳の神経ネットワークがつながっていないからです。これも、その漢字を書く頻度が増えると、また神経ネットワークがつながり、お手本を見なくても書けるようになります。
脳は現実を「地図に置き換えて」インプットする/一般化・削除・歪曲
この省エネモードのために、脳は現実の全てをそのままインプットするのではなく、地図に置き換えてインプットします。地図に置き換える時に起きるのが、一般化、削除、歪曲です。
そしてこの脳の一般化・削除・歪曲は、その人の価値観や信念などに影響されます。皆同じ一般化・削除・歪曲が起きるわけではありません。そしてこの地図で世界を推し量っています。
価値観や信念とは「自分の好みや正しいと信じるもの」、もっと言えば「自分の都合の良いように」現実を単純化します。これはどんな人にも起きていること、この自覚を持つことが肝要です。同じ事柄を見聞きしても、脳の中には人によって違う地図になってインプットされます。コミュニケーションには努力がいるのは、こうした理由からです。
また、弊社サイトのアクセスマップと、より現実に近い国土地理院の地図とでは、当然のことながらアクセスマップの方がエネルギーを使わずに、脳にインプットできます。
地形図、写真、標高、地形分類、災害情報など、日本の国土の様子を発信するウェブ地図です。地形図や写真の3D表示も可能。…
弊社に来るだけなら、アクセスマップで十分ですが、弊社の近所の郵便局へ行くのには用が足りません。「脳の中に地図を書き換える」とは、必要に応じて郵便局の場所を書き加えるようなことです。
脳は詳細に柔軟に、あらゆる角度から考えるよりも、単純化して思考停止し、固定化する方が楽なのです。「こういう時はこうするものだ」「あの人は、私は、何をやってもダメだ」
この脳内の地図と現実が噛み合っていない時は、現実ではなく地図を変える方がずっと早いのですが、省エネをしたがると地図を変えるのが面倒なために、現実を地図に合わせようとしたり「何であの人あんな非常識なの!おかしい!信じられない!」、「どうして私の地図は役に立たないんだ!」と自分の地図を責めて終わりにしたがります。これが人間の悩みの正体でもあるのです。
失敗とは、現実と脳の中の地図が噛み合っていないことに気づかないまま、物事を推し進めた結果とも言えるでしょう。
何故人は失敗するのか、この原因の主だったもの7つを以下に見ていきます。
原因①「まだ/自分だけは大丈夫」誤った楽観主義・正常性バイアス
対岸の火事という言葉があります。どんなに悲惨な事件や事故でも、直接の知り合いが巻き込まれたのでもない限り、どこか他人事のように捉えがちなものです。勿論この世に他人事は本当はありません。しかし、この世の全ての悲惨を自分のことのように捉えていると、私たちはストレスに押しつぶされてしまいます。
「対岸の火事」は一種の防衛本能と言えるでしょう。しかしこれが現実逃避に傾くと、「まだ/自分だけは大丈夫」という誤った楽観主義に陥ってしまいます。いわゆる正常性バイアスと呼ばれるものです。
台風などで避難勧告・避難指示が出されても、避難せずに無事だったことが続いてしまうと、「避難しなくても大丈夫」の誤った学習をしてしまいます。農家の方が田んぼが気になるのは無理もないことですが、「これまでの台風でも、見に行っても大丈夫だったから」と様子を見に行ってしまい、増水した水路に流されてしまう、こうした痛ましい事故は毎回のように起きています。
現実はどんな時も、流動的なものです。似たようなことは起きても、同じことは二度と起きません。
毎回毎回、現実を見て判断する、当たり前のことのようですが、中々当たり前にはできていないことなのです。
原因② 目的を見失う・手段や目標の目的化
何かを為そうとするとき、目標や手段は変更しても、そもそもの目的がぶれては達成できません。「何のためにそれをするのか」が曖昧だと、リソースをいつどのタイミングで投入するのかがぶれてしまいます。
しかし、「手段や目標の目的化」は非常に頻繁に起きています。これは手段や目標は目に見えることですが、目的は目に見えないことだからです。脳は「曖昧なものを嫌い、はっきりしたものを好む」特性があります。この特性を最もよく理解し、活用しているのは広告業者です。
例えば、様々なショップでポイントカードが発行され、そのカードの発行枚数が目標となっているでしょう。そもそもカード顧客開拓は、そのお店のファンになってもらい、来店頻度を上げるためのものです。
しかし、その目的がどこかに吹っ飛ぶと、お客様が迷惑がっているのに半ば強引にカードの勧誘をしてしまう、そんなことになりかねません。これが手段の目的化です。
並みのセールスマンは「この商品やサービスは、どうやったら売れるだろう」を考え、優秀なセールスマンは「どうやったらお客様のお役に立つだろう」を考える、と言われています。両者では、そもそもの根本目的が違います。
泥臭い営業活動に心血を注げるか、「仕事だから仕方なく」やるのか、この根本目的の違いで動機が異なってきます。結果が違って当然なのです。
原因③ 過度な完璧主義/「最低限(ボトムライン)」の設定
「君は運がいいかね?」と尋ねた松下幸之助/「この程度ですんで良かった」
松下幸之助が社員を採用する際、必ず「君は運がいいかね?」と尋ね、そして「運がいいです」と答えた若者だけを採用した、という逸話があります。
運がいい、とは、都合の良いことだけが起こるとか、何でもかんでも思い通りになる、ということでは勿論ありません。望まぬことが起きても「この程度ですんで良かった」と思えるかどうかです。
レジリエンス、再起力とか超回復力とも呼ばれますが、どん底から立ち上がっていく力が人間には備わっている、ということと共に、「この程度ですんで良かった」と思える範囲内に危機を食い止められるか、その危機管理能力を磨き続けることでもあるでしょう。
「正解」を求めるとセカンドベストやサードベストを見失う
物事を「白か黒か」「○か×か」「正しいか/間違っているか」の二元論で捉えがちだと、本当はどこにもない「正解」を求めてしまいます。「正解」は一つですが、現実の問題解決には、セカンドベスト、サードベスト(次善策、三善策)を考え、柔軟に対応することが求められます。
例えば、クレーマーは最初から店頭に来ないに越したことはありません。しかし、来てしまった場合、「クレーマーが店頭に来たから全てが失敗だ!」では仕事になりません。
「出来るだけ早めに、他のお客様の迷惑にならないように、穏便にお引き取り頂く」「後々までトラブルにならないよう、禍根を残さない」そしてこれができれば「この程度ですんで良かった」になります。これは他のトラブルにも応用できます。
理想や目標を持ち、努力することは大切ですが、理想通りにできればそれは理想とは言いませんし、目標が達成したらいつまでもそこに安住していいわけではありません。
理想や目標は持ちつつ、「最低限これはクリアする」のボトムラインを、流動的な現実に応じて見極め、設定し、対処していく。その方が「唯一無二の正解を求め続ける」ことよりも、現実の責任を果たせていけるでしょう。
「自分が考える完璧」は相手が求めていることか?
過度な完璧主義は、大抵の場合「自分が考える『完璧』」に過ぎません。相手が求めていないことであれば、独りよがりです。即ち独善であり、実はエゴなのですが、往々にして滑稽なことに「自分は自分に厳しい人間だ」と思い込んでいたりします。
納得いくまで手を入れたい、その気持ち自体は悪くはありませんが、「これは相手や状況が求めていることか」の想像力とセットになっていないと、独善に陥ってしまいます。独善に陥ることも失敗の原因の一つですが、これもまた自覚しにくいことなのです。
原因④ 意識的な優先順位づけの習慣の有無
優先順位を付けるとは劣位順位を付けること
上記の原因③「過度な完璧主義」にも関係しますが、優先順位が付けられない背景には、「自分は何でもできる筈、その自分でなければ認めたくない」誇大感が潜んでいます。仕事を抱え込んでしまい、他の人に頼めないのも同じです。
優先順位を付けるとは、裏から言えば劣位順位を付けることです。劣位順位を付けられるためにこそ、「全てを完璧にはできない自分」を受け入れる自己受容が必要です。
「何が大事か」を常に念頭に置く習慣
優先順位は、状況によってどんどん変わります。人との約束の時間が迫っていたら、部屋が散らかっていてもそのままにして外出する、こうしたことはほとんどの人がやっているでしょう。津波が迫ってきたら、お化粧したりひげをそっている暇はありません。
こうした危機が迫れば、人は瞬時に優先順位を付けています。この優先順位付けを平時でも意識的に、そして習慣的に行うことが、わかっていてもなかなかできない「準備」「予防」なのです。
誰にとっても一日は24時間自分の手持ちの資源ーお金、エネルギー、人脈、知識・スキル、そして時間ーを一日の中でどう割り振るか、これを意識的に考えて実践するのが、流されずに生きる、主体的に生きることです。特に時間は、誰にとって[…]
「準備」「予防」を、常日頃からより多く効果的にした人が結果的に成功します。「準備」「予防」なしに、物事がうまくいくことはないでしょう。あったとしても、一時的なもの、根無し草にようなものです。そのためにこそ「何が大事か」を常に念頭に置き、行動する習慣が不可欠です。
そして「何が大事か」は人に相談することはできても、決めるのは自分しかいません。
原因⑤「今できる小さなこと」細分化の不徹底
木を見て森を見ず/森を見て木を見ず
「木を見て森を見ず」という言葉があります。細部に気を取られて全体像を見失うこと、手段だけに意識が向きすぎて、そもそもの目的や目標を見失うことです。「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」で振り回されている状態です。
逆に「森を見て木を見ず」も、実はよく起きています。
すぐに行動に移せない人は、物事を大きな塊で捉えている傾向があります。掃除や片付けが上手な人は、口をそろえて「目についた時に、さっとやる」と言っています。部屋の片づけも、「出したペンをペン立てに戻す」「玄関の靴を揃え、履かない靴は靴箱にしまう」など、小さなことの積み重ねです。
失敗は実は、小さなことの見逃しに端を発していることがとても多いです。ねじ一本、パッキンひとつの不備を早く気づいて取り替えていれば、大事に至らずにすんだ、これは物に限らず人間関係でも同じです。決定的な亀裂が入る以前に、小さなサインはあちこちで出ているものです。
小さな「ねじ一本、パッキンひとつ」を見逃さないためにも、これも常日頃から「塊を小さくする」細分化の習慣が必要です。細分化して行動に移す、細分化したことが積みあがっていくと部屋が片付く、どんな大きなことも、小さなことの積み重ねです。大事を為す人は小事を決して軽んじません。
しかしこれも、「脳は大まかにざっくりと、単純化したがる」特性のために、そして「小さなことの大切さがわからない」間は、どんな人もかなり意識的にやらないと身につきません。
原因⑥「これをしたら/しなかったら」どうなるかの結果を考えていない
恒常性(ホメオタシス)と現状維持バイアス
生物に備わっている恒常性(ホメオタシス)と呼ばれるものがあります。生命と肉体を守るために、体温や血圧、脈拍、免疫や消化機能などを、「外部からの刺激にかかわらず」一定に保とうとする働きです。暑いと汗をかいたり、寒いと身震いするのも、体温を一定に保とうとする恒常性のためです。
生きていくために不可欠な作用ですが、物事の捉え方にもこの恒常性が働くと、今度は「現状維持バイアス」になってしまいます。私たちは何となく「今日の続きで明日がある」かのように捉えがちです。「明朝目が覚めたら、世界が全く違っているだろう」とは考えません。しかしこれは、何の根拠もないことです。1995年の阪神大震災では、「朝起きたら世界が変わっていた」のです。
幸福にしろ不幸にしろ「慣れているもの」は、当たり前ですがなじみが良いです。不慣れなものは、これも当たり前ですが慣れるまではストレスがかかります。新生活にワクワクする、楽しいことのようですが、この「ワクワク」も実はストレスです。
要は「現状が維持されていると楽」なので、「これをしたら/しなかったらどうなるか」の結果を考えることを避け、何の根拠もなく「現状が維持されるかのような」幻想を抱いてしまいがちなのです。
結果は短期・中長期両方の視点で
人間の脳は元々、結果を考えることが苦手です。ですから、「タイムセールにて赤札から○%OFF!」「このCM終了から30分以内にお電話いただくと、☆☆をプレゼント!」に「これを買ったらどうなるか」を考えずに飛びついてしまう、広告業者はこの脳の特性を知り抜いています。
また「べき・ねば」に縛られていると、「今はしなくてもいいこと」を「やらなくちゃ!」と頑張ってしまい、自分から疲れてしまいかねません。そして「本当に大切なこと(家族に笑顔で接する、など)」がおざなりになってしまいます。
例えば、仕事から帰ってから洗濯機を回したはいいものの、疲れ果てて干す気力がない、ということも起きるでしょう。この時「今干さなかったらどうなるか」の結果を考えてみると、適切な判断が下せます。翌朝干してもどうと言うことはない、或いは、子供の体操服だけは這ってでも干す、それでいいこともたくさんあります。
ただし、原因③の「準備」「予防」に関することは要注意です。今日やらなくても、急には困りはしないでしょうが、長い目で見ると準備不足が命取りになります。
学者になることを目指していたある大学院生の女性は、アルバイトや飲み会でどんなに遅く帰ってきても、自分の研究ノートを開いて見るだけでもしていました。これも「最低限」を「細分化」して「準備」していたのでしょう。
「やらなくてもどうということはないこと」と、「今はどうということはないが、中長期的に考えると、やはりやった方が良いこと」の区別をつけることが肝要です。
コンコルドの誤謬・サンクコスト効果
人間の心理に「コンコルドの誤謬」、別名埋没費用効果(sunk cost effect)と呼ばれるものがあります。
ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をしつづけることが損失につながるとわかっているにもかかわらず、それまでの投資を惜しみ、投資がやめられない状態を指す。超音速旅客機コンコルドの商業的失敗を由来とする。
Wikipedia より
「こんなにやったのに!」
「今までのことは何だったんだ!」
とそれまでに投じたリソースが、損失につながるとわかってるにもかかわらず、というよりも、損失につながると認めたくないがために、その対象に執着してしまうようなことです。
相手の気持ちがもう冷めているのに、それまでに注いだ愛情や、時間や労力が報われないことが耐えきれず、相手を本当に好きかどうかはどこかに吹っ飛んで、何とか振り向いてもらおうと執着する、愛することではなく執着が目的にすり変わるのも、コンコルドの誤謬です。
太平洋戦争が中々終結できなかったのも、このコンコルドの誤謬によると言えるでしょう。
つまり損切りは本能的に脳が抵抗するので、かなり難しいのです。
頑張り屋ほど、この罠にはまりやすいです。コンコルドの誤謬はどんな人にも起きる、自分も例外ではないという自覚を持つとともに、「これを続けたらどうなるか」の結果を考える、そして苦い決断を下す勇気が、結果的に自分の身を守ります。
原因⑦ 学習棄却 Unlearning/成功体験を棄てる勇気
脳の学習において、曲者なのは失敗体験よりも成功体験の方です。勿論、適宜成功体験を積み、自信をつけることも大切です。
この際、ただ「これをやりさえすれば上手くいく」ではなく、成功体験の意義目的(「何故それがうまくいったのか」「その成功体験の意義は何か」)に昇華することが重要です。意義目的に昇華すると、応用が利くようになります。
しかし一方で、失敗した時の反省はしたとしても、成功した時は「良かった、良かった」のやりっぱなしになり、中々振り返りをしないことが多いかもしれません。
そして意義目的に昇華し、他のやり方でも応用が利くように引き出しを増やしておかないと、「過去の成功体験にしがみつく」ことが起きてしまいます。いわゆる老害と呼ばれるものは、過去の成功体験に縛られ、状況の変化を受け入れていないことから起きています。
学習棄却 Unlearningという言葉は、あまり耳慣れないかもしれません。パソコンやスマホのアプリをアンインストールするように、一旦学習したことを捨て去ることです。
ただ人間の脳はパソコンやスマホと違って、不合理な感情の影響を受けるので、アンインストールするように機械的にはアンラーニングができません。要は面子や虚栄心が邪魔をしてしまうのです。
学習棄却には現実に向き合う客観性と勇気と、そして「自分は自分でいい」と心から思える自己受容の三つが必要です。成功/失敗と、自分自身の価値は別物と切り離せないと、過去の成功体験にしがみついてしまいます。自分を否定されるかのように勘違いしてしまうからです。
成功したから自分は価値があるわけでも、失敗したから価値がなくなるわけでもありません。単に、その時下した決断と行動が、状況に合致したかしなかったかというだけのことです。
これは他人をも、今時風に「勝ち組/負け組」でレッテル貼りしないことでもあります。自分や他人を「勝ち組/負け組」のレッテル貼りをしていると、それ以上考えようとはしないので、学習棄却はできません。
失敗の原因は的確な状況判断を下せないこと
状況判断力とは人間の脳の本性に逆らう力
失敗の原因を7つの観点で取り上げてきましたが、集約すると「現実に即した、的確な状況判断を下せないこと」と言ってもよいでしょう。的確な状況判断を下し、その通りに行動すれば、多くの失敗が防げる筈です。
しかしこれまで見てきたとおり、状況判断はいずれも、人間の脳の本性に逆らうものです。失敗の7つの原因に挙げた要素は、人間である以上誰にでも起きます。知能の高い低いに関係なく、状況判断力を養い続けるのは不断の努力が必要であり、どんな人にとっても決してたやすくはありません。
私が「失敗は『するもの』」と考える所以です。
どんな人も愚者と賢者のグラデーションの中に
「状況判断が出来ない人間を莫迦(ばか)と言う」立川談志
「立川談志の名言・格言・罵詈雑言」辺見伝吉 久田ひさ 牧野出版より
談志の言に沿って言えば、人間は皆莫迦(ばか)ですし、そしてまた、この7つの原因を脱する努力は、どんな人も「やろうとすればできる、でもやらなければできない」類いのものです。意識的な努力次第で、誰でも賢者への道を歩むこともできるのです。
これを裏から言えば「だってどうせ、私は馬鹿だから、ダメだから」「あの人は特別だから、私と違って頭がいいから」の言い訳はできない、ということです。
どんな人も愚者と賢者のグラデーションの中に存在し、そしてこのグラデーションの中を、絶えず行きつ戻りつしています。誰かを見下したり、或いは自己卑下して現実逃避する間に、自分自身が愚者のグラデーションの方へ寄ってしまいます。
私たちの判断と選択は千年後の子孫に影響が及ぶ
ところで、歴史を学ぶことの面白さは、先祖が下した判断と選択が、否が応でも今の私たちの生活に影響を及ぼしていることを、知ることでもあります。
千年前の先祖が下した判断と選択が、今の私たちに影響が及んでいるのなら、今の私たちが下す判断と選択は、百年後、三百年後、千年後の子孫に影響が及ぶということです。為政者や権力者だけではなく、無名の市井の人々の選択も影響を及ぼします。
判断力を磨くのは、自分が失敗して恥をかきたくないとか、或いは人様に迷惑をかけないためだけではなく、子々孫々の社会のためでもあるのです。