努力家で嫉妬や嫌がらせを受けない人はいない
真面目に努力し、結果を出せたり、人望を集めている人に、嫉妬をして引きずりおろそうとする人はやはり世の中いるものです。
「あの人にできるのなら私にだって」の良性妬みなら、切磋琢磨の原動力になります。しかしそうやって自分を押し上げる発奮材料にするよりも、「自分は努力や責任からは逃げたい。相手をへこませて引きずりおろしたい」人の方が、残念ながら世の中多いようです。
不快な感情の中でも見栄えが良くない「妬み」人間の感情は大別すると、快か不快に別れます。不快な感情は感じてはならない、と思い込んでいる人も少なくありません。[sitecard subtitle=関連記事 url=https://pra[…]
自分の良心や品位を常日頃から磨いておかないと、そうした情けないエゴに自分が乗っ取られてしまいます。そしてそれを他人がどうこうすることはできません。
こうした嫌がらせにうんざりする、傷つくのは人として当たり前の心情です。しかしだからと言って、そんな下らないことで「もうやめた」は、誰よりも自分で自分を貶め、そして嫌がらせをしてきた人を喜ばせるだけです。
これは小手先のテクニックだけでは対処しきれません。自分の在り方を再度見直し、覚悟を決め直すことが求められます。
そうした摩擦に傷つくことはあっても、ぶれない、めげない自分とはどのような在り方でしょうか?例を挙げて深掘りしていきます。
杜けあき「これで駄目だったら次はない」
1992年に宝塚歌劇団・雪組で「忠臣蔵 花に散り雪に散り」(作・演出 柴田侑宏)が上演された時のドキュメンタリー番組がありました。
トップスター杜けあきさんの退団公演でしたが、新人公演の主演を当時3番手争いに加わっていた香寿たつきさん(愛称タータン)が演じることになり、その奮闘ぶりを描いたものです。
この「忠臣蔵」は、宝塚オリジナル作品の中でも名作の呼び声高く、未だに再演されていません。当時は4組制で組子の人数が今よりも多かったため、四十七士を揃えられました。ただ人数の問題以上に、杜さんあっての大石内蔵助であり、また演出家の柴田氏が逝去されたこともあり、再演は不可能ではないかと思われます。
杜さん自身、入団10年目でトップスターに抜擢され、圧倒的な人氣を博しました。しかし、宝塚で入団10年目でトップスターは異例の昇進です。タカラジェンヌで努力をしない人はいません。だからこそ、越されたジェンヌさんたちに悔しさがなかったと言えば嘘になるでしょう。
しかし、トップスターはその組の顔であり、人氣・集客を左右する重責がのしかかります。追い越した先輩たちの顔色を窺っているようでは、この重責は果たせません。
このドキュメンタリーの中で、杜さんはこう仰っています。
タータンは何でもできる人ですから、何でもできるっていうのは、怖いですよね。
何でもそこそこまでになってしまう恐れだってあるわけだし、その時に、それをそうしないのは自分しかいないわけです。「もっともっと」と思う力というか、「これで駄目だったら次はない」と毎回思ってやって丁度だと思うんですよね。
「これで駄目だったら次はない」この覚悟があればこそ、下らない嫌がらせ(そうしたことが実際にあったかどうかはわかりませんが)はもう通用しないのです。そしてそれを生きるのは自分しかいません。誰かに言われたからそうする、では、それは覚悟とは言いません。「だってみんなが、誰それが」「同調圧力が」を言い訳にしていては、覚悟のある生き方にはなりません。
覚悟の差は意識の差であり、同じ空間にいても見えるもの・聞こえるもの・感じ取れるものが変わってきます。そしてそれがまた、意識の差を生み出します。
この退団公演に当たり、杜さんは柴田氏に演出を自ら依頼したとのことでした。柴田氏は宝塚で数多くの名作を生んだ巨匠です。そして大変厳しい指導でも有名でした。
ドキュメンタリー中、柴田氏が香寿さんに、たった一言のせりふ「姐さん」を、何度も駄目出しするシーンがあります。駄目出しされる方も辛いでしょうが、する方はもっと辛いです。そこそこで妥協してしまった方がずっと楽です。しかし敢えてそれをしないのは、芝居への情熱と、ジェンヌさんたちへの愛情があればこそです。
「名将は名将を知る」のことわざ通り、杜さんも同じレベルの人だったからこそ、柴田氏に演出を依頼したのでしょう。嫌がらせをするようなレベルの低い人が、指導に厳しい柴田氏に、自ら依頼することなどあり得ません。
最初から「この人には通用しない」在り方
悩みがある、問題があることが問題ではありません。私たちは何に悩み、何を問題としているのかが問われます。つまりそれは「大事なことを大事にしているか」と同義です。
「正しい/正しくない」から「何が大事か」へ私たちの心が深く傷つくのは、大事なものやことを傷つけられた時です。「どうでもいい」とはある種の救いで、どうでもいいことには私たちは余り悩みません。価値観のない人はいません。しかし多[…]
私たちがフラストレーションを感じるのは、悩みそのものというよりも、何か下らないことに振り回されている、同じことが何回も続く、その自分に苛立っているケースが多いかもしれません。
そしてその下らないことは消えてなくなりません。嫉妬から来る嫌がらせが、この世からなくなることはないのです。
その時私も含めた凡人は、真っ先に被害者意識に陥り、嫌がらせをする人を憎みます。そして相手に変わってもらうか、相手を排除するかに傾きがちです。現実の対処として、黙って言いなりになるだけではなく自己主張したり、被害を受けないよう距離を取るのもまた当たり前のことです。
しかしそれらは、実は対症療法に過ぎません。怪我をして出血したので傷口を押さえているだけで、そもそも「怪我をしない」とはどんなことかを考える必要があります。息長いスポーツ選手ほど「怪我をしない」ためのメンテナンスを大事にします。また或いは、嫌がらせ目的のクレーマーが、そもそも来れない店づくりに予め取り組むようなものです。
即ち、嫌がらせをされてから右往左往するのを繰り返せば、ただ疲弊するだけです。嫌がらせをしようとする人に、「この人にはかなわないな」と思わせるための「準備・予防」とは、杜さんのような心構え、覚悟で日々を生きることです。
それでもなお、心が傷つくことが起きないわけではありません。その度ごとに自分を見つめ直し、気づきを得て、学ぶ。この氣づき・学びも「準備・予防」の一環です。
そしてまた、「準備・予防」は「重要度は高いけれど緊急度は低い」ものなので、エネルギーが要り、人はつい先延ばしにして中々やりたがりません。在り方においても、「準備・予防」にどれだけ時間とエネルギーを注げるかで人生は決まります。
今回は杜けあきさんの例を取り上げましたが、答えは一つではありません。
ただ不平不満だけを言いつのるのではなく、優れた人の在り方から学んでいく、そして自分のものにしていく。こういう意味での「常に学び続ける」姿勢も、「重要度は高いけれど緊急度は低い」準備であり、自尊感情にとっては大変重要です。