自分の必要に責任を取る・燃え尽きてしまういい子にならないために
前回の記事で、子供に責任感を持たせることの意義について述べました。無責任な愛はありません。言語矛盾です。氣持ちは優しくても実際には無責任な人はたくさんいて、私たちはそういう人達を「愛のある人」とは思いません。
ただ一方で、責任感が強い人ほど他人の皺寄せを受けて自分がパンクしたり燃え尽きてしまうことも、決して珍しくありません。
燃え尽きるとは、自分の必要(ニーズ)を満たせていないために起こります。必要とは、例えば充分な休養や、自分の痛みや苦しみをケアすること、そして何よりも、自分の力量以上の、そして自分のものではない責任を安易に引き受けないことです。昨今のことで言えば「他人に風邪を引かせないために、無症状なのにマスクをしたり、治験中のワクチンを打ったりしない」ということです。
「私はこんなに我慢してるのに!」といつか爆発することも自己主張が苦手だったり、「自分は我慢して相手に譲ることが常に美徳」と思い込んでいると、「自分さえ我慢すれば」が癖になってしまうことがあります。見返りを求めずに相手のため[…]
自分のニーズを満たせないとは、著者の言葉を借りるなら「他者の痛みを感じるレーダーはあるが、自分の方に向けられたレーダーは壊れている」状態です。私たちは他者の痛みも、自分のニーズも、両方感じ取れるレーダーを育て守らなくてはなりません。そしてそれも、誰かが成り代わってやってはくれません。
子供に自分のニーズを表現させる
著者によると、子供のニーズを自分で察知し、責任を取れるようになるために、具体的に親が子供に何をさせるかは以下の通りです。上述した表現を使えば「自分の方に向けられたレーダーを育て、機能させる」と言っていいでしょう。
- 子供に自分の怒りについて話させる。
- 自分の悲しみ、喪失感を表現させる。その際、彼らを元氣づけたり、そのような感情から脱出させようとしない。
- 疑問に思うことは質問をさせる。
- 子供が落ち込んでいるように見えるときに、彼らが何を感じているのか尋ねる。自分のネガティブな感情を表現するよう助ける。見せかけの協力や家族の親密感を演出するために、聞いたことを軽く受け止めてはいけない。
これらは、親自身がまず自分に対してできる必要があります。自分の怒りや悲しみを、自分の言葉で表現でき、恥じたり、否定したり、厄介者扱いしたりしないことです。ただただ被害者になりっぱなしになるのは、自分の感情を厄介者扱いしているからです(「あの人のせいでこんな氣持ちにさせられた」)。怒りや嫌悪感は否定せず、抑えつけずに寧ろ感じきり、「この感情は自分のもの。良くも悪くも自分のあり方の反映」と大事に受け止められることと、被害者になりっぱなしには、やはり違いがあります。
自尊感情は無条件のもの自尊感情(self-esteem)とは、「どんな自分でもOKだ」という充足感の伴った自己肯定感です。お金や能力や美貌や、学歴や社会的地位など条件で自分を肯定していると、その条件が消えたとたんになくなっ[…]
まず第一の局面は、このように自分の必要を、感情を正直に表現することで見極めることです。
「私の人生は私次第」が、自分の必要を自分で満たせる打たれ強い子供に
自分の必要を自分で満たす第二の局面は、他人の援助は受けても頼りきったり、まして丸投げするのではなく、自分の面倒を責任をもって見ることです。
著者は「子供たちは家族の元を離れ独り立ちする前に、次のことを確信しておく必要があります」としています。
- 人生における私の成功や失敗は、私次第である。
- 慰めや教示を求めて神や他者を仰ぐべきだが、私の選択に責任を負うのは私だけである。
- 私はいつでも自分にとって大切な人から深い影響を受けるが、私の問題は私の責任であり、他者のせいにしてはいけない。
- 失敗することは避けられないし、支援を受けることも必要だが、過度な責任を持って私を霊的、感情的、経済的、そして人間関係での危機から毎回救ってくれるような個人に頼ってはいけない。
こちらには何の落ち度がなくても、理不尽な目に遭うことも、おかしな人に絡まれたりすることも、やっかみ半分の嫌がらせを受けることも起こります。天使の仮面を被った偽善者にまんまと騙されることも。しかし、道義的責任は完全に相手にあることであっても、対処する責任を負うのは自分しかいません。嫌がらせをした人が、仮に金銭的な賠償はしたとしても、生活の立て直しや、精神的なケアまでこちらのためにやることは決してありません。例えば犯罪被害者の心の傷は、セラピストなどを「使って」、その人自身が自分を癒していかざるを得ません。
また4番目の項目の「危機から毎回救ってくれるような個人に頼る」は、あたかも何か困ったことが起きればドラえもんに泣きついて、4次元ポケットから魔法のグッズを取り出してもらい、何とかしてもらうことから抜け出せないのび太のようです。いい大人になってものび太のままでいる人に、出会ったことがないでしょうか・・?境界線における責任とは、「のび太にならない」こととも言えるでしょう。
本書に、高校生の娘に「安全な苦しみ」を課した賢明な親の例があります。娘パットが高校に入学した時、両親は一学期分のお小遣いをいっぺんに彼女に渡しました。学校での昼食代、衣類、友人との外出代、クラブ活動の費用はそこから支払い、多少のお釣りも出る充分な額でした。
一学期目の最初の一ヶ月は、パットは「優雅な」生活を送りましたが、その皺寄せを受けた残りの二ヶ月半は貧相なもので、友達と遊びに行くのもままならず、洋服を新調することもできませんでした。彼女は「蒔いた種の結果」がどのようなものか、これで身に染みて学ぶことができたのです。
二学期目は学習した結果を活用し、うまくやりくりしました。二年生になると、銀行に自分の口座を開き、もっと計画的にお金を使うようになりました。自制心が未熟なら、買い物依存症になるところを、大して必要のない雑誌や衣類やCD、食べ物に「No」を言えるようになったのです。
また記事を改めて書きますが、自分自身に「No」を言える力は、他人に「No」を言うのと同等かそれ以上の力を発揮します。こうした「自分自身の生活を、自分で管理できる」自信は、他人と比べて持つ優越感などとは全く質の違うものです。
他者の限界を尊重する
他者の限界を尊重するとは、子供にとっては「周囲はいつも自分に都合よく接してくれるわけではない」を学ぶことです。自分がやりたい遊びを、お友達もやりたいと思っているとは限らず、お母さんはいつでも自分の相手をしてくれるわけではありません。
「お腹すいた!なんかない!?」とお母さんに叫べばいつでも何かがテーブルに用意されるわけではないことを、子供の発達段階に応じて学ぶ必要があります。小学校高学年にもなれば、ラーメンくらいは自分で作るとか、それも面倒なら卵かけごはんで自分の空腹をとりあえず満たし、いちいち誰かを煩わせない、これも「自分のナップザックを自分で背負う」の一環です。40歳を超えても「自分の空腹はお母さんが用意して満たしてくれる」から抜け出せない大人も存在します。
他人の「ノー」を受け付けない子供を見たことがありますか。自分の欲しいものを手にするまではいつまでもぐずぐずと言い続けたり、しつこくねだったり、癇癪を起こしたり、不機嫌になったりする子供です。問題は、他者の限界を嫌い、抵抗することを長く続ければ続けるほど、より一層他者に依存するようになることです。自分のことは自分でするのではなく、他者が自分の面倒を見てくれるのが当たり前と思うようになるのです。
「子供だけじゃなくて、大人だってそんな人は大勢いるよ」と思われるかもしれません。こちらが根負けしたり、罪悪感を掻き立てられて、相手のために何かをするように仕向ける人達のことです。そうした人達は何歳であろうと、境界線は子供の頃のまま未発達なのです。
このように、他者の限界を尊重するのが大切な第一の理由は、自分のことは自分で責任を取る、自分の面倒は自分で見るという基本的な自立のためです。
そして第二の理由は、他者の境界線に氣を配ることで、子供たちは愛することを学ぶからです。有体に言えば、相手の痛み、相手の必要に共感し、心を配るということです。
先の「空腹時に自分でラーメンを作る」例で言えば、自分で作って食べたはいいけれど、片付けをせずほったらかしにする、ありがちなことかもしれません。しかし、鍋や食器が独りでに魔法のように片付いたりはしません。自分が片付けなければ、家族の誰かがそれをやらなくてはならない、それは些細なことかもしれませんが、その誰かの境界線を破っています。相手に「片付け」という痛みを押し付けています。
「何で片付けまでしないの!まったくもう!」と怒って文句を言うだけだど、しぶしぶ「はーい」と返事はしても「うるさく言われるから片付ける」になりかねません。それは自分で自分の責任を取り、相手の痛みに心を配るあり方ではありません。
「確かに片付けは面倒かもしれないね(実際に面倒だからほったらかすのです)。でもあなたが後片付けをしなければ、他の誰かがあなたの代わりにその面倒なことを引き受けるんだよ。それってどう思う?」などと伝えてみます。ゴミのポイ捨てをすれば、そのゴミは誰かが拾わなければずっとそこにあるのと同じです。
愛するとは痛みがわかること、相手の必要に心を配ることです。そして自分の限界を超えて、相手の痛みや必要を「私が何とかしてあげなくっちゃ」でもない。大人であってもこの区別は難しく、混乱するものです。大人でも難しいこの境界線の尊重を、子育てを通して共に学び合う、子供たちはそのために、私たちの元に来てくれるのかもしれません。