レジリエンスとは「困難が起きても大丈夫な自分」
レジリエンス(resilience )とは再起力という意味です。
当Pradoの心理セラピーは、「嫌な問題や症状が取り除かれること」を目指しているのではありません。
セラピーが完了した後も、どんな人生にも「嫌なこと」「あらかじめ望みはしないこと」「困難に思うこと」は起こります。
当Pradoでは、「困難が起こっても大丈夫な自分」を実感できることを目指しています。
これを横文字で言うと、レジリエンスのある人になります。
危機が起きた際の反応の3パターン
ところで、思いもかけぬ危機(災害、事故、トラブル)が起きた時、人間の反応には大きく分けて3つのパターンがあります。
- レジリエンス(再起力):悲惨な出来事にショックは受けても、健康的な食事を取ったり、眠ったりでき、今後の計画を立てられる。
- リカバリー(回復力):悲惨な出来事が起きた直後は呆然とし、眠れなかったり仕事ができなかったりするが、しばらくすると元に戻る。
- クロニシティ(慢性化):危機的状況が慢性化し悪化する。
大多数の人はレジリエンスもしくはリカバリーを持っていますが、少数の人は慢性化します。
日本人は白人に比べてレジリエンスが高い傾向があるそうです。それは「人生は元々楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」「四苦八苦があるのが当たり前」とする文化的な価値観のためでしょう。
白人の中でも特にレジリエンスが低い人は「人生はハッピーである”べき”だ」と考えているため、起きた困難に対し被害者意識を持ちがちで、結果慢性化しやすいのだそうです。勿論白人でなくても、「人生はハッピーである”べき”だ」即ち「困難は人生から取り除かれるべき」という被害者意識、引いては「誰かが何とかしてくれる。やるのは私ではない」の依存心が強ければ強いほど、レジリエンスは低くなります。
嬉しいことも辛いことも、込みでの人生であり、勝つことも負けることも、両方を知っていてこそ真の王者になれる、これがレジリエンスの高い人の考え方です。あらかじめ望んだことだけが起きる、そんな人生はありえませんし、それを望む方がどこか歪なのです。
レジリエンスはどんな人にも
レジリエンスは誰かにできて、誰かにはできない類のものではありません。
ヴィクター・フランクルの「夜と霧」は、第二次世界大戦中にユダヤ人強制収容所で、奇跡的に生き延びた精神科医の記録です。全世界中でロングセラーとなり、日本でも数多くの人が座右の書に挙げています。
強制収容所を生き延びることが出来たのは、必ずしも若者や体の丈夫な人ではありませんでした。地獄の生活の中でも、その苦悩の意味を見い出せた者が、生き延びられた、つまりレジリエンスの高い人だったのです。
このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということに対して担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。
自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。
「夜と霧」より
それでは以下に、レジリエンスの高い人の3つの特徴を見ていきます。
①事実の受容と目標の変更ができる
危機に際した際、最初の関門がこの事実の受容と目標の変更と言っていいでしょう。
元々パフォーマンスが高い人が、例えば脳梗塞などで体に麻痺が起きた場合、元々の目標(会社を経営する、社会的に大きな事業に取り組むなど)を変更する必要が起こります。
それは「自分で食事が出来る」「トイレに一人で行ける」「本を一行だけ読む」など、それまでやっていたパフォーマンスとは比べ物にならないほど”小さい”ことから始めなくてはなりません。
レジリエンスの高い人は、それを情けながったりせずに、受け入れることができます。
「起きたことは起きたこと」という事実を受容し、常に「現在地点から出発する」習慣が付いていればこそでしょう。
体の麻痺などの大きなトラブルでなくても、常に日ごろからトラブルや困難を、見て見ぬふりや、他人に押し付けて自分は逃げたり、ただただ愚痴ったりするのではなく、「そこから出発する」態度を培っていればこそ、大きな危機に直面しても同じ事が出来ます。どんなことでも、「今に始まったことではない」のです。
脳梗塞後、リハビリを続けている長嶋茂雄さんは、「夢は何ですか?」と尋ねられて、「走りたいね」とおっしゃいました。「俺は戦後最大のスーパースターだったのに、今では『走ること』が夢だなんて、ああ情けない」とは決して思わないのです。
フランクルはチフスで高熱を出した時も、強制労働をしなくてすむ病棟の中で、密かに集めた数十枚の小さな紙切れに速記記号で論文の原稿をびっしりと書きつけていました。
強制収容所の中でも、チフスに罹っても「その地点でできること」を探し出した、これが彼を支えたのだと思われます。
②大局観(相対化する力)
トラブルに見舞われると、まるで地球上にそれしか存在していないかのような錯覚を起こすことがあります。
部屋の中にゴキブリが出ると、まるで地球上にそのゴキブリと自分しか存在していないかのように。しかし事実はそうではありません。
「悩みにはまりこむ」とは、その悩みと自分しか存在していないかのように錯覚してしまうという状況です。つまり絶対化です。しかしその状態で問題が解決することはありません。
フランクルが強制収容所にいた際、彼は「いつの日かこの収容所の体験を、多くの聴衆の前で講演している自分」を想像しました。この地獄の日々は「絶対的」なものではなく、いつか終わる。
その終わった地点から今を振り返り、その時のためにこそ今の苦しみがある、と大きなスコープの中に位置づけました。
このスコープは時間や空間的なものだけではなく、どれだけ高次元の中で物事をとらえるか、ということでもあります。
フランクルはこう語っています。
わたしたちはおそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。ではこの人間とはなにものか。人間とはなにかをつねに決定する存在だ。
人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。「夜と霧」より
弊社の心理セラピーのおいても、この時間的にも、次元の高さにおいても、物の見方を広げることを基盤としています。
③人間に対する信頼
辛い状況に置かれた時、家族や友人の温かい励ましを得られることは、再起への大きな力となるでしょう。人は共感なくしては、人間らしく生きてはいけません。
しかし、「今現在すぐそばに」それらの人がいるかどうかということよりも、心の中に愛し信頼に足る人が(既にこの世にいなかったとしても)住んでいるかどうか、また、見ず知らずの人とも助け合い、自分から相手に心を開くことが出来るかどうか、常日頃から人との関係を嘘偽りなく築いているかなどが問われます。
フランクルは「夜と霧」「死と愛」で、ある強制収容所の囚人のエピソードを紹介しています。
強制収容所での過酷な労働と慢性的な飢えと寒さを耐えるにあたって、彼は「天との契約」を結びました。
「もし自分が死ぬのなら、その分愛する母を生きながらえさせて下さい。私はこの苦痛を耐えますから、その分母に苦しみのない死を迎えさせて下さい」と天と契約を結んだのです。
この間、彼は母親が生きているかどうかは知らなかったそうですが、それは全く問題ではありませんでした。彼は苦しみに耐えるごとに、母親との心のつながりを「天との契約」を通して強めていったからです。
こうしてその囚人にとって、苦悩は苦悩に終わらず、愛する母親へのギフトになりました。彼は苦悩に母親への愛という意味づけをし、自分を単なる被害者にとどめておかなかったのです。
強制収容所は彼からあらゆる自由を奪いましたが、この母親への愛と、苦悩をギフトに変える心の自由を奪うことはできませんでした。
レジリエンスは常日頃から、そして危機が起きた際にも
レジリエンスは危機が起きる以前の平凡な日常、即ち平時での積み重ねによるところが大きいです。平時でできないことは、危機の時には尚更できません。
しかし人間はまた、「どんな場所からでも再起できる」これもまたレジリエンスです。
そしてこれら3つの特徴は、いずれも、後天的に身に着けるものです。人間の高貴さとは、やはり意識的な努力のたまものです。
人間は快は感じたいし、不快は感じたくはありません。
しかし、快か不快かだけで生きていると、人間になりそこなうのだと、フランクルの再起力が教えてくれるかのようです。