「やりたくないことをやる」「やりたいことがやれない」のは誰にとってもストレス
「あの人が本当に私を好きかどうかわからない」・・恋愛している人なら不安に思うものでしょう。
恋人がどんなに「好きだよ」「愛しているよ」と言っても行動が伴わなければ不安になるのが当然です。口では何とでも言えるものです。
人間の本音は行動に現れます。
どんな人も「やりたくないことをやる」「やりたいことがやれない」時にストレスを感じるものだからです。
恋人が貴方に会おうとしない、その行動に移そうとしなければ、そのお相手は貴方に「会う」と「会わない」を天秤にかけて、「会わない」を結果的に選んでいます。事情が何であっても
「会ったら楽しそうにしているが、自分からは会おうとしない」も、「自分から会おうとすること」にストレスを感じている状態です。責任を持ちたくないとか、自分から誘って断られたら傷つくという自分の都合や、誘われている状態が心地よい、虚栄心が満たされるなどが理由でしょう。
もし「私から誘うばかりで、相手からは会おうとしない」状況に迷いを感じるのなら、思い切ってこちらから誘うのをやめてみます。相手からは誘おうとしなかったり、いわんや「貴方から誘わないこと」を不満氣にするのなら、それが相手の本音です。「自分から誘ってまで会いたくはない」「(貴方その人と関わることではなく)誘われる状況が欲しい」ということです。
「もう会社なんかやめる!」と口で言っても、中々やめようとしないのは、「やめる」方が「やめない」よりも結局はストレスがかかるからです。
人はどんなに嫌なことであっても、何かと何かを天秤にかけてそれを「選んで」います。無意識的にではあっても。
愚痴や文句を「いつ、誰に向かって、どのように」言うか言わないかの分別は大人に求められます。一方で人間「そうもしないとやってられない」こともたくさんあります。居酒屋で鬱憤晴らし大会をするのも生身の人間の様相です。
ただ、「何かと天秤にかけて、やむを得ずであっても自分がそれを選んでいる」自覚があるかないかで、嫌なことの受け止め方はずいぶん変わるでしょう。
「本当に思いやりのある人なら、その行動はとるか」
人間の本音は行動に現れる、これは人間関係の様々な場面で応用できます。
優しそうに振舞っているから、或いは美談や美辞麗句を言っているからと言って、その人が「本当に優しい人」かはわかりません。
貴方が不愉快になるような言動を相手が取った場合、相手にもやむを得ない事情があったり、氣持ちに余裕がなかったり、あとで謝ってくれたりということもあります。自分の方の視点が低く、相手の真意がわからないこともあります。ですので、一つの行動だけで全てを決めつけてしまうのは避けた方が無難でしょう。
しかし、度重なる場合は、「本当に思いやりのある人なら、その行動は取るかどうか」を考えてみましょう。「仏の顔も三度」のことわざ通り、三回重なったらそれはその人の本性です。
痛みを伴うこと、手を汚すこと、憎まれ役を買うことから逃げていないかどうか。言葉と言葉、言葉と行動に一貫性があるかどうかです。人は前言を撤回することもありますが、納得できる理由があるかどうか。場当たり的に「いい顔をする」のは、誠実であるとは言えません。
危機、遠慮が要らない相手、お金に現れるその人の本性
特に危機の時に取ったその人の態度、行動、選択が、その人の本性です。危機は予め望むことではありませんが、その人の仮面を剥ぎ取ってくれます。なので悪いことばかりではありません。自己保身が全くない人はいません。しかし、自己保身のために何を犠牲にし、その結果何が引き起こされ、それを相手がどう受け止めているかがその人の本性であり、真価です。
浮氣がバレて大騒動になった。配偶者だけでなく、子供や他人様まで巻き込んで多くの人が傷ついた。その時は泣いて謝って見せても、少し時間が経った後に、真剣に後悔しているかがその人の本音であり、本性です。
他人にはいい顔をしても、自分の家族には冷淡というケースも多いです。遠慮の要らない相手ほど、その人の本性が現れます。交際相手がお店の人やタクシーの運転手さんなどに横柄な態度を取るのなら、それは結婚後の貴方に取る態度です。立場の弱い人にも親切に、そして同じ目の高さに立てる人は信用できるでしょう。
また、人間の本性はお金に絡むことに出やすいです。どんなに口ではいいことを言っていても、嘘偽りを言ってお金を得ようとしていたり、お金を返さなかったら、そちらがその人の本性です。千円程度の少額のお金だと、こちらも「返して」と言いづらいものです。「いつもお世話になってるし、お茶菓子代と思っておこう」などと自分に言い聞かせておしまいにすることもあるでしょう。しかし、余程の健忘症でない限り、相手を大事に思い、また自分の品位を大切にする人なら、そのままにしておく方が嫌だと思うものです。
自分の本音が現れる5つのポイント
そしてまた、自分の本音がわからない、自分が本当はどうしたいかがわからないことの方が、より辛く感じるかもしれません。
誰かに尋ねても、ネットで検索しても、自分の内側にしか答えはないからです。
「世間一般で良しとされている、評価されている、自分も何となく憧れていること」と「自分が本当に望むこと」は違っていることがあります。
例えばSNSなどで、知り合いが海外まで飛び回って活躍している姿を知り、「わあ、すごいなあ、かっこいいなあ」と思ったからと言って、自分の本音がそれを望んでいるとは限りません。
本音では望んでいないのに他人と比較して「私ってしょぼい毎日・・」などと思ってしまうと、本音を無視した生き方になりかねません。
自分の本音が何を望んでいるか、その答えは意外なところに現れています。以下に主だったものを5つ挙げます。
① 時間
通勤時間にどんなことをしていますか?仕事以外の時間は、誰と、どのように過ごしている時間が多いでしょうか?
例えば通勤時にスマホで何となくネットを見ていたとしても、全ての分野を平等に見ているわけではありません。どんな分野に一番多くの時間を使って見ているでしょう。
② お金
家賃や光熱費以外の、可処分所得をどのようなものに使っているでしょうか?
これは金額の多寡ではなく、「意図的にそれに使っているか」です。例えば「外食やお惣菜を買って帰るのはできるだけ避け、自炊するようにしている」のなら「自炊で得るもの」を重要視している、ということです。
自炊によって栄養のバランスを取りたい、と考えているのなら、健康を重視した生活を送りたい、が本音になります。
③ 空間
家の中に置いてあるものは、その人の関心事を現しています。
「ギタリストになりたい!」と口で言っていても、ギターもなければギターのカタログすらなく、ギター曲が全く部屋の中に流れていないとします。その場合、その人が本氣でギタリストになろうとしているとは思えないでしょう。
①~③の時間、お金、空間は、仮にそれが増えても、新たな関心事が増えない限り、今使っているものに更に当てるようになります。
例えば、今、美容に時間やお金を使っていたら、さらに上乗せして、もっと高級な化粧品を買う、エステに行く回数が増えるなどに使うようになります。
逆から言えば、「今全く時間もお金も空間も費やしていないこと」は「本当はやりたくない、もしくは関心がないこと」になります。
④ 話題
おのずと口に上る話題がその人の関心事です。配偶者や子供に関する事や、職場の人に対する愚痴以外に、どのようなことを話題にしていますか?またインターネットの「ブックマーク」には、その人の関心事が凝縮されています。
「どうにもできない他人をどうにかしたい」の割合が大きければ大きいほど、脳の中は「どうにもできないこと」に乗っ取られてしまっています。
⑤ 一緒にいる人
この一年間、プライベートの時間を割いて実際に交流した人はどんな人でしょう。
ただ何となくの知り合いではなく、実際に交流があるかどうかが重要です。
「その人との交流がなくなったら辛い」と感じる人は、どんな人でしょう。その人の良さはどんなところでしょう。
①~⑤は全て「自分が心地よく感じるもの」「自分の心が欲しているもの」を示しています。いずれもそれなりのリソース(資源)を費やさなければ、手に入れられないものだからです。
友人知人が海外旅行やレストランでの写真をSNSでUPしていたとしても、自分のパソコンやスマホに海外旅行やグルメのサイトがブックマークされていなかったら、自分の本音は「大して関心がない。欲しがってない」です。
「何もしたくない!ただ寝ていたい!」も「今の自分の心が欲しているもの」です。
「自分は自分で良い」は、本音を大切にし、忠実に生きることです。
「本音と裏腹」は反動形成
自我が未成熟で自尊感情が低い時、人は「反動形成」と言って本音と裏腹なことをやることがあります。男の子が好きな女の子をいじめてしまうようなことです。
これは「あの子を好きな氣持ちを受け入れてもらえなかったら、もっと辛くなる。でも無関心でいてほしくない。だからいじめて関心は引きたいが、好きな氣持ちは悟られたくない」です。
こうした時、万が一にでも女の子から告白されても、自分に自信が持てないので急に冷めて、断ってしまいます。「好きだけれど付き合うのは怖い」が本音です。
子供の頃にこうした経験をするのは通過儀礼ですが、いい大人がやることではありません。
大人は自分の本音がわかった上で、その通りの選択をするのか、今は本音を抑えるのかを、自分の責任で選択できる必要があります。それができないと察してちゃんになってしまいます。察してちゃんはかまってちゃんのバリエーションです。察してちゃんもかまってちゃんも、自分の本音に向き合えていない、責任を負おうとしない未熟さの現れです。
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地味で目立たないことに現れるその人の真価
その人の本性は危機の際に現れます。真価が試される時と言えるでしょう。しかしまた、思わずやり過ごしてしまいそうな、目立たない態度にもその人の真価は現れます。
本当に優れた態度は目立ちません。少なくとも目立とうとはしないのです。
私が30代の初めに、北摂にある修道院で一日黙想会に参加しました。黙想会は基本的に沈黙を守り、各人一人で祈ります。そして一日の内に何度か神父の講話や聖堂での祈りの時間があり、その合間に希望者は神父に面談を申し込めます。
その日の講話のテーマは「あるがままの自分」でした。面談の際、まだ若かった私はかなり率直に、「私はあるがままの自分で良いとは思えないし、他人に対してもそう思えない」と神父に申し上げました。
神父はまず私がその日のテーマを真面目に考えようとしたことに、感謝を伝えて下さいました。そしてその中身を議論するのではなく、いくつかの話をして下さいました(その話の内容はすっかりわすれてしまいましたが)。そして聖堂で、マニフィカトを3回唱えて祈るように指導されました。
「人は皆あるがままで良い」とは、人の話を聞いたくらいでどうにかなるものではありません。それは誰でもなく神父ご自身が一番よくわかっていたでしょう。
あの時の神父が私に取った態度こそが、「貴方はあるがままで良い」というメッセージだったと氣づいたのは、それから15年ほども経ってからでした。
そしてあの態度はそう簡単に取れるものではないとわかったのは、更に数年後のことでした。