家の秘密を「黙っていなければならない」プレッシャー
暴力、暴言、過干渉、親としての義務と責任を果たさない、共感のなさ、過剰なコントロール等はいずれも子供の自尊心を打ち砕き、大人になってからも生きづらさの原因になるものです。
そしてこれらの虐待そのものが罪深いだけでなく、「家の秘密を黙っていなければならない」プレッシャーは、子供の心に非常に根深い影を落とし、素直で正直で天真爛漫な「子供らしくいられること」を奪ってしまいます。自分が何を感じているのかわからなくなり、「自分が何者かわからない」アイデンティティの喪失に繋がりかねません。
また更に悩ましいのは、子供自身が「私は家の秘密を黙っていなければならなかった」と氣づけない、氣づくのを恐れることです。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」の中では、子供が家の秘密を黙っていなければならない例として、親の暴力、アルコール依存、子供への性的虐待を挙げています。他にもパチンコなどのギャンブル依存、仕事が長続きしない、親に愛人がいる、両親の不和なども「黙っていなければならない」ことに含まれるでしょう。
大人の私たちでも、特段「悪い」秘密ではなくても、例えば人事異動を前もって知っていても、辞令があるまで黙っていなければならないなど、それなりに精神的負担になるものです。辞令が下りて皆が知るところになるとホッとする、そうした経験がある方も多いでしょう。
まだ心身ともに未発達の子供が、他の誰でもない自分の親の、暗く「悪い」面を黙っていなければならない。それが何年でも続いてしまう。これがどれほど心の負担になるかは、想像に難くありません。
子供が家の秘密を黙っていなければならないとは、外の世界では「我が家はノーマルな家だ」という取り繕いをすることです。「うっかり秘密がバレたらどうしよう」と恐れるために、友達を作りたがらず、自ら孤独を深め、そして益々親との歪んだ関係に癒着してしまう悪循環になります。そうした取り繕いは、子供の心に無実の罪悪感を背負わせ、「あるがままの自分で良い」自己受容ができなくなってしまうのです。
子供らしい感情の発露を奪われる「親子の役割逆転」
(フォワードのクライアントだった)男性は、他のアル中の親を持った多くの子供と同様、周囲のすべての人がどんな氣分でいるかということに対して自分に責任があるようにいつも感じていたが、それはまさに子供の時に両親に対して感じていたことだったのである。(略)
また彼は、子供の時から正直な感情をいつも抑えつけていなければならなかったので、次第に自分の感情をのびのびと表現することができない人間になっていった。酔いつぶれた親を家人が寝かしつけるのを手伝う時、親の氣分を損ねないように氣をつかうことを覚えるようになったが、そうなるともうどちらが親なのかわからない。
このように子供が親のように行動しなくてはならない親子関係のもとでは、子供は自分が何なのかよくわからず、ノーマルなアイデンティティーの意識が育たない。(略)
このような「親子の役割の逆転」は、アルコール中毒の親に限らずほとんどすべての「毒になる親」のいる家庭で起きている。
スーザン・フォワード「毒になる親 一生苦しむ子供」下線・太字は足立による
自分の親がアルコール依存ではなかったにしても、「親の機嫌の悪さを自分がどうにかしなければならない」になっていなかったでしょうか・・・?特に暴言などなくても、親が「常に」不機嫌で辛そうな顔をしか見せない、雰囲氣が暗い家庭で起きがちです。これは例えば、「雨が降っても『ごめんなさい』と謝ってしまう」「やたら『すみません』を連発する」に現れることがあります。「親子の役割逆転」は余りにも常態化していると、成人後も自分では中々氣づけないのです。
「やたら『すみません』を連発する」は、些細なことと思われるかもしれません。ですが、本当に自分がそのことをすまない、申し訳ないと思っているかどうかは置いてけぼりになっています。「自分がそれ以上責められないために『すみません』を連発する」と、相手は自己保身と偽善を感じ取ります。自分にも相手にも不誠実であるだけでなく、益々「自分を見失う」ことになりかねません。仕事の場面では、まず「すみません」と謝らないとその先に進めないことも多々あります。それがわかった上での「すみません」と、自分を見失う「すみません」の連発を分けて考えます。
また「周囲の人がどんな氣分でいるかは自分の責任」だと無意識に思っていると、迎合的になるだけでなく、それを利用しようとする人の格好のカモになります。
境界線問題の4タイプ・迎合的、回避的、支配的、無反応境界線問題は「No」と言えない人だけのものではありません。最も「割を食う」のは、「迎合的な人」、即ち「自分が我慢すれば良い」と譲ってばかりいたり、また「怒ってはいけない」[…]
親子の役割逆転が起きると、子供は自然な感情を表現できず、自分が何が好きで、何は嫌いで、本当はどうしたいのかを見失います。結果境界線を引けずに他人に利用されて疲弊し、益々自尊感情が下がる悪循環になります。
性的虐待による罪悪感と羞恥心、不潔感に悩む子供
「家の秘密を負わされる」中でも、性的虐待は他の虐待とは異なる羞恥心、そして不潔感を子供に負わせてしまいます。幼い子供であっても「人には言えない恥ずかしいことをされた」「不潔な行為だ」と感じ取るのです。そして自分と他人の境界線がまだあいまいな子供は、「不潔な行為」を「自分が不潔だ」と混同してしまいます。
例えば大人が電車の中で痴漢行為に遭い、その行為を不潔だと感じ、そして嫌悪と怒りを感じても、「自分が不潔なわけではない。不潔なのは相手だ」と切り分けられます。しかし子供はその切り分けができません。様々な虐待の中でも、性的虐待が殊の外罪深い理由の一つです。
親による過干渉は耐え難くはあっても、「うちの親、こんなでね。もううんざり。あなたのところはどう?」などと友達に打ち明けることができます。「うん、わかる。うちもだよ、マジウザいったら!」と共感してもらえれば、少なくとも孤独感や罪悪感を感じずに済むでしょう。そして「自分の感じ方はおかしくない」と肯定できると、生じた葛藤を「親の絡めとりから出る」原動力にもできます。しかし性的虐待の場合は、決して口外できず、ひたすら事実を隠して演技し続けることを余儀なくされます。
被害者の子供の多くは、事実を隠し演技する技術を幼いころから身に着けている。彼らの心の奥は、恐れ、心の混乱、悲しみ、孤独、孤立感、などで一杯であり、そのように計り知れない大きなものを内部に抱えたまま外部の世界と普通に接するためには、本当の自分ではない嘘の自分を作り上げ、それを使って接するしかないからだ。
それは時として二重人格的な人間になることを意味する。
前掲書 下線は足立による
ただでさえ耐え難い苦しみを、隠して演技しなければならない。そして「誰にも言えない」「誰にもわかってもらえないだろう」という絶望感は、生き地獄そのものと言って良いでしょう。被害者は家庭の外の世界では一見快活に見えても、こうした修羅場を抱えて生きているのです。
悪人の支配の常套手段「秘密を握らせることで支配する」
ところで親に限ったことではありませんが、悪人が他人を支配する常套手段は、嘘と脅迫です。人間は恐怖と孤独、そして欲望に弱いことを知り尽くし、飴と鞭を巧妙に使い分けます。
「本当のことを言う人は、決してTVには呼ばれない」ことを、弊社ブログを継続的に読まれている方は既にご存知かもしれません。「本当のことを言う人」の比較的有名なところでは、馬渕睦夫元駐ウクライナ大使や、船瀬俊介氏、伊藤貫氏、林千勝氏、藤原直哉氏などが挙げられるでしょう。自分で情報を取っている人にはよく知られた名前ですが、TVだけが情報源の人には知られることがありません。
裏から言えば、「嘘を言って一般大衆を洗脳してくれる、好感度の高い人」がプロパガンダの手先となってメディアに再々登場します。
どうやって彼らは「洗脳したい側」の手先になるのか。それは見出しに書いた通り「秘密を握らせることで支配する」のです。「公に知られたら身の破滅につながること」をさせる、写真や動画などの証拠を撮る、そして脅す。脅すだけでは自殺してしまうかもしれないから、それなりの地位や仕事や報酬を与え、「良い生活」をさせる。つまり飴と鞭です。
これが悪人の支配の常套手段です。
「毒になる家庭」では、この相似形を無意識的に、子供を標的として行われてきたと言っても過言ではありません。「悪いのは自分」「ノーマルな家だと取り繕わなければならない」という嘘と脅迫を子供にさせてきた、ということです。
このことに氣づいて、逃げ出そうとした子供に、親が米とか果物とか、何か物を贈って来ると子供は非常に傷つきます。それはこの「悪人の支配の常套手段」をまだ自分にしてくることへの嫌悪であり、情けなさでもあるでしょう。
「子供の頃にされたことは、自分の責任ではない」
子供はどんな酷いことを親にされても、「自分の親が人間として失格だ」と認めるのが怖いのです。人を疑わない、氣持ちの優しい子供ほどそうなります。そしてその辻褄合わせのために、「それは僕が、私が悪かったからだ」と自分に言い聞かせます。更に無責任で腹黒い親は、子供が辛さを訴えても、共感せずに「被害者意識が強い。後ろ向きだ」などと裁き、子供の「私が悪かったのかな?」に乗っかって子供を貶めます。子供がそれに反発できればまだ良い方で、「良い子」ほど鵜呑みにし、しかしやり場のない悲しみや怒りは心の奥底に溜まっていきます。
見出しの通り、「子供の頃にされたことは、自分の責任ではない」これを受け入れることが最初の難関と言っても良いでしょう。これは子供自身が、精神的社会的に自立できていることとセットです。親に精神的或いは経済的に依存しておきたい、しかし「子供の頃に親に酷いことをされてきて、それは自分のせいではなかった」は両立しません。また親に怒りを感じても、それを分離・自立の原動力にするのではなく、親に依存しながら復讐し続けて一生が終わる例も少なくありません。またその復讐心を、親ではなく、より立場の弱い人に撒き散らす例も、枚挙に暇がありません。毒になる親は、誰でもない我が子にそれをし続けました。自分も同じことをしてしまえば、同じ穴の狢です。
「子供の頃にされたことは、自分の責任ではない」これは当たり前のようで当たり前ではなく、厚く重い鉄の扉を、誰でもない自分の手で開けようとすることです。周囲には中々理解されづらいことですが、大きな、そして価値のある仕事だと捉えて頂ければと思います。
「自分は何が好きか」五感に意識を向けるところから
「家の秘密を負わされてきた」子供は、素直で自然な感情を表現できなかったために、自分が何者かを見失ってしまっても無理はありません。しかし「私は何者か」がわからずに、自分の幸福、自分だけの目標を持ちようがありません。
過去に自尊心を踏みにじられたことに、理不尽さを感じることさえできなくなっていれば、まずは今の日常の中で、ご自身の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)に改めて意識を向けてみましょう。言うまでもなく、私たちは世界をまず五感を通して受け取っています。脳は大変素早く反応するので、普段は余り意識出来ていないかもしれません。
自分の悩みで頭が一杯な人は、食事をしていてもどんな味がしているか、感じ取れなくなっていないでしょうか・・・?食事中ずっと味覚に集中するのが難しければ、最初の五分だけ、スマホやTVを見ながら食べるのはやめて、味や匂いに集中してみます。お味噌汁の味も、毎日同じようで、少しずつ違っています。そして自分の好みはどのようなものかを探ってみます。五感に意識が向いている時、人は「今、ここ」に集中できています。悩んでいる時は「今、ここ」を感じていません。
お味噌汁の味が、濃いのが好きか、薄めが好きか、具は何が好きか、季節の食材の独特の味わいなどにも意識を向けます。このようなことは、心の悩みとは一見無関係に思われるかもしれません。しかし、自分が何が好きで、どのような環境にいれば自分は心地よく、ただただ安楽なだけではなくて、生き生きとしていられるかは、自分だけがわかり、そして決められることです。それが「自分を大切にして生きる」基本です。そのレーダーを磨く練習と捉えて頂ければと思います。
魂のことやん!肝心よ?何が好きかってゆーことは
それやらんで「彼氏とうまくいかん」とか 友達にグチこぼすのはおカド違いやで
槇村さとる「イマジン」
また自然の中を歩くのも、五感を刺激するのにとても良い方法です。その際もスマホに噛り付いていたら意味がありません。スマホに噛り付いてばかりだと、五感を使えなくなって感覚が鈍り、視野が狭くなってしまいます。遠出をしなくても、近所の比較的自然が豊かなところで充分です。近所の散歩ならスマホは家に置いて、季節の変化を意識して感じ取ってみます。「蒸し暑い季節がやっと終わってホッとした」「今年は金木犀の花が咲くのが遅いな」こうしたささやかな氣づきも、「自分が何者であるか」を取り戻すために、とても大切なことであり、「お金がかからずすぐにできる」小さな一歩の意義なのです。