信頼を裏切られるのは本能を脅かされること
よく「人を許した方が自分が楽になれる」と言われます。確かに、普通の心ある人なら好き好んで「許したくない」わけではありません。許せないこと自体がストレスです。どんな人も「許したいけれど、許せない」葛藤に悩むのです。
相手が意図的にやったのではない、うっかりミスや話の行き違いで起きたことなら、相手が真摯に謝り、原状回復できれば大抵の人は許すでしょう。人間である以上「私もやってしまう。お互い様だ」と許容し合わなければ誰も生きていけません。
(ミスであっても、取り返しのつかない大きな事柄であればまた別です。)
しかし、意図的に信頼を裏切られたこと、相手が嘘をついて欺いていたと知った時の心の傷は、大変深くなります。
信頼はマスローの欲求段階説の「所属と愛の欲求」に含まれます。上図の欠乏欲求は本能に属しています。ですのでこれを揺るがされると、人は「生きていけない」と感じてしまいます。裏から言えば、人は恐怖と孤独に弱く、認められないことが辛いのです。また充分な休養や食事を摂らせないなど、生理的欲求を脅かすことも、人を支配する常套手段です。
裏切った方は良心の呵責を伴わなかったとしても、裏切られた方は深く傷つくのは、信頼関係が生命線だからです。人間が社会的動物と言われる所以のひとつです。
今回は一つの事例をヒントとして取り上げます。
信頼していた人に裏切られた女性のセッションから
ある女性が、長年信頼と尊敬を寄せていた相手から、実は欺かれ、裏切られていたというご相談を受けました。
彼女の氣づきの部分の会話は以下の通りです。
(このクライアント様から「もしこれが他の人のお役に立つのなら」のたっての願いのため、記事にしました。また、個人の特定を避けるため、事実の詳細は省きます。)
クライアント様:C
C:「実はあれもこれも、嘘だったんだとわかった時は、本当にショックでした。『一生許せない!』と思いましたね。そしてあっさり騙されてしまった自分が、不甲斐なかったです」
私:「『一生許せない!』という思いを失くしたい、とお考えですか・・・?」
C:「そうですね・・。なくなったら楽になるでしょうけれど。でもあの人がやったことは、誰に対してでも許せることじゃないです」
私:「そうですよね。やった行為は、Cさんに対しても大変失礼だったし、誰に対してでもやってはいけないことですね」
C:「私がある友人に『何でこんなことをするのか理解できない』と言ったら、『僕は共感はしないけど理解はできるよ。そういう人たちって、他人はその都度の消耗品なんだよ。不信感は植えつけ放題で平気なんだ』って。
彼の言うことは、頭では理解できても、心情的にはまるで理解できないです」
私:「なるほど。私はCさんが、心情的に理解できない人でよかった、と思いますよ。それはCさんの中にないことだから、理解できないんですよね」
C:「そうですか・・ありがとうございます。だからこそ騙されてしまったのかもしれないですけど」
私:「心情的には理解できない、つまり『他人を消耗品としてみる』ことは決してしないCさんのままで、更に何があったら、次に似たような人に出会ったとき、あんな風に騙されてしまわずに済むと思いますか?」
C:「かつては『この人についていけば安心』という人が欲しかったんだと思います。その心の隙を突かれたというか。
あんまり上手いことを言う人は、眉唾ですね~(笑)。口当たりの良いことばかり言う人には『これは本当かな?』とペンディングして、すぐに飛びつかないことだと思います。どんなにすばらしい人でも、他人である以上参考意見でしかないんですよね」
私:「すぐに飛びつかない、これは客観視の姿勢ですね。その客観視をしているCさんから、Cさんを欺いた相手を今はどう思っていますか?」
C:「やったことは許せませんけど・・・。でも、結局は、あの人は自分で自分をまがい物にしてしまってるんですよね。人間って、そう馬鹿じゃないし、もう騙される人も減ってくるでしょう。全部自分に返ってくると思いますよ」
私:「そうですね。人を許せない時って、相手を正してやりたくなるものですけれど、自分が自分を正そうとしなかったら、結局は全部自分に跳ね返ってくるものですね」
C:「そう思います。私が頑張ってお説教しなくていいんだなって(笑)」
行為やあり方が許せなくてもいい、それを理解できない自分でいい
少々解説めいたことを言うと、Cさんを欺いた人の行為や、あり方をよしと思わなくていい、許せなくていい、ということです。それを否定すると、相手ではなく自分を否定することになります。
それと、「自分が世界の中心に居座って、相手の間違った行為やあり方を正さなくてはいけない」ことは別だ、ということが、Cさんの腑に落ちたのでしょう。
「許せない!」と感情的になっているときは、「間違った行為やあり方を正してやりたい。でもできない」のジレンマに陥りがちです。「あんたそれどうにかしたら⁉おかしいと思わないの⁉」正義感の強い人ほどそうなるでしょう。
またCさんのお友達は「そういう人たちってこれこれなんだよ」と解説し、「教えたまわる」ことでCさんを助け導こうとしました。よく人がやってしまうことですが、大抵上手くいきません。
「頭ではわかるけど・・」になってしまいます。これで「ああ、そうですね」とCさんが納得できれば、最初から悩みはしないのです。こうしたことは、紆余曲折の上、最終的に「自分で」氣づくしかありません。
私は「Cさんがそれを心情的に理解できないということは、それがご自分の中にないからですね」と、「Cさんの心の中で起こっていること」を言語化しました。
これには、良い悪いの評価はなく、ただ「そういうことが起こっているのでは?」と示しただけです。
人は悩んでいる時、愚痴や不平不満を言葉に出しても、「自分の心の中で起きていること」がよくわかっていません。だからこそ混乱し、悩みます。
そして「そのCさんでよかったと、私は思いますよ」と「その自分でいいんだ」の自己承認のきっかけを差し出しました。Cさんはそれを素直に受け取ってくれました。
またCさんは、「自分にも心の隙があった」と自己受容することができました。道義的責任は相手にあるけれど、それを引き起こした要因は自分にもあった。だからこそ、この要因を自分でなくすことができる。この要因がなくなれば、「もうあんなふうに騙されずに済む」。そしてその自分を実感できれば、「もしまたあんなことが起こったらどうしよう」と前もって恐れることはなくなります。
Cさんは、いみじくも「『この人についていけば安心』という人が欲しかった」と述懐しました。安心を求めるのは欲求段階説の通り本能ですが、時として依存にもなり得ます。この依存心をどうするかは、Cさん自身の課題であって、Cさんを裏切った相手の問題ではありません。
「相手との間に実現しないもの」を求めてしまうと執着に
思い入れのある相手ほど、私たちはいつの間にか、「実際には実現しえないもの」を相手との間に求めてしまいます。共感、思いやり、真摯な反省と謝罪、困った行動を自分からやめてくれること、自分にもっと関心を持ってもらうこと、自分と同じ価値観を共有すること、等々。
まず、「自分は相手に何を求めているか」に正直になることが第一歩です。それがわからないと、「何だかわからないけど許せない」になりかねません。自分が相手に求めているものは、当たり前ですが自分の領域の中にあります。
但し、これを認めるのがなかなか難しいのは、「それは決して実現しない」その痛みに耐えられないからです。「私がこの痛みを感じずに済むように、あなたが変わって」をやりたくなってしまいます。
場合によっては、口頭なり文書なりで、相手に自分の真意を伝えることも必要になるでしょう。しかしそれで相手が改心することはまずありません。これは相手の改心を求めるためと言うより、自分の心の決着をつけ、相手との関係性に一定の区切りをつけるためです。認めるのが怖かった現実を目の当たりにしてようやく、踏ん切りがつくことも多いです。
「私がこの痛みを感じずに済むように、あなたが変わって」をどんな人でもやりたくなるもの、という前提にまず立ちます。その上でこの痛みに耐えられる力、「失望を抱えて生きる力」を養う必要があります。そしてその力を、生まれながらにして持っている人はいません。この力が弱いと執着になりやすいのです。
これも常日頃から、「ネガティブな感情を否定せず、受け止める」葛藤耐性を高めてこそ養えます。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
心の隙を突かれてしまうことは誰にでも
Cさんの氣づきにあった通り、客観視の姿勢や、また「自分は自分でよい」という自己受容、そして「自分の歩みを自分で認めていく」自己承認が、心の隙という騙された要因をなくすでしょう。
しかし、何が起きるかわからないのが人生です。病氣や事故、思いがけないトラブル等で、心が弱くなることも起こります。
人間を基本的に信頼していない人はやはりいるものです。そうした人は「どうやったら自分が支配されるより先に、自分が優位に立って、人を利用し、支配できるか」を常々考え抜いています。或る意味、悲しい人たちとも言えるでしょう。
悪魔ほど天使の仮面を被っています。一目で「嫌だな、近寄りたくない」と思う人は、その時は困ってもすぐ用心するので、実はそれほど怖くありません。
心が弱っているときはなおさら、心の隙を突かれることは誰にでも起こります。自分は絶対大丈夫と慢心しないことが、結果的に自分の身を守ってくれるでしょう。
畏敬の念を持って向き合わなければ、滅ぶのはその人
心の傷は、癒えた後すっかり消えてしまうものと、傷口がふさがっても跡が残るものがあります。
信頼を裏切られた心の傷は、癒えた後、普段はその存在を意識していなくても、やはり跡が残るものでしょう。それくらい、信頼とは人間にとって不可欠なものだからです。
上記のCさんのケースは、相手が他人でした。これが肉親や、配偶者、恋人であれば、その傷はもっと深くなったでしょう。
「相手もやむを得なかった、そうせざるを得なかった」とか、「自分にも原因があった」などと或る程度許容できる場合と、そうでない場合があります。
ですから、全てはケースバイケースで、根氣強く一つずつ向き合う必要があります。
ただ、人の世はそう捨てたものでもまたありません。信義に厚い人、口先のポーズではなく、日々それを生きようとしている人が、世の中の誰からも見捨てられ、孤独な人生になることもあり得ません。
物でも事でも、勿論人でも、畏敬の念を持って扱い、向き合わなければ、滅ぶのはその人です。それを他人が止めることはできません。
そしてまた、「滅んでいく人」と、関わるのかどうかを決めるのも自分です。それは家族・肉親であってもです。
無傷でいられる人生などありません。「無傷ではない自分」を受け入れていくことも、自尊感情の大切な要素です。